武田祐吉校注『萬葉集』(角川文庫)では、鏡王女に「額田の王の姉」と注がついています。小説では、井上靖『額田女王』(新潮文庫)、杉本苑子『天智帝をめぐる七人』(文春文庫)でも姉妹の設定になっています。
 このように鏡王女と額田王女とは姉妹とするのが通説と言っても良いのかもしれません。
 ところが、そのように書かれている史料は見当たらないのです。

 まず鏡王女について。
 彼女は、中大兄皇子(後の天智天皇)の寵愛を受けたのち、藤原(中臣)鎌足の正室になります。興福寺の前身、山階寺は鎌足が病気の際、この鏡王女の発願によって開基されたと言われています。
 また、「書紀」天武天皇紀十二年に、
> 秋七月の丙戌の朔にして己丑に、天皇鏡姫王の家に幸して、病を訊ひたまふ。
> 庚寅に、鏡姫王薨りぬ。
(秋七月丙戌朔己丑、天皇幸鏡姫王之家、訊病。庚寅、鏡姫王薨)

 
 『延喜式』諸陵に、
>「鏡女王、在大和国城上郡押坂陵(舒明天皇陵)域内東南。無守戸」
 とあり、岩波文庫版、小学館版ともに舒明天皇の皇女、あるいは皇妹とする説が有力。
 と注をつけています。

 万葉集中にはこの天武と鏡王女の二人が恋愛関係にあったとは見うけられませんので、危篤の鏡王女を天武が見舞いに行くのですから、天武にとっては係累の一人であったのではないかと思います。
 鏡王女はお墓が舒明天皇陵の域内にあるのですから、舒明天皇の皇女か皇妹とするのは妥当なところかと思います。
 皇妹だとすると、父は彦人大兄皇子になります。この鏡王女は、中大兄皇子の寵愛を受けていますので年齢的には、中大兄皇子と同世代あたりだろうと思います。とすれば、鏡王女は、舒明とは親子ほどの年齢差になりますので、異腹ということになりましょう。父、彦人大兄皇子の没年は定かではありません。息子の舒明のさらに息子と同世代、つまり彦人大兄皇子から見れば孫と同世代の子供を作る、あり得なくはありません。可能性としてはなくはない。
 皇女だとすると、舒明即位二年に記述がありませんが、まあ、ちょっと他所にこしらえてしまったと言うところでしょうか。

 どちらの関係がより妥当であるのか?
 天武が見舞いに行く記事をわざわざ載せているところから考えますと、舒明天皇の子供で、天武とは同母の兄妹か姉弟の関係ではないかと思います。
 さて、中大兄皇子もまた舒明天皇の子供ということになっていますが、中大兄皇子と鏡王女は恋愛関係にありますので、この天武(大海人皇子)、天智(中大兄皇子)、鏡王女の三人が同腹とはちょっと思えないのです。

 天皇、鏡王女に賜ふ御歌一首
 妹が家も 継ぎて見ましを 大和なる 大島の嶺に 家もあらましを

 鏡王女の和へ奉る御歌一首
 秋山の 木の下隠り 行く水の 我こそまさめ 思ほすよりは


 このやり取りが同腹の兄妹で交わされた恋歌とは思えないのです。

 書紀では、天武、天智ともに宝皇女(後の皇極天皇、重祚して斉明天皇)の子供となっていますが僕は違う、同腹ではないと思っています。ただし、いまそれを証明する手段はありません。
 むしろ、上述の理由により天武と鏡王女は同母ではないかと思います。
 
 次に額田王女について。
「書紀」天武天皇紀に、
> 天皇、初め鏡王の女額田姫王を娶りて、十市皇女を生む。
(天皇初娶鏡王女額田姫王、生十市皇女)

とあるように、父は鏡王です。
 鏡王女は舒明天皇の娘、額田王女は鏡王の娘、姉妹ではないことになります。

 ただ、鏡王女の母方は、額田王女と同系である可能性はあります。
 二人の名前の「鏡」と「額田」は縁語と考えられます。

 鏡は鋳物ですから、鋳型が必要になります。鋳型は、真土(まね)と言われる、ごく粒の小さい土を使います。溶湯と触れ合う鋳型の面が出来るとそれをさらに細かい粘土状の土で覆う。粘土状の土と申しますよりもっと水分の多い土と言った方がいいでしょう。それを焼き物のように焼いて鋳型を作ります。

 つまり額田の「ぬか」は、「細かな土」あるいは「細かな」を意味する言葉ではないだろうか? 小糠雨の「糠」と通じているのではないか。ひいては、ぬかるむの「ぬか」とも同じなのではないか。
 ぬかるむ田んぼといえば、もちろん水分も多いのですが、とにかく土が細かい。鋳型には恰好の土と言えるのではないかと思います。

 舒明天皇即位前紀冒頭に、
> 息長足日広額天皇は、渟中倉太珠敷天皇の孫、彦人大兄皇子の子なり。母は、糠手姫皇女と曰す。

 古事記敏達天皇の条に、
> この天皇の御子等、并せて十あまり七はしらの王の中に、日子人の太子、庶妹、田村の王、亦の名は糠代比売の命を娶りて生みたまへる御子、岡本の宮に坐して天の下治めたまひし天皇ぞ。

 (敏達天皇の子供たちは、合わせて17人いるがその中の彦人大兄皇子は異腹の妹、田村の王、別名糠代比売(ぬかでひめ)を娶り、生んだ子供が舒明天皇である)

 とありますが、「糠手」に、岩波文庫版(五巻本)では「あらて」とルビを振っていますが、小学館版では「ぬかで」と振っています。私は、後者を採ります。額田の「ぬか」と通じているのではないか。舒明天皇の母、糠手姫皇子も、母方は縁語性から考えますと額田王女と、さらに鏡王女と同系の出自であったのではないだろうか。
 職業は、やはり鋳物工人と関係する出自ではなかったかと思います。
 この時代の天皇家と青銅器鋳造工人一族とは密接な関係にあったように思われます。

 話は飛びますが、魏志倭人伝中にある、
>官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳[革是]
 の奴佳[革是]もまた、「糠手」あるいは「額田」に通じているのではないか。





         鏡王女と額田王女 (Apr.21, 2002)