荒祭宮 (Mar.18, 2011)
(はじめに―「あら」の語意)
新酒の季節。
四年前のこの時期、灘五郷の酒蔵巡りをした。
そのとき飲んだ「あらばしり」は旨かった。旨味があった。
「あらばしり」は、最初にできたお酒の意らしい。
先日、そんなことを思いながら車を走らせていて、「ああ、そうか。そうゆうことだったのか」と気がついた。
伊勢神宮の荒祭宮についてである。
先に結論を言うと、荒祭宮は、正宮(内宮)より先に祀られていて、その祭神は宇治土公が祀った神様、猿田彦だった。
根拠は諸史料(資料)を示しながら次章で述べるが、ここでは「あら」の語意について考えてみよう。
まず「あらばしり」について。
灘五郷にある某酒蔵のHPに、
・ あらばしり:昔ながらの酒袋に詰めたもろみを酒槽にかけ、自然の重みで最初にほとばしり出た酒のみを汲んだ、文字通りの生まれたばかりの酒です。
以下同じくネットで拾うと、
・あらばしり 3 【新走り】
「新酒(しんしゆ)」に同じ。[季]秋。
・新走・荒走(あらばしり)
醪(もろみ)を清酒と酒粕に分離する操作を上槽(じょうそう)と呼びます。醪をしぼる伝統的な道具は、船の平底に似ているところから「槽(ふね)」と呼ばれ、この工程の担当者を「船頭(ふながしら)」と呼んでいました。
酒袋に醪を詰め、それを槽の中にいくつもならべて積み重ねます。自重で自然にしぼられて出てくる最初のお酒が「荒走」になります。
もともとは新米(その年に収穫されたお米)で醸造したお酒のことで「新走」と書かれます。
しぼったばかりの酒は、うすく濁っており、炭酸ガスが残っていることから、ほどよい酸味があって、新酒独特の新鮮な香りが漂っています。
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つまり「あら」とは、「最初の、初めの、新しい」の意と考えられる。
・あらためる、あらたまる 改める、改まる、新たまる
・あらわれる 現れる
・あらう 洗う
これらの「あら」も元々は語意としては同じだったのではないか。
桑名の生まれで四日市に住む山仲間がいる。彼女が言うには、新しいことを、「あら」と言うのだそうである。たとえば、「このザックはあらやで」(このザックは新品やで)と言うように。
伊勢神宮荒祭宮は、内宮の北のやや西よりのすぐ近くにある。
この荒祭宮の北に五世紀後半と考えられる祭祀遺跡がある。
大場磐雄『神道考古学論孜』から引く。
大場磐雄『神道考古学論孜』より |
・9 伊勢國皇大神宮境内
我國最高の宗祀たる皇大神宮の境内よりも同種の遺物が發見せられてゐる。即ち神都名勝誌巻四神苑條に「茶臼石」と題して、
荒祭宮の北に當れる宮城にて往々之を拾ひとる者あり。土俗茶臼石といふ。その質甚堅からず。多くは青或は赫色なり。形鳩眼の大さにて中に穴あり管玉に類せり。何の頃の物なるか知るべからず。今は漫に拾ひとること禁ぜられたり。
と記し、その一部を圖示してゐる。第八圖がそれで臼玉數十勾玉一有孔圓板一劔様模造品一等である。余が親しく神宮職員に聞く所によれば、最近迄雨後には往々採集し得られたといふ。何れも上述の諸遺跡中より出土する石製模造品の類で恐らく祭器として使用せられた物であらう。
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内宮の領域には、内宮が創建される前に、祭祀遺跡があり、祠もあった。それを荒祭宮と言う。
では、その荒祭宮の祭神は誰であったか?
「日本書紀」
書紀神代下第九段一書第一
(1)
天鈿女(あまのうずめ)乃ち其の胸乳を露にし、裳帯を臍の下に抑れて、あざわらひて向ひ立つ。
是の時に衢神(ちまたのかみ)問ひて曰く、「天鈿女、汝為(かくす)るは何の故ぞ」といふ。
対へて曰く、「天照大神の子の幸す道路に、如此有りて居るは誰そ。敢へて問ふ」といふ。
衢神対へて曰く、「天照大神の子、今し降行りますべしと聞きまつる。故、迎へ奉り相待つ。吾が名は是猿田彦大神」といふ。
(2)
時に天鈿女復問ひて曰く、「汝、将我に先だちて行かむや。将抑我、汝に先だちて行かむや」といふ。
対へて曰く、「吾、先だちて啓(みちひらき)行かむ」といふ。
(3)
天鈿女復問ひて曰く、「汝は何処にか到らむとする、皇孫何処にか到りまさむとする」といふ。
対へて曰く、「天神の子は、筑紫の日向の高千穂の[木患]触峰(くしふるのたけ)に到りますべし。吾は伊勢の狭長田の五十鈴の川上に到るべし」といふ。
因りて曰く、「我を発顕しつるは汝なり。故、汝以ちて我を送りて致すべし」といふ。
(4)
天鈿女還詣りて報状す。
皇孫、是に天磐座を脱離ち、天八重雲を排分け、稜威(いつ)の道別(ちわき)に道別きて、天降ります。
果(つひ)に先の期(ちぎり)の如く、皇孫は、筑紫の日向の高千穂の[木患]触峰に到ります。
其の猿田彦神は、伊勢の狭長田の五十鈴の川上に到る。
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瓊々杵尊の降臨を猿田彦が出迎える場面である。
(1)天鈿女が裸に近い格好で猿田彦に立ちふさがる。猿田彦と天鈿女のやりとりの後、猿田彦が言う。
「天孫が降臨すると聞いたのでお迎えに来たのだ。我が名は猿田彦大神である」と。
(2)の問答は順序としては奇妙な感じがする。(3)の冒頭も考えてみれば奇妙である。猿田彦はどこへ行のか? 天孫はどこへ降臨すればよいのか? と言うような聞き方である。猿田彦もまた天孫をお送りするのではなく、降臨の場所として、筑紫の日向の高千穂の[木患]触峰(くしふるのたけ)を示し、自らは伊勢の狭長田の五十鈴の川上に行くと言う。
天孫降臨ストーリーとしては、必ずしも猿田彦の登場は必要ではなく、むしろそのほうが自然なストーリーなのだが、なぜ猿田彦を登場させなければならなかったのかについて考えると(4)にもあるように、天孫降臨の時点で猿田彦は伊勢の狭長田の五十鈴の川上に行くわけだから、天照大神(八咫鏡)が遷座される前に、すでに猿田彦が祀られていたことを言おうとしていると考えれば、天鈿女と猿田彦との奇妙な挿入風の問答の疑問が解けるのではないだろうか。
「倭姫命世記」
そのことは、「倭姫命世記」によりはっきりと書かれている。以下引用する。
・時に猿田彦神の裔宇治ノ土公が祖大田命参り相ひき。「汝が国の名は何ぞ」と問ひ給ふに、「佐古久志呂宇遅の国」と白して、御止代ノ神田を進りき。倭姫命問ひ給はく、「吉き宮処有り哉」と。答へて白さく、「佐古久志呂宇遅の五十鈴の河上は、是れ大日本国ノ中に、殊ニ勝テ霊地(アヤシキトコロ)に侍ルナリ。其の中ニ、翁三十八万歳の間にも、未だ視知ラザル霊物有り。照リ耀クコト日月の如くなり。惟(コレ)小縁(ヲボロケ)ノ物ニハ在サジ。定めテ主出現御坐(ヌシイデマ)サムカ。尓の時献るベシと念ひて、彼の処に礼ヒ祭リ申せり」と。
倭姫が猿田彦神を祖神とする宇治土公に「天照大神をお祀りするよい宮地はないか」と問う。宇治土公は五十鈴川の川上を勧める。そして言う、この殊に勝れた霊地にお祀りすべき主が現れるだろうから、その時にその地を献上しようと思って祀っていたのだ、と。
「皇太神宮儀式帳」
「皇太神宮儀式帳」にも以下引用するように、類似文があるが、「倭姫命世記」のほうが、より詳しく書かれている。
・次百船(乎)度會國、佐古久志呂宇治家田田上宮坐(只)。
爾時、宇治大内人仕奉、宇治土公等遠祖、太田命(乎)、汝國名何問賜(只)。
白(久)、百船(乎)度會國、是河名(波)佐古久志留伊須須乃河(止)申(須)。是河上好太宮地在申。
即所見好太宮地定賜(比弖)、朝日來向國、夕日來向國、浪音不聞國、風音不聞國、弓矢鞆音不聞國(止)、大御意鎮坐國(止)悦給(弖)、大宮定奉(支)。
また、荒祭宮については、
・造奉荒祭宮一院。(在大神宮以北、相去廿四丈)
稱大神宮荒御魂宮。御形鏡坐。
大神宮の荒御魂宮とあるように、天照大神の荒御魂を祭神としているが、それは、宇治土公から献上された後のことである。荒祭の荒を荒御魂の荒と考えてしまいがちだが、天照大神の荒御魂を「荒」と省略し、それをお祀りするお社を「荒祭宮」と言うだろうか?
そうではなく、上述したように、「最初の、初めの、あたらしい」の「あら」、つまり五十鈴川川上において、天照大神が遷座される前に、もともと最初から祭られていた宮と解すべきものである。
大田命が言うように、「尓の時献るベシと念ひて、彼の処に礼ヒ祭リ申せり」であるから、もともと宇治土公一族の霊地を天照大神に譲り差し上げたのだから、新たに宮を造って天照大神の荒御魂を祀ったということになるが、それ以前に書紀引用のように、猿田彦が祀られていたのである。
「神宮雑例集」
伊勢國神郡八郡ノ事
度會ノ郡
多氣ノ郡
(1)
・本記ニ云ク、皇太神御鎮坐之時、大幡主命物部(乃)八十支諸人等率、荒御魂宮地(乃)荒草木根苅掃、大石小石取平(天)、大宮奉定(支)。
天照大神が御鎮座される時、大幡主命は、物部八十支(群書類従版では八十友)、ほか諸人を率いて、荒御魂宮(荒祭宮)の地の荒草や木の根を刈り払い、大石小石を取り除いて整地をして、ここに大宮を定め奉った。
つまり正宮(内宮)を建てる前に荒祭宮はすでにあったことになるが、天照大神の荒御魂がいつから祀られたかは今のところ不明である。
(おわりに)
かつて私は、この祭祀遺跡と荒祭宮を以て天照大神の伊勢(宇治里)遷座を考えていた。それは、「住吉大社と八咫鏡」の拙文でも書いたとおりだが、先日アップした「伊勢神宮の創祀と皇祖神」では、五世紀後半にまず度會の山田原に遷され、おそらくだが持統期に現在の宇治里の内宮に遷されたと考えるに至った。
では、荒祭宮をどう考えたらよいのか?
その疑問には私自身が答えなければならないのだが、一年を経て、その解がようやく得られたと思う。
四年前、灘五郷でいただいた「あらばしり」、偶然にも、伊勢神宮の日別朝夕大御饌祭で神々に供えられる御料酒を献上する唯一の酒蔵だった。これも何かの縁かもしれない。