法隆寺夢殿救世観音 (Nov.1, 2003)

 法隆寺に着いたのが三時を回ったころだった。
 本堂へ入らずに、右に曲がり石畳をまっすぐ夢殿へ向かった。
 明るい外から格子越しに中を見るとすごく暗く感じた。いったいどこにいてはるのか、すぐには判然としなかった。
 徐々に目が慣れてくると、救世観音は夢殿中央の厨子の中に南面して立っていた。
 写真では何度か見たことはあるけれど、実物を見るのはこれが初めてだ。
 仏さんにしては、面長の人間らしい顔つきである。
 薄暗い中で見たせいか、不気味でさえあった。
 わりと背が高く、伏目がちに見えた。

 「ひょっとしてこれは聖徳太子の実像に似せているのではないか。聖徳太子って、ほんとはこんな顔だったんだ」
 当否はともかくそんな実感を持った。
 ひと目に曝すことなく秘匿され続けた救世観音。
 太子を解く鍵がありそうな気がした。じつは聖徳太子については何にも知らないけれど。

 裏の中宮寺へ弥勒菩薩を見に行く。
 まだ学生の頃だった。学園坂のアパートに住んでいたときだ。『あしたのジョー』を2冊ほど持って電車に乗り法隆寺へ来た。
 たしかそのときも救世観音を見に来たつもりだったが、あいにく御開帳の時期ではなく、この弥勒菩薩を見て帰ったように記憶している。
 それ以来だ。四半世紀を越えて再び対面することになった。
 靴を脱いで、すぐ近くで拝見する。

 もうひとつ、夢違観音も見る予定だったが時間も遅いので本堂へは入らずに細い路地を北へ歩き近所を散歩することにした。
 法隆寺の裏から畑へ続く道に入ると柿がたわわに実っていた。
 ひとつ失敬すると鐘が鳴った。時計を見ると四時である。
 ただし、柿は渋かった。

 引き返し、法輪寺、法起寺と書かれた方へ歩く。
 予備知識もなくただ歩いたに過ぎないが、もう少し歩けば山背大兄王と言い伝えられている墓があったようだ。この墓は、中宮寺からときどき見回りに来られるそうである。たぶん、本当に彼の墓ではないかと思われる。この山背大兄王の死によって太子の血脈は途絶えた。
 引き返して再び石畳を歩く頃はもう日が暮れようとしていた。

 この法隆寺の西300mほどのところに近年発掘された藤ノ木古墳がある。
 盗掘もされていず、むしろ後年までずっと近在の人たちによって祀られていたらしい。
 うろ覚えだが江戸期の灯明皿が内部に残っていたとのことである。
 被葬者には諸説あるが、管長の説では崇峻天皇らしい。
 じつは、僕もそうだと思うようになってきた。崇峻天皇は聖徳太子のおじにあたる。

 救世観音といい、藤ノ木古墳といい、斑鳩の人たちにとってはとても大切だったことが窺える。

 法隆寺およびその周辺は悲劇的な末路を強いられた一族のまさに墓場なのだ。残されたいわば末流の人たちは、彼らを厚く葬り祀ることによって、かつての栄華を偲んでいたのかもしれない。あるいは、もはや抗すべくもない蘇我氏本流に目を伏せ関わることを避けてひっそりと暮らしていたのかもしれない。