『さらば、わが愛―覇王別姫―』 (May 2, 2001)
Your Favorites のコーナーに、映画『さらば、わが愛―覇王別姫―』をご紹介いただいた。近くに、レンタルビデオもないので、原作(ハヤカワ文庫)を読んでみた。
垓下歌 垓下の歌 項羽
力抜山兮氣蓋世 力 山を抜き 気 世を蓋
時不利兮騅不逝 時 利あらず 騅
騅不逝兮可奈何 騅 逝かず 奈何
虞兮虞兮奈若何 虞や虞や 若
虞美人
漢兵已略地 漢の兵 已
四方楚歌聲 四方 楚歌
大王意氣盡 大王
賎妾何樂生 賎妾
力は山をも引きぬき、気は世を蓋うほどの項羽も、ついに時運が衰微し、孩下の地で劉邦に包囲されてしまう。時運も味方せず、愛馬の騅も駆けようとしない。いったいどうしたらよいのだ。
虞よ、虞よ、私はおまえをどうしたらよいのだ。
虞美人が和す。
大王の意気は尽きておしまいになった。ずっとあなたのそばにいたわたくしが、どうしてひとり生き延びて生を楽しむことができましょうか?
幼いときから京劇の稽古をしていた小石頭(後の段小樓)と小豆子(後の程蝶衣)は何百回となく、「覇王別姫」を演ずる。物語は、虞姫役蝶衣の、覇王役小樓への愛をテーマに展開する。なんと言っていいかわからないがずいぶんと濃ゆい感情だ。二人とも男である。
途中まで読んで、「おや? これは『日出る処の天子』の、厩戸皇子(聖徳太子)の蘇我毛人に対する感情と同じではないか。作者は、山岸涼子だった」
『覇王別姫』の原作者李碧華も女性である。この感覚は、男では書けないような気がする。
老いた二人が再会し、無人の劇場で「覇王別姫」を演じる。少し長いが引用する。
(一)
彼は刀を当てがって咽喉をかき切った。
小樓は蝶衣のかたわらに駆けより、傷口から流れる血を止めようとした。蝶衣は小樓の腕に抱かれて、その目を見上げた。
「蝶衣」
血が流れるにつれて、蝶衣は一種の満足が全身に広がるのを覚えた。観客の喝采を浴びるのに似ていた。それは大団円だった。完全なクライマックスだった。
「小豆子」と小樓が叫んでいた。彼の声は子供のころ陶然亭で音階練習でもしているように響いた。舞台は子供たちの声でこだまするようだった。
(二)
「小豆子。芝居は終わったんだ」小樓が蝶衣の体を揺すぶっていた。
(三)
蝶衣は正気に返った。光り輝く悲劇は終わったのだ。すべては偽りだった。愛のために死ぬ気はない。それは単なる冗談だったのだ。手のこんだ冗談だが、冗談に違いはない。
やがて彼はやっとのことで立ち上がった。埃を払いながら、彼は謎めいた微笑を浮かべた。
(四)
「わたしは昔から虞姫になりたかったんだ」
蝶衣の小樓への愛は決して芝居ではなかったはずだ。「芝居は終わった」と言う小樓との齟齬。
(三)は書かなくてもよかったのではないか。
原作では後半、中国の激動の時代を駆け足で絡めているが、この辺りはすこし不満が残った。もっと純粋にこの愛の行方、あるいは壊れ方を描いてもよかったのではないかと思った。
この本のカバーに数枚の写真がある。映画の中のシーンであろう。映画はどのように作られているか楽しみだ。