帰省記 (Feb.1/2,
2003)
1月17日(金)、上六のKO'Zでいつものメンバーで新年会。マスターの配慮で、山の付いた酒を用意してくれた。吟醸酒「常山」(一升瓶)、そば焼酎「帰山」(四合瓶)、名前を失念してしまった鹿児島の芋焼酎(一升瓶)、これも美味しかった。
全部空にしてもう一本出してくれたように思う。
ふらふらになって日付が変わった頃帰宅すると、
「おかあさんが心不全で入院しはったんやて。電話して」
「ほんまかいな?」
「こんなこと嘘ゆうてどないすんのよ」
とは言うものの「あの元気なおふくろが、まさか」とまだ半信半疑であった。
夜も遅いし、酩酊状態でもあり、そのまま炬燵で寝てしまった。
朝、コーヒー紅茶で水分を補給。ようやっと田舎に電話をする。
兄嫁によると、昨晩は兄も大牟田へ飲みに出て、兄嫁が飲み屋まで送り帰宅するとおふくろが呼吸困難状態で横になっていた。急遽玉名中央病院へ運び即入院。
心臓が通常の倍ほどに肥大していて、肺にも水が溜まっている状態だった。
酸素マスク等々で小康状態である。
それにしてもここしばらくのうちにずいぶん年を取ったように思う、一度見舞いに帰ったらどう?と。
夏休みも正月休みも子供たちのバイトの都合を言い訳にして不義理をしていたところである。
その後快方に向かっていて、検査のためにしばらくは病院にいるが、たぶん薬でなんとかなるだろう、もし手術になれば心臓外科のある病院へ移ることになるだろう。
兄によると、入院当日のおふくろは息苦しい中、生命保険の証書であるとか、貯金通帳であるとか、病院での着換えの類であるとかの一切をすでに用意していて、兄嫁の帰宅がずいぶん待ち遠しかったという。
いざとなったら息子は頼りにならないものだ。
救急車を呼べばいいものを、小さな田舎のこと周りにすぐ知れてしまうからと兄嫁の帰りをじっと待っていたらしい。
快方に向かっていることもあり、見舞いに帰省するのもいささか億劫ではあったが、ほかに大切なものなどさほどありはしない。兄嫁に促がされて、なるほどその通りだ。
ネットでバスを予約。近くのコンビニで支払。便利になった。
1月31日(金)、22時10分、ナンバOCATで夜行高速バスに乗った。2年前の正月の父の法事以来の帰省である。
2月1日(土)
朝7時半に熊本交通センターに着く。天気は曇り。地面を見るとぱらっとひと雨あったようだ。
実家は熊本県玉名郡岱明町。
熊本駅から福岡よりに各駅停車で40分ほど戻る。
8時半すぎに郷里の駅「大野下(おおのしも)」に降りた。祖父母の代に地元民が運動して出来た駅らしい。JRになって無人駅の時期もあったが、いまは駅員が一人のようだ。
電話をすればすぐ迎えに来てくれるけれど、歩いても15分ほどである。高校の3年間通いなれた田んぼの中の道を歩くことにした。
集落はその田んぼからすこし上がった台地にある。酒屋を過ぎ、竹薮を過ぎたところが実家である。
八王子の大学に通う甥っ子も学年末試験が済んだらしく帰省していた。この土日の帰省の間車の運転、道案内等々すべてこの甥っ子にお世話になってしまった。父が起こした運輸業をいまは兄が継いでいてそこでアルバイトをするつもりで帰省したのに、今年はどうやらあてが外れたようだ。
■母を見舞う
病室を覗くと母はテレビをつけたままスイッチやスピーカーがひとつになった電話機みたいな装置を耳元に置いて横になって眠っていた。
すこし肩で息をしていたように見えたのは先入観であったか。それにしてもしばらく見ないうちに年を取ったようにも思われた。
しばらくじっと見ていたが起こさない方がよかろう。待ち合いで頃合いを見てもう一度来てみようと思う矢先、目を覚ました。
それからは何事もなかったかのようにいつもの話し振りである。今となっては笑える話が仕草つきで続く。隣りのベッドのおばさん、
「笑い話でできるようになったつだけん、よかったたい」
本当にその通りである。
どうやら兆候は夏に一度あり、暮れにもあったと言う。
「酸素の薄かねえて思いよったたい」と、手のひらで空気を口に送り込む仕草をしながら話をする。
「そらあんた心臓の悪かつだろ?て婦人会で言いよらしたばってん、なあんそがんこつのあろかて思とったったい(心臓が悪いんじゃないの?と婦人会の人が言ってたんだけど、そんなはずはないだろうと思っていた)」
「なあんもなかといっちょん帰ってこらっさんもんね(何事もなければ全然帰って来ないんだからね)」
「いやいやお恥ずかしい」
ひとしきりまるで漫才のような話が続いて病室を辞す。
元気そうで何よりだった。
近くの疋野神社へ。お守りをひとつ買う。
■蘇鉄を見に行く
いったん実家へ戻り、歩いて5分のところにある大蘇鉄を見に行く。樹齢は800年以上とも言われ国の天然記念物になっている。
小、中学校と同級生がいて、小さい頃は登って遊んだものだ。そのせいかどうかだいぶ傷み、いまではひとまわり小さくなったような気もする。あちこちにつっかい棒がしてあった。
■海へ行く
僕たちの町岱明町は北は小岱山、南は有明海に面している。有明海は遠浅の海で遠足で潮干狩りにも行き、海水浴にも行き、冬はタコ掘りや、タテ貝を採りに行った。父はかつて海苔の養殖もやっていた。その向こうに雲仙が見える。曇っていて、靄にかすんで見えなかったけれど海まで行けば見えるかもしれない。車で10分か15分である。
残念ながら雲仙は見えなかったけれども久し振りに海へ来た。ちょうど干潮で、遠浅の海には散歩の親子、貝だか海草だかを採りに来ている人たちがいた。
東には金峰山が見える。漱石の『草枕』に出てくる峠の茶屋のある山である。漱石は五高(今の熊本大学)赴任中、熊本市内からこの金峰山を越え、小天温泉の那古井館に投宿する。
金峰山の左(北)側には木の葉山。石灰が採れるために南斜面は大きく削り取られている。この小岱山、雲仙、金峰山、木の葉山を見ながら僕たちは大きくなったようなものだ。
小岱山 | 木の葉山 |
金峰山 | 雲仙 |
玉名平野を見渡せる小高い丘の上にある遊園地へ案内してもらって夕方帰ると兄が大牟田へ飲みに行こうと言う。風呂から出ると甥っ子が「雲仙の夕焼けがきれいかったばい」と。「えっ?」
急いで外へ出てもすでに遅く、夕焼けは残っていたけれど、もはや暗い。
「大樹ぃ〜、もちっとはよ言わんね〜」
「へへへ」
■飲みに行く
大牟田の飲み屋「万」は日本酒、焼酎の品揃えは豊富だった。最近は焼酎を主に飲む。
「村尾」「森伊蔵」「百年の孤独」「魔王」「野うさぎの走り」「伊佐美」などなどなかなか手に入りにくい銘柄がリストされている。その中に「宝山」があった。
「あっ、これや」
新年会のとき飲んだ、名前を思い出せなかった鹿児島の芋焼酎だ。
地鶏の鍋を突つきながら早いピッチで飲んでいると、兄が「もう一軒行くぞ」と。
甥っ子と三人で近くのスナックへ。僕はこのようなところはあんまり好みではない。
XOを飲みながら話しているうちに、甥っ子と店の女のコと明日デートさせようということになった。
「そしたら明日9時に舟津中学校の前ね」と兄。
「大樹、雲仙に行け、雲仙に」と僕。
甥っ子とその女のコの事情はさておき、僕たちだけで勝手にスケジュールを決めてしまう。
「あたし、9時には起きられんですもんね。昼くらいかな?」
「そしたら昼からでもよかやんね。雲仙でなくてもよかやん。久留米のほうはどう?」と僕。
その女のコは誰かに似ていて、甥っ子は宇多田ヒカルに似ていると言う。そうかなあ・・・? 深田恭子にも似ていると。そう言われれば似ていなくもないがもっと似ている女優がいたけれど、名前をすぐに思い出せない。
帰りの車中、「そうそう、米倉涼子に似とらん?」
「米倉涼子はママのほうがよっぽど似とるよ、ねえ大樹ぃ」
「そがんそがん」
「そうかぁ…? 似とるかなぁ…?」
僕は、ママはむしろ豹柄の衣装がよく似合いそうだと店にいるときからずっと思っていた。
2月2日(日)
久し振りに10時頃まで寝ていた。
居間では大樹が炬燵に入っている。
「あら? デートだろ? はよ行かんと」
昨晩のノリで冷やかす。
兄も起きてきて同じことを言う。
「なあん、行かん行かん」
なんだ、案外冷静じゃないか?
そんなことで今日も大樹君は僕に付き合ってくれることになった。
■再び海へ
今日は好天。しかも暖かい。雲仙はうっすらと靄の向こうに見えていた。
もう一度海まで行ってみよう。病院へ行く前に昨日の松原海水浴場の海辺へ行ってみる。満潮で人はいなかったが、雲仙もぼんやりと見える程度だった。
■病室にて
病院へ行くと、テレビのカードが切れたので昨日兄が持って来てくれたカードを入れたけれども映らなくなった。看護婦に言うと休み明けに業者に修理してもらいましょうと。
病室での楽しみといえばテレビくらいしかない。
「忠夫さんの持ってこらしたつはちょっと厚かったもんね。こっでよかよかて言わすけん入れてみたら映りもせんし、どがんしてもそんカードが出てこんごつなったもん。そっで、コンセントも抜いとっと。(忠夫さんが持ってきたカードはちょっと厚みがあった。これでも使えるというからテレビに挿し込んでみたけれど、映らないし、そのカードも出てこない。故障したと思っておおごとになってもいかんからコンセントも抜いているのだ)」
コンセントを差して、カードの取り出しボタンを押してみるとすうっとカードが出てきた。見ると、テレフォンカードだった。
「こらテレビのカードじゃなかばい。テレフォンカードたい」
「ああ、そっでちょっと厚かと思たったい」
大笑いである。となりのおばさん、
「上等のカードだけん厚かっだろて言いよりましたですもんね」
僕「パチンコのカードならいけるかもしれんね」
大「ばってん、もうパチンコのカードもなかっだろ? いまは現金だけだろ?」
僕「ああ、偽造とかで?」
大「うん」
母 「売店は休みだろね?」
とりあえず行ってみると開いていたのでテレビカードを1枚。
ちょうどお昼どきである。食事が配られる。
「ここの病院食はうまかもんね。残さんときち〜んと食べよっと」
「のど自慢」が楽しみらしく、それを潮に引き上げる。
■母校
病院の隣りが玉名高校。母校である。
在学中、創立七十周年を記念して校章を模した文鎮をもらった。いまもパソコンのそばにある。今年が百周年になる。僕が通った学校で残っているのはここだけだ。
小学校はあるにはあるが、数百メートル移動していて、旧地は町役場になっている。中学校は当時町にふたつあったが、いまはひとつになり、僕たちが通った中学校の跡地は数度の変遷を経ていまはホームセンターになっている。
聞けば町名も平成17年には合併によって消滅するらしい。
大阪へ出てきて大学は僕たちの卒業後郊外へ引っ越してしまった。いま勤めている会社もまた経営主体は同じだけれど入社時とは社名が変わった。これまたいつ閉じるか風前のなんとやらである。
■小岱山に登る
岱明町、玉名平野が山側から俯瞰できるところへ行こうと、小岱山中腹の蓮華院五重塔あたりまで車を走らせ、登山口の笹千里駐車場へ入った。
山に登れば丸山展望台がある。案内板には40分とあったが距離的にはそれほどもかからないだろう。
平野部、有明海、菊池川、金峰山がきれいに見渡せた。雲仙は相変わらず靄の中にかすかな輪郭が見えるだけだ。
もう少し登ってみようか。稜線沿いに登っていくと何人もの登山者と会った。
観音岳まであとわずからしいが、急登がかなりこたえてベンチで一本。
どうしようか、甥っ子も一緒だし、引き返そうかと思案していると、「行きまっしょい」と言う。
「そうか、じゃあ行こう」
観音岳まではわずかであった。ここからの見晴らしもいい。
この俯瞰の中に僕の実家もある。
「おい大樹、どの辺だろか?」
ここまで来れば小岱山の最高峰筒ヶ岳まで行ってみよう。最高峰といっても501mである。
稜線伝いにほぼ平坦に荒尾展望台の分岐まで来て、いったんぐっと下って登り返すと筒ヶ岳山頂。
小学校か中学のとき初日の出を見に小岱山へは何人かで登ったことがあるが、この筒ヶ岳には記憶がなかった。またここから東のご来光は拝めない。たぶんその時は観音岳に登ったのかもしれない。その観音岳にも記憶はなかったけれど。
この筒ヶ岳からは大牟田市、有明海北部、福岡、佐賀方面が見渡せる。奥に見えた山系は背振山地だろうか。
古書店で立ち読みした郷土史家の本に筒ヶ岳の筒は筒之男三神の筒だと書いてあったが真偽のほどはさだかではない。有明海から東シナ海へ中国との貿易も盛んであったらしいから航海神としての筒之男三神が祀られていたとしても不思議ではないが。
そばの巨石に七絶の漢詩が刻まれていた。
登小代山 手援藤花攀次第 無邊風色入眸間 高瀬川漲長洲海 雌石晒松水霧間 |
辞書を引きながらおおよその意味考えてみると、
藤の花の咲く山道を木の枝に捕まりながら登れば、広々として遮るもののない風景が目に入った。
菊池川は溢れるように有明海に注ぎ、一方山上には松や立ち込める霧のなかにひそやかに岩が立ち顕われた。
この巨石は僕たちの背丈の倍以上もある。
「雌」には「弱々しい。ひかえめな」の意味もあるようだ。
きっと山腹から眺めた眼下の広大な風景との対比でこの巨石を「雌石」と言ったのではないかと思われる。
1時間とすこしで笹千里駐車場まで戻った。
甥は少林寺拳法を小さいときから習っていて大学でもその部に入ったという。
「力愛不二」
力があっても愛がなければいけない。愛があっても力がなければいけない。
うまく言えないが、そんなことを言っていた。
とくに筒ヶ岳まで来るつもりもなかったので水も食料もなく手ぶらで来てしまった。おかげで喉が渇く。国道まで下りて、コンビニでパンと飲み物。
帰宅途中、姪っ子の車とすれ違う。
姉弟は携帯で連絡しあう。
「どこに行きよっと?」
どうやら病院らしい。
■またもや三度目の海へ
日が暮れかかるにつれて雲仙がくっきりと見え始めた。山頂部に雲がついているが仕方がない。またもや海へ行く。干潮。黒々とした雲仙の右に日が落ちようとしている。海にその光が赤く映える。
「いいねいいねえ。来た甲斐があったね」
「長洲の名石浜(めいしはま)の堤防に行ってみろか」
ここへはよく釣りに来るらしい。ここからの雲仙の眺めもまた良かった。ここでちょうどフィルムが切れた。
■病院経由で熊本交通センターへ
兄嫁、甥っ子に熊本まで送ってもらうことになった。途中病院に寄る。
「酸素の薄かて思たらすぐ病院に行かなんよ」
「はあ、もうそがんすったい」
車中はずっと方言について話し合った。もうめったに使わなくなった言葉もいろいろあれば、いわゆる標準語では表現しにくい言葉もあり、また近接の地域でも微妙に違うことなどけっこう面白かった。
また、甥っ子に乗せてもらって田舎にいる頃とくに小、中学の頃歩き回った道を通ってかすかにでも記憶が呼び覚まされて、「ああ、この道知っとる知っとる」といろいろ懐かしく思い起こされたのもとても良かった。
母の病気見舞いだったか、それに事寄せて僕自身の洗濯だったか…。