草枕道―岳林寺から那古井館まで (May 5, 2006)
祖母山・傾山縦走の翌日だったがスニーカーでも充分らしく、ここもまた歩いておきたかったコースである。
小天(おあま)の那古井館に了解を得て車を停めさせてもらい、山さんと待ち合わせして岳林寺まで送ってもらうことになった。
祖母山・傾山縦走を済ませて、夕方帰ると、幼馴染を呼んで飲もうかってことになり、地元に残る二人に連絡をして痛飲。お互いもう50である。中学以来だから35年ぶりになる。面影は残っている。小学校から一緒だったし、もちろんよく遊んだ。
だが、高校以降、付き合いも変わるし、大阪へ出て帰省するにしても「ごくたまに」である。
話はそれるが、裏のタバコ屋の斜め前の同級の女の子、いやお互い50だからもうおばさんだけれど、彼女にもおそらく35年ぶりくらいに会った。
タバコを買いにぶらぶらと歩くとその家に車が停まっていた。誰か女性がいるようだった。そのままタバコを買い引き返すと、その女性と目が会った。しばらくじっと見つめ合ったような気がする。誰であるかを思い出す時間だった。彼女にもかすかに面影が残っていた。
「○○さんね?」
僕は懐かしさのあまり一歩踏み出して聞いた。
消息については過去何度かの帰省で聞いてはいた。同級生に嫁いでいる。
今回の長い休暇の一齣だった。
どうやら、僕が先に飲み潰れて寝てしまったらしい。兄嫁によると、近々同窓会をしようと言うことになり、僕は「うんうん」と言ったらしいが、さっぱり記憶がない。
高校を卒業して、大阪へ出て以来、血縁とも地元の友人とも切れたデラシネの日々であり、むしろそれを「よし」としてきた部分はある。
けれど、田舎へ帰れば方言で喋るし、懐かしい面影に触れるとやはり僕のルーツはここであることは紛れもない。
兄は言う。僕が帰郷して家を建てる地所はあるのだと。
さて、草枕道。
冒頭に書いたように那古井館で山さんと会い、道中いろいろと教えてもらいながら岳林寺に着いた。
山さんには、本当にお世話になりました。
岳林寺 | 草枕道道標 |
08:20 岳林寺。
漱石「草枕」ハイキングコース 天水町漱石館まで15.8kmの道標が立っている。
この辺りの地名は島崎になっている。かすかに記憶があった。小学校の時たしか臨時で赴任された先生がこの地名にお住まいだった。一度遊びにうかがったことがある。道路に面して同姓の表札があった。もはや40年くらい前、小学校の頃うかがっただけであるから風景もお住まいも何にも覚えていなかったから、そうなのかどうなのか自信はなかった。ましてや、先生ももう60代半ばくらいであろう。
鎌研坂 |
長い長い鎌研坂をゆっくりと登る。しかも暑い。真夏みたいだ。30分もしないうちにトレーナーは汗で濡れた。舗装道路から山道に入る。麹川の細流に沿って山道を登る。
09:05 再び幹線道路に出ると漱石の句碑が立っていた。
・木瓜咲くや 漱石拙を 守るべく
「拙を守る」、陶淵明の「園田の居に帰る」にもあった。「拙を守って園田に帰る」。典拠はこれだろう。
この句は明治30年2月、正岡子規に送った句稿のひとつである。『草枕』中に木瓜、拙を守ることについての一節があるからそれにちなんで句碑に選ばれたものと思う。
漱石は明治29年4月に旧制第五高等学校(熊本大学)に赴任し、明治33年7月に英国留学のために熊本を去るが、そのわずか四年の間に七回転居した。『漱石研究年表』によると、在熊中、三度小天温泉へ出かけたようである。
1.明治30年11月。
2.明治30年12月の暮れ。
3.明治31年5月から7月上旬頃。
峠の茶屋 | 峠の茶屋跡 |
09:15 幹線道路をすこし登ると「峠の茶屋」だ。
峠の茶屋は先にもう一つあるようだ。野出峠の茶屋跡である。
>「ここから那古井までは一里足らずだったね」
>「はい、二十八丁と申します。旦那は湯治に御越しで……」
このやり取りから考えると、野出峠の茶屋だったかと思われる。
石畳道 |
道は脇の農道に入った。地図は印刷してきたが、道標がしっかりしていて迷うことはなかった。再び幹線道路を横切ると石畳道を登った。
10:15 句碑が立っている。
・家を出て 師走の雨に 合羽哉
明治31年1月6日付けの正岡子規へ送った句槁のひとつ。明治30年12月の暮れから新年にかけての小天温泉行の時の句になる。
いまは5月。しかも五月晴れ。拙句ながら、
・草枕 五月の空に 続く道
本当に気持ちのいい、むしろ暑いくらいの好天だ。
近くの畑では蝶が飛んでいる。
野出の茶屋跡から見る有明海と天草への半島 |
スニーカーに軽いザックとは言え、きのうまでの山行のせいもあり、いい加減疲れてきた。
11:30 まだ海の見えるところで石に腰掛けて早めの昼食。
冷凍庫で冷やしてもらったビールがまだシャリシャリしていた。
通りがかりのおじさんと歓談。
「山歩きとはよか趣味ですたい」
「・・・いやあ」
いささかほろ苦い。
「もう結婚しとっと?」
そんなに若く見られたか? あるいは変人扱いだったか。
道はここからもう小天へ下る。
12:05 鬱蒼とした山道の中に道標を兼ねた句碑があった。
「これより那古井の里 漱石館まで半里」と読める。
・温泉の山や 蜜柑の山の 南側
12:15 山道を下ると日差しがさらに暑い。干拓地かと思われる平野部が直線で有明海に接している。ビニールハウスが光る。
山道を抜けると那古井の里は近い | かすかに雲仙 |
「白壁の家」(前田家本邸)、前田家墓地をすぎ、八久保グラウンドを回り込むと宮崎竜介について書かれた案内板があった。孫文と親交のあった荒尾の宮崎滔天の長男である。滔天が運動に奔走するあまり、竜介は滔天の妻の実家、前田家へ預けられたと言う。
この荒尾の宮崎家は他にも滔天の長兄、八郎が自由民権を標榜し、最後には西南戦争で薩軍に加担して死を遂げる。
13:00 境谷の大榎
13:05 「日潮士」前田案山子の墓。
「草枕」の那古井の湯は、この前田案山子の別邸である。
13:10 前田家別邸(漱石館)
漱石が泊まった建物と、当時の風呂跡が保存されている。
浴室は半地下になっていた。お湯を汲み上げずに流す工夫だったとか。
漱石が泊まった前田家別邸 | 半地下にある浴槽 |
今の那古井館はここからわずか100mほどのところにあり、前田家とは係累だそうである。近年改築されたようだ。
4月30日の法事のあと、母、兄夫婦甥姪、それに僕たち家族四人の9人はここで昼ごはんを食べた。
400円で風呂に入り、もう一缶のビールを開けるとこれまたわずかにシャリシャリしていた。
帰路は玉名市街地へ入り、甥っ子、お勧めの某ラーメン店へ。大盛とおにぎり二個を食べた。
ラーメンは玉名が一番美味い。熊本市内の有名店ともやや違う。博多とも違う。
玉名ラーメンのルーツは久留米らしいが、久留米で食ったことがないので味の違いは良くわからない。が、とにかく、ラーメンは玉名が一番美味い。
実家へ戻り、お腹一杯のあとのビールはさして美味いとも思わないが、飲みながらぐうたらする。兄も兄嫁も姪っ子も用事で不在。甥っ子はすでに関東へ戻っている。
おふくろが日陰で畑仕事。
兄嫁の友人が来る。僕と同級生らしい。彼女は僕を覚えていたが、申しわけないけれど僕は覚えていなかった。
5月5日である。おふくろが、菖蒲とヨモギだったか、それをひと括りにしたものを屋根に投げ上げてくれと言う。そんな風習があったことさえ記憶にないのだ。
「昔からしよった?」
「しよったたい」
納屋にあるから「ばんぺいゆ」を食えと言う。厚い皮を剥き半分は食ったけれど飽いてしまった。おふくろが残り半分を片付ける。
九州の日は長い。
僕は縁側に腰掛けずっと外を眺めていた。