先に書いた「津に臨んで捜露する」と重複する個所がありますが、ご容赦ください。

(一)
>郡より倭に至るには、海岸に循って「水行」し、韓国を歴て、乍は南し乍は東し、その北岸狗邪韓国に到る七千余里。
>始めて「一海を度る」千余里、対海国に至る。
>また南「一海を渡る」名づけて瀚海という。一大国に至る。
>また「一海を渡る」千余里、末盧国に至る。
>東南「陸行」五百里にして、伊都国に到る。

(二)
>東南奴国に至る百里。
>東行不弥国に至る百里。

(三)
>南、投馬国に至る「水行」二十日。
>南、邪馬壱国に至る、女王の都する所、「水行」十日「陸行」一月。
(「」は郭公)

 魏志倭人伝より帯方郡から邪馬台国へ至る行程と考えられている個所を抜き出すと上記のようになります。(一)(三)についてはすべて水行か渡海か陸行かを記しているのに、(二)のみは不明です。
 はたして、梯儁や張政は伊都国から奴国、不弥国へは水行したのでしょうか、陸行したのでしょうか、それとも行かなかったのでしょうか?

 (二)の個所に水行か陸行か渡海かが書かれていないのは、既に末盧国で上陸しているので、(実際は「津に臨んで捜露する」でみたように、伊都国で上陸したものと思いますが)、奴国、不弥国へは陸行が前提となっているために省略されたと考えられます。
 ですから、ここでは、奴国、不弥国へ陸行したものとして考えてみます。

 不弥国がどこであるかはひとまず措くとして、不弥国から投馬国へ水行しているのだとすれば、不弥国へは、伊都国から水行できることを意味しております。水行できるところへ、おおよその距離ではあっても二百里を陸行しているのですからきわめて不自然な行程と言わなければなりません。

 次に、奴国、不弥国がどこであったかを考えてみます。これには異論があるところかと思いますが、以前にも書きましたが、奴国=春日市周辺、不弥国=宇美町だと思います。伊都国からの方角に合致し、相応の遺跡を持っているからです。
 これも以前に書きましたが、服部四郎は、不弥はpumiと発音するそうで、「いかに外国人である魏の使節たちと言っても、umiをpumiと聞き誤るはずはない。そこで私は、倭人伝の原本には于彌と書かれていたものが不彌と書き誤られたのではないかと考える」(『邪馬台国はどこか』)と書き、宇美説を採っております。
 この宇美は海浜に面しておりません。ここからどのようにして水行するのでしょうか?

 立岩堀田遺跡のある飯塚市を不弥国に比定する説もありますが、これも事情は同じこと、海に面しておりません。ここからどのようにして水行するのでしょうか?

 不弥国、津屋崎説もあります。これは、水行できるところが暗に前提となって比定されたものでしょう。この場合奴国へはどのようなルートで行ったのでしょうか?


 ここで、(三)についてもう一度考えてみましょう。文献を引用します。
 橋本増吉は、
> 然るに、翰苑所引の魏略本文には、「自帶方至女國、萬二千餘里」とあるだけで、不彌國や投馬國や邪馬臺國に至る里程記事及び「水行二十日」、「水行十日、陸行一月」なる日程記事を全然缺いてゐるのである。(中略)もし、魏略の本文は、本來魏志の本文とは違つてゐたもので、魏略の本文には、不彌國より邪馬臺國に至る「水行二十日」、「水行十日、陸行一月」なる行程記事は存在しなかつたものであるとすれば、この疑問は容易に解釋せられ得るのである。即ちかの里數行程と日數行程との兩記事は、もと別々の傅へであつたもので、魏志に至つて始めて、不用意に採録併記せられたものと読むことにより、全く魏志の撰者陳壽の無頓著或は寧ろ邪馬臺國をば南方遠隔の地と見る好奇心の結果として、解することが出來る譯である。 (『東洋史上より見たる日本上古史研究』)

 佐伯有清は、
> 「投馬国」より前に記載されている国ぐにの戸数については(中略)「有…戸(家)」という表記法をとっているのに対し、「投馬国」と「邪馬台国」のところは、「可…戸」となっていて、ここでも里数と日数の表記の違いがあるのと同様に、「投馬国」以前と以後とのもちいた史料が異なっていたらしいことをしめしている。(『魏志倭人伝を読む 上』)

 もっともな指摘であると思います。
 そうしますと、奴国、不弥国への陸行説に立てば、「投馬国」への起点を「不弥国」と考えるのはきわめて不自然なのです。あり得ないと言ってもよいのではないでしょうか?。
 もともと別に存在した(三)を陳寿の地理観によって不弥国の後に置いたとしか考えられないのです。起点さだかならぬ(三)の記事を不弥国の後に置いたことにより、いかにも、伊都国から奴国、不弥国へ陸行し、不弥国から再び水行したかのような不自然な行程記事になってしまっております。

 この投馬国以降の日数表記の行程を、この不弥国のあとに置いたと言うことは、もともと起点の書かれていない別の史料として存在していたのを、陳寿が、倭国は南北に長いと思っていたこと、伊都国から女王国まで千五百里あることを考えて挿入したのではないでしょうか。
 ですから、投馬国への水行の起点は不弥国ではあり得ないと思います。

 ただし、こう書いてもまだ疑問は残っております。
 仮に不弥国まで陸行しても、そこから「女王国」へのルートが書かれておりません。
 なぜなのだろう?
 梯儁、張政は女王国へ行ったのだろうか? ひょっとすると行ってないのではないだろうか?
 しかし、梯儁は卑弥呼に会っておりますし、張政は台与に会っています。
 それでは、どこで会ったのか? 残るのは伊都国しかありません。
 
 梯儁が卑弥呼に、張政が台与に会ったのは伊都国ではないだろうか?
 そう考えると、女王国への行程記事がないのも頷ける。
 私が考える、女王卑弥呼の墓が平原にあるのも頷ける。

 補足しておきますが、では、(二)(三)の情報はどのようにして得られたのか?
 たぶん、伊都国での聞き取りのよるものではないかと思います。

 ただし、魏志倭人伝に拠るかぎり、ここは伊都国であって女王国ではありません。
 女王国は別にあるはずです。そこがどこかは今のところ、太宰府あたりとしておくしかありません。
 邪馬台国は、伊都国から水行二十日の投馬国を経てさらに、水行十日陸行一月のところにある。
 女王国は伊都国の南、たぶん宇美の南の太宰府あたりにある。
 邪馬台国≠女王国。

 いささか我田引水の謗りも免れないかとも思いますが、こう考えるよりほかに魏志倭人伝を解読する方法はないのではないか。


 残る問題点
 魏略には、上記引用文にもあるように
>自帯方至女国万二千余里
 魏志倭人伝にも、
>自郡至女王国万二千余里
と書かれていて、邪馬台国への距離ではなく「女王国」への距離として書かれています。
 
 しかしながら、魏志倭人伝には、邪馬台国は女王の都する所とも書いていますので、邪馬台国=女王国と考えられています。
 本当にそうだろうか?
 なぜ陳寿はこう書いたのだろうか?
 ここがまだわからないところです。



 参考文献
 橋本増吉『改訂増補 東洋史上より見たる日本上古史研究』(東洋書林)
 佐伯有清『魏志倭人伝を読む 上』(吉川弘文館)






梯儁、伊都国で卑弥呼に会うの巻 (Feb.11, 2002)