町石道―九度山から高野山根本大塔へ、同行二人 (Dec.23, 2003)

 ここふた月ほど引きこもっていたから、体力はずいぶん落ちていることだろう。途中で駅へ下ってもよい。
 というわけで、九度山から町石道(ちょういしみち)を高野山根本大塔を目指して歩いてみることにした。

07:35 九度山
 駅で地図をいただき、慈尊院まで往還を歩く。初めてのことであり、どっちへ行っていいかわからない。途中でおばさんに尋ねる。「ああ、この道をまっすぐ」。
 途中、真田庵に立ち寄る。六文銭の印がお寺の扉にあった。

 このあたりは伊都郡になる。伊都と言えば魏志倭人伝に「伊都国」が出てくる。その余の旁国に「支惟国」がある。前者は福岡県前原で間違いない。後者は佐賀県の基肄ではないかと思っているけれど、伊都、紀伊ともに何か関連があるのかもしれない。

08:00
 慈尊院。
 慈尊院と言えば、有吉佐和子『紀ノ川』の冒頭で、おばあさんが孫娘の手を引いてお参りに行くお寺だ。おっぱいがいっぱい奉納されていた。
 そこから階段を登ると丹生官省符神社。階段のそばに180町石があった。
 じつはまだこの時点では、町石道の意味もよくわかっていなかったのだ。この慈尊院、丹生官省符神社が高野山への登山口になっている。
 農道を登っていくと一定間隔でこの石が建っている。179町、178町と数をひとつずつ減らしながら。
 改めて、駅でいただいた地図を見るとどうやら高野山根本大塔が起点になっているようだ。慈尊院、丹生官省符神社は根本大塔から180町のところにあることになる。
 一町はおよそ108m。180町で約20kmと言うことになる。町石道には、一町ごとにこの町石が建っているのだ。
 僕もじっさいそうだったが、この町石を見るたびに、「あといくら、あといくら」と思いながら誰もが高野山を目指してこの道を登ったことだろう。「南無大師遍照金剛」「遍路道」「同行二人」の文字が見える。
 そうか、この道も遍路道なのだ。
 一人で歩くときは、頭の中ではいつも誰かと話をしながら歩いているような気がする。そう、一人で歩いていても誰かと一緒に歩いていることになる。まさに「同行二人」である。

 農道脇には、熟した柿が今にも落ちそう。丘には緑の葉っぱに黄色いみかんがとても鮮やかだ。その上には青い空。
 ここしばらく寒い日が続いたけれどきょうは風もなく温暖である。
 
08:45
 丘を登って展望台へ。紀ノ川の向こうには金剛山や岩湧山が見えた。方位盤によると高見山も見える。「ああ、あれか」。
 近くでは高野三山が。中でも楊柳山のとんがりが目を引いた。

 みかん畑の道を抜けるといよいよ山道になるが存外平坦だった。平坦で道幅も広い。比較的楽に歩けた。町石の側面には、文永三年とか六年とかの文字が見えた。年表によると、文永年間は1264年〜1274年である。もともと木の卒塔婆が建っていたものを、この時代に石に差し替えられたものらしい。年号のない町石もあり、倒壊したものは後世補充されたようである。

09:40
 六本杉。
 ここで道は高野山への町石道と、いったん下って丹生都比売神社の方へと分岐する。若干遠回りにはなるが丹生都比売神社も前々から一度見ておきたかったところだ。分岐を右にとり下る。山道を抜けるとまさに里山の風情であった。

10:00
 朱塗りの鳥居が見えた。くぐるとこれまた朱塗りの太鼓橋がある。ところどころに残った雪と氷で滑りそうだったが欄干につかまりながら渡る。
 丹生とは水銀朱の意であろう。だから鳥居も太鼓橋も神社も朱色に塗っているのだろう。
 由緒書きによると、「丹生都比売大神は、天照大神の妹神で稚日女命(わかるひめのみこと)とも申し上げ、神代この紀伊国奄田(三谷)に御降臨され・・・」とあるが、記紀にはこの丹生都比売は登場しない。このあたりが、難しいところだ。以下は推測だが、誉田別(応神天皇)が天照大神(ご神体としては八咫鏡)を奉斎して、この紀ノ川を遡上した際、地元の有力者との協力関係が、丹生都比売大神=稚日女命=天照大神の妹神の伝承の根っこにあったものかとも思ってみたりするけれど。

10:20
 神社を出て標識に従って八町坂の方へ行くと途中に待賢門院の墓があった。待賢門院と言えば西行と関係のあった人だ。こんなところに墓があったのか。【注】

10:40
 八町坂を登り二つ鳥居に出て、再び町石道に合流。あと120町だ。
 先ほども書いたように道はしっかりしていて穏やかだし、荷物も軽いからわりと速く歩けた。ゴルフ場の横を歩く。
11:18 百町石。あと百町だ。
11:33 九十町石。ちょうど半分来たことになる。
 さすがにこの頃になると疲れてきた。左腿が痛くなった。
 六十五町石あたりで昼食。おにぎりをほおばる。
 ほどなく道は車道と交差した。ここから紀伊細川駅へ下りる道がある。
 道はほんの少し上り加減。さすがにペースが落ちる。今度は右腿の付け根が痛くなった。

12:45
 五十五町石のところに袈裟掛石。かつてはここが結界だったようだ。
 「あっ、ここは電車の吊り広告に載っていたところだ」
 今回、町石道を歩こうと思ったのも、この広告がいつの間にか頭の中に刷り込まれていたのだろう。
 
 四十町石のところで再び車道と交差する。いくぶん登って、あとは下りそして平坦な巻き道。もうだいぶ歩いた。あと一時間ほどだろうか?
 二十七町の鏡石を過ぎ、道は平坦にぐっと巻いたあとおそらく最後の登りにかかる。
 さすがに疲れた。
 十町石を過ぎる。大門が七町だからもうあとわずかだ。

14:30
 ジグザクに登ると、車道に出た。正面に大門がバンと見えた。ふう。やっと着いたぞ。
 なるほど、この町石道は高野山へのメインストリートだったのか。
 比較的歩きやすい道を付けていたのだ。百八十町の長さを歩き最後の急登を登りきると大門がそそり立っている。演出が行き届いている。

 大門をくぐり起点となる根本大塔まで、バス道を歩く。痛さでぎこちない歩き方になっていたが、道路脇の町石が六、五、四、三、二と町の数が減っていくのがまるでカウントダウンみたいな気分で、ついに一町石まで来た。

14:45
 そして、その先の角を曲がると根本大塔が見えた。
 日陰にはうっすらと雪が残っていた。
 僕は大塔の石段の日の当るところに腰掛けた。
 九度山から7時間10分。
 長期休養明けではあったがなんとか歩けたのもうれしい。

 病み上がり 同行二人の 遍路みち
   うららかな日に つつまれて  (字足らず)(^^ゞ







 【注】
 気になったので、白洲正子『西行』(新潮文庫)を読み返してみると、待賢門院のお墓は京都右京区花園の法金剛院にあるとのこと。五位山中腹に東面した「花園西陵」。
 また、西行は、久安五年(1149)32,3歳の頃から、約30年間にわたって、高野山に住んでいたとのこと。のちに町石道と言われるこの旧高野街道を西行もまた何度となく登り下りしたに違いない。

 白洲正子も九度山から丹生都比売神社、二つ鳥居と歩いたようである。