投馬国・邪馬台国への行程記事の起点が不弥国でないことは、先稿「梯儁、伊都国で卑弥呼に会うの巻」でみてきたとおりである。逆にいえば、この投馬国・邪馬台国への行程記事には起点が示されていなかったことを意味している。
 これを手がかりに本稿では、邪馬台国行程記事の成りたちについて考えてみよう。

 魏志倭人伝における邪馬台国への行程記事は大きく四つに分類することができる。
 それぞれの特徴を見てみよう。

(一)狗邪韓国から伊都国
 まず、狗邪韓国から伊都国までの行程記事では、なんと言っても渡海千里にあらわされる距離感である。魏代の一里は約400m。千里といえば400kmになる。実際の距離からずいぶん誇張されている。末盧国から伊都国までの陸行五百里も同様である。存在は確認されていないが一里70m前後の短里もあったのかもしれない。
 またこの行程記事には対海国、一大国、末盧国と実見に基づくそれぞれの国の様子が書かれているのも特徴である。

(二)奴国・不弥国
 奴国・不弥国の記事では、(伊都国の)東南奴国に至る百里とあるように、奴国が春日とすればほぼ魏尺に相応する距離感で書かれている。
 またこの記事では、方角、距離、官名、戸数は記されているが、先に見た伊都国までの記事と違って国の様子が記されていない。

 これらのことから、狗邪韓国から伊都国までの原史料と、奴国・不弥国の原史料は別人によって記されたものと考えることができる。

(三)投馬国・邪馬台国
 投馬国・邪馬台国の行程記事では、距離が日数で記されているのが特徴である。
 隋書倭国伝に、
>倭国は百済・新羅の東南にあり。水陸三千里、大海の中において、山島に依って居る。魏の時、訳を中国に通ずるもの三十余国、皆自ら王と称す。夷人里数を知らず、ただ図るに日を以てす。その国境は東西五月行、南北は三月行にして、各々海に至る。

 このことは倭人からの聞き取りである可能性を示唆している。

 また、この行程は比較的長いにもかかわらず、記されている内容は、奴国・不弥国のそれと同様に、方角、距離、官名、戸数である。
 
(四)その余の旁国
 ここには21の国名だけが列記されている。
 陳寿は、「その余の旁国は遠絶にして得て詳かにすべからず」と書いているがはたしてそうだろうか?
 「旁」は、「そば」「かたわら」が本来の意味だから、ここに記された国々は必ずしもすべてが遠絶ではなかったはずである。近いが小国のために倭国を構成する主要な国ではなかった、あるいはたしかに遠いために国名はわかるけれど官名など詳しいことまではわからないから国名だけを記した、そのようなリストであったと思われる。
 なお、『広志』逸文には、典拠はわからないが、その余の旁国について国名だけではなく、風俗についても言及しているので、魏志倭人伝は煩雑を避けるために国名だけを記しているが、ひょっとすると原史料はもう少しくわしく書いている国もあったのかもしれない。

 さて、投馬国・邪馬台国への行程記事には起点がない。
 奴国・不弥国の記事は伊都国が起点であるが、それまでの行程とは別人による原史料である。
 もうひとつ、その余の旁国の記事がある。
 これらの原史料はもともとどのようなかたちで存在していたのだろうか?
●奴国・不弥国があり、陸行して東南百里、さらに百里。
●投馬国・邪馬台国があり、水行して二十日、さらに十日水行して、さらに陸行ひと月。
●そのほかには21の国がある。
  私は、これらの記事は、伊都国で取材された史料として、いわば箇条書きふうに存在していたのではないかと考える。この考えはいずれの記事とも矛盾しないし整合性もある。

 このようにいわば箇条書きとして存在していた原史料を陳寿が伊都国から近い順番に●奴国・不弥国→●投馬国・邪馬台国→●その余の旁国というふうに繋いでしまったのではないかと考える。だから、不弥国から水行するというあり得ない、投馬国・邪馬台国の行程記事を繋いでしまったのである。その余の旁国は国名だけだから遠絶のために詳らかでないとして邪馬台国の後ろに繋いだ。
 このようにして出来あがったのが、邪馬台国へ至る行程記事なのである。ご理解いただけたであろうか。

 このように考えると、投馬国・邪馬台国への起点は伊都国ということになる。
 ところが腑に落ちない個所がある。
>「南」至投馬國水行二十日
>「南」至邪馬壹國『女王之所都』水行十日陸行一月
(「」、『』は郭公)
 伊都国から南へは水行できないのだ。私たちは伊都国は今の福岡県前原市であることを共通認識として持っている。その伊都国から南へは水行できない。きっと、原史料には方角が記されていなかったに違いないのだ。
 それなのになぜ、「南」と書き加えられたのか?
 ここに大きな問題がある。『女王之所都』である。わたしは、この『女王之所都』が原史料にすでに存在していたのではなく、「南」と同様に原史料に書き加えられたのだと考えているが、それは後に触れる。

 いずれにせよ、『魏略』にも『魏志倭人伝』にも『女王国へ至る行程』は示されていない。陳寿はなんとか、この『女王国へ至る行程』を示そうとしているのだ。  では女王国はどこにあるのか?

>郡より女王国に至る万二千余里。
>女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国これを畏憚す。常に伊都国に治す。

 郡から伊都国まで一万五百余里であるから。女王国は、伊都国の「南」千五百里のところにあることがわかる。だから、陳寿は、投馬国・邪馬台国の行程記事に「南」と書き加えたのである。

 さて、残る問題は『女王之所都』である。
 ふたつのケースを考えてみよう。
 まず、この『女王之所都』が原史料に存在していなかったとすれば、陳寿は、
(A)
>投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可「五萬餘戸」
>邪馬壹國水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳テイ可「七萬餘戸」
(「」は郭公)
(B)
>郡より女王国に至る万二千余里。
(C)
>女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国これを畏憚す。常に伊都国に治す。
 
 これらの史料から、邪馬台国が倭国の最大の国であり、陳寿の一里の距離感は当然約400mだから、伊都国から南へ千五百里の女王国は、ほぼ(A)の距離に近い邪馬台国のことであるのに違いないと考え、原史料(A)に「南」と「女王之所都」を書き加えたと考えることができる。
 これはあくまでも原史料に『女王之所都』と書かれていなかった場合のことである。

 では、次に既に原史料に『女王之所都』と書かれていたと考えてみよう。陳寿が「南」と書き加えたのだから、陳寿は伊都国より約600km南に女王国があると考えていることになる。伊都国から600km南下すればはたしてどこへ行くのだろうか。
 このように考えれば、おのずと答えは明らかであろう。
 つまり、原史料には、「南」も「女王之所都」も書かれていなかったのである。
 繰り返すが原史料は下記のようになる。

>投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸
>邪馬壹國水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳テイ可七萬餘戸


 つまり、女王国と邪馬台国は別の国なのである。陳寿が勘違いしたのである。
 女王国は伊都国から南千五百里のところにある。この「里」は渡海千里の距離感に等しい。したがって北部九州にある。邪馬台国は伊都国から上記の行程を経たところにある。
 また、言うまでもないことだが、七万余戸は実数であるか誇大であるかを問わず邪馬台国の戸数であって女王国のそれではない。女王国の戸数は不明としか言いようがないのだ。
 
 この拙文を以って邪馬台国論争の少なくとも、北部九州か大和かの比定地論争は終焉を迎えることになる。

 末文ながら、大論争で議論した論友、論敵のみなさんに感謝したい。けっして私ひとりの営為ではないのだから。ことに中国文献に詳しいALEXさん、koujiさんにはいろいろな示唆、ご教授をいただいたことを付記しておく。



 でも、ホントかなぁ…。(^^ゞ



邪馬台国行程記事を解体する (Feb.16, 2002)