住吉大社と八咫鏡 (Jan.13, 2003)

 『住吉大社神代記』に次のような記述がある。
> 一、天平瓮(あめのひらか)を奉る本記
> 右、大神、昔皇后に誨(おし)へ奉りて詔(の)り賜はく、「我をば、天香个山(あめのかごやま)の社の中の埴土(はに)を取り、天平瓮(あめのひらか)八十瓮(やそき)を造作(つく)りて奉斎祀(いはひまつ)れ。又覬覦(みかどかたぶく)る謀(はかりごと)あらむ時にも、此(かく)の如く斎祀(いつきまつ)らば、必ず服(まつろ)へむ。」と詔り賜ふ。古海人老父(あまのおきな)に田の蓑・笠・箕(み)を着せ、醜き者として遣わして土を取り、斯(これ)を以て大神を奉斎祀(いはひまつ)る。此れ即ち、為賀悉利祝(ゐがしりのはふり)、古海人等なり。斯(ここ)に天平瓮を造る。


 大神は住吉大神。皇后は神功皇后。
 文中では天香久山となっているが、今は畝傍山に変わっていて、この神事は今でも続いている。毎年2月と11月に住吉大社から「埴使い」が畝火山口神社を訪れ、山頂で土を取り、その土で住吉大社の祭祀に使用する土器を作る。「埴取神事」という特殊神事である。
 畝火山口神社の祭神は、表筒之男、神功皇后、豊受大神。
 表筒之男は住吉三神の一。なぜ表筒之男だけ祀られているのかよくわからないが、住吉大社では、第一本宮(底筒之男)、第二本宮(中筒之男)第三本宮(表筒之男)と海へ向かって直線に並んでいるが、その第三本宮の南隣りに、第四本宮(神功皇后)が祀られていることと関連があるのかもしれない。


 為賀悉利祝は為賀悉利の神に仕える神職。為賀悉利の神は『住吉大社神代記』に、
> 紀伊国伊都郡、丹生川上社 天手力男意気続流(あめのたちからおおけつづくる)住吉大神
> 一、猪加志利乃神、二前。一名為婆天利(ゐばてり)神
> 「吾は住吉大神の御魂ぞ」と『為婆天利神、亦は猪加志利之神と号す』

 この神社は、今の「相賀八幡神社」(和歌山県橋本市胡麻生)のことと思われる。
 祭神は、「誉田別尊(応神)」「足仲彦尊(仲哀)」「気長足姫尊(神功)」だが、由緒記に、
> 当神社の創建は不明。『南海道紀伊国神名帳』によると、「天手力雄・気長足魂・住吉神」とあり、古くは住吉大社の神を祀っていたようである。
(これは以前に「神奈備サイトhttp://www.kamnavi.net/index.htm」で教えていただいた)

 また、
> 西成郡 座摩(ゐがしり)社
は、現在、大阪市中央区久太郎町4−渡辺3にあり、境内に陶器神社がある。この西隣の阪神高速の出口あたりで、毎年夏、せともの市が行なわれていたのもこの「本記」と縁があるのかもしれない。
 もともとは、座摩神社のお旅所があった天神橋の東南方が旧地であったと推定されている。


 日本書紀『神武即位前紀』にも、「天平瓮(あめのひらか)を奉る本記」と類似の記事がある。
> 夢に天神有りて訓へて曰はく、「天香山の社の中の土を取りて、天平瓮(あめのひらか)八十枚を造り、并せて厳瓮(いつへ)を造りて、天神地祇を敬祭り、亦厳呪詛(いつのかしり)をせよ。如此せば虜自づからに平伏ひなむ」とのたまふ。天皇、祇みて夢の訓を承り、依りて行ひたまはむとす。時に弟猾(おとうかし)、又奏して曰さく、「(中略)・・・今し当に天香山の埴を取りて、天平瓮(あめのひらか)に造りて、天社国社の神を祭りたまふべし。然して後に虜を撃ちたまはば、除ひ易けむ」とまをす。天皇、既に夢の辞を以ちて吉兆としたまひ、弟猾の言を聞こしめすに及り、益懐に喜びたまふ。乃ち椎根津彦(しいねつひこ)に弊れたる衣服と蓑笠とを著せて老父の貌に為らしめ、又弟猾に箕を被けて老嫗の貌に為らしめて、勅して曰はく、「汝二人、天香山に到り、潜(ひそか)に其の巓(いただき)の土を取りて来旋るべし。基業(あまつひつぎ)の成否は、汝を以ちて占はむ。努力、慎め」とのたまふ。是の時に、虜兵路に満みて往還ふこと難し。時に椎根津彦、乃ち祈ひて曰く、「我が皇、能く此の国を定めたまふべきものならば、行かむ路自づからに通れ。如し能はじとならば、賊必ず防禦かむ」といふ。言ひ訖りて径に去く。時に群虜二人を見て、大きに咲ひて曰く、「大醜乎(あなみにく)、老父老嫗」といふ。則ち相与に道を闢き行かしむ。二人其の山に至ること得て、土を取り来帰れり。是に天皇甚く悦びたまひ、乃ち此の埴を以ちて、八十平瓮・天手抉(あめのたくじり)八十枚・厳瓮を造作りて、丹生の川上に陟り、用て天神地祇を祭りたまふ。則ち彼の菟田川の朝原に、譬へば水沫の如くして、有所呪(かしり)著けたまへり。天皇、又因りて祈ひて曰はく、「吾、今し八十平瓮を以ちて、水無しに飴(たがね)を造らむ。飴成らば、吾必ず鋒刃の威を仮らずして、坐ながらに天下を平けむ」とのたまひ、乃ち飴を造りたまふ。飴即ち自づからに成る。又祈ひて曰はく、「吾、今し厳瓮を以ちて丹生の川に沈めむ。如し魚大きと小きと無く、悉に酔ひて流れむこと、譬へば[木皮]葉(まきのは)の浮き流るるが猶くあらば、吾必ず能く此の国を定めてむ。如し其れ爾らずは、終に成る所無けむ」とのたまふ。乃ち瓮を川に沈む。其の口、下に向けり。頃ありて魚皆浮き出で、水の隨にアギトふ。時に椎根津彦見て奏す。天皇大きに喜びたまひ、乃ち丹生の川上の五百箇真坂樹(いほつまさかき)を抜取にして、諸神を祭りたまふ。此より始めて厳瓮の置(おきもの)有り。

 椎根津彦(「古事記」では槁根津日子)は海導者として登場する。

比嘉康雄
『神々の古層 (6)
来訪するマユの神』
(ニライ社) 表紙より

 また、
> 古海人老父(あまのおきな)に田の蓑・笠・箕(み)を着せ、醜き者として・・・
> 乃ち椎根津彦(しいねつひこ)に弊れたる衣服と蓑笠とを著せて老父の貌に為らしめ、又弟猾に箕を被けて老嫗の貌に為らしめて・・・


 この風体は沖縄石垣島に残る「マユンガナシ」を連想させる。たしかそんな説をどこかでみかけたが出典を忘れてしまった。

http://www.ipm.jp/ipmj/int/haga/haganama4.html
(c)芳賀日出男・芳賀ライブラリーより


 さて、この二つの類似の記事はそれぞれ別のものだろうか?
 どちらかにオリジナルがあり、他方がそれを踏襲したと考えられないだろうか?
 つまり、事実はひとつだがその事実を他方にも当てはめた可能性はないだろうか?
 端的に言えば、住吉大社の記事は事実として現存しているわけだが、神武即位前紀の記事は前者の事実を襲って創作した可能性はないだろうか?
 
 書紀、住吉大社神代記ともに、住吉大社の創建は神功皇后の時代としているが、実年代としてはいつ頃になるだろうか?
 『宋書』倭国伝に、讃珍済興武、いわゆる倭の五王の朝貢記事がある。
>高祖の永初二年(421年)、詔していわく、「倭讃、万里貢を修む。遠誠宜しく甄すべく、除授を賜うべし」と。

 高句麗公開土王(好太王)碑文に、
> 倭以辛卯年(391年)来渡海、破百残■■新羅、以為臣民。

 通説に従い倭讃を仁徳とすれば、また上記碑文を神功皇后の三韓征伐と関連づけて考えるならば、神功皇后、および応神天皇の時代は四世紀後半あたりから五世紀初頭あたりとなるだろう。とすれば、住吉大社の創建もその頃になろう。
 ただ、神功皇后の実在性については疑問がある。書紀『神功皇后摂政紀』に、
> 皇太后を追尊びて気長足姫尊と曰す。
とあるように気長足姫尊(「記」では息長帯比売命)とは諡であり、存命中の実名ではないのだ。『風土記』においてもこの謚で書かれている。
 モデルになる人物はいたのかも知れないが、いずれにしても後世の創作の可能性は充分にあるのではないかと思う。
 では、その息子、誉田別(応神)はどうだろうか?
 専門家の間でも意見が分かれているところである。


 次に、いわゆる神武東征はいつ頃のことであろうか?
 和歌山市和田の竈山神社の祭神は五瀬命。神武天皇の兄。生駒山西麓で長髄彦との戦いで傷を負い、一旦引きかえし大阪湾を南下し紀ノ川の入り口、竈山で亡くなる。竈山神社にその墓がある。神社そのものは若干移動しているようであるが、墓はすでに『延喜式』にも記載があり、鵜飼、木野、笠野の三家が墓守りでいまも和田に居住されているとのことである。
 (谷川健一編『日本の神々6:伊勢 志摩 伊賀 紀伊』白水社)
 お墓は宮内庁の管轄になっていて、あいにく近づけないけれども、この墓の年代が分かればいわゆる神武東征の時代も分かる。
 ここも問題点のひとつである。
 


 またこの祭祀は伊勢神宮にも残っている。
 『豊受皇太神宮御鎮座本紀』に、
> 亦随天神之訓。以土師氏為物忌職。造天平瓮諸土器類(天)供進。
 『造伊勢二所太神宮寶基本記』に、
> 随天神地祇之訓。土師物忌取宇仁之波迩。造神器并天平瓮。敬祭諸神宮。別天平瓮八十口。柱本并諸木本置之。天照太神宮等由氣太神宮別八十口。荒祭高宮月夜見宮伊佐波宮瀧原宮斎内親王坐礒宮別八十口進之。是即天下泰平・吉瑞。諸神納受・寶器也。

 福山敏男『伊勢神宮の建築と歴史』(日本資料刊行会)に、
> 神宮雜例集及び勘仲記正應元年二月條によれば、保安二年八月、洪水のため外宮御正殿の床下に浸水して水深二尺にも達し、心御柱の廻りに据ゑてあつた天平賀(式年遷宮の度に新造して安置する土器)のうち451口が瑞垣の内乾の角に流れ寄つたと云ひ、同四年八月の洪水の時は御正殿の下の水深は二尺八寸にも達し、為に新御柱が水に隠れ、天平賀408口、堝(毎年の三節祭の度に由貴の御饌供進の際種々の忌物を納めて安置する土器)7口が瑞垣内の正殿の東南西方に流れ寄つたといふ。

 では、この伊勢神宮の創祀はいつ頃になるのだろうか?
 書紀には垂仁天皇の時代と書かれているけれども、はたしてそうだろうか?

 岡田精司『古代王権の祭祀と神話』(塙書房)に、
> 470年代の雄略の治世に創建年代を求められることは、考古学資料からも裏づけられる。その第一は祭祀遺跡である。伊勢神宮の祭祀遺跡としては、外宮神域内(地点不明)から子持勾玉が発見されているほか、内宮神域からも荒祭宮北方の森から滑石製の臼玉が大量に出土しており、『神都名勝誌』にも記されて古来有名である。いずれも五世紀代に盛行した祭祀遺物であるから、外宮の方は度会国造以来の祭場であったことで解釈できるが、内宮の方は戦後の通説のように六世紀後半以降の創建とするならば説明が困難であろう。社殿の有無は別としても、五世紀代に内宮もしくはその前身の太陽神祭場がすでに存在したという、有力な証拠となろう。
> 考古学的な証拠の第二としてあげられるのは、内宮の御神体を納める「御船代(みふなしろ)の形態である。御神体の鏡はいく重にも絹布に包まれて「御樋代(みひしろ)」という容器に納めた上、さらに「御船代」とよばれる容器に入れて、「御床」という台の上に安置してある。−(中略)− その形態(御船代)は古墳時代前・中期に盛行した<舟形石棺>の形そっくりで、縄掛突起に相当するものまであり、材質が石と木材の相違だけである。このことからもまた、内宮の成立がまだ舟形石棺の行なわれていた時代と推定できるであろう。


【舟形石棺について】
 割竹形石棺は、身の断面は円形を示すが、棺蓋・棺身の前後両端に縄掛突起をもっている。また割竹形石棺とおもむきを同じくする舟形石棺は、割竹形石棺の蓋と身をやや偏平にしたもので、縄掛突起をもつ点で共通しており、棺内部の遺骸頭部位に石枕の付けられていることもある。割竹形石棺・舟形石棺はともに繰抜式石棺としては典型的な例であり、4世紀代から5世紀代にかけて盛行したものである。
(大塚初重・小林三郎編『増補・新装版 古墳辞典』東京堂出版)


 右図は、岡田精司前掲書より。






 内宮には天照大神が祀られているがその御神体は八咫鏡である。そもそもその八咫鏡とはいったい何であろうか?
 原田大六『実在した神話』(学生社)ですでに指摘され、森浩一氏もまた『日本神話の考古学』(朝日新聞社)でそれを襲っている。
 結論を先に書こう。
 両氏ともに、伊勢神宮の八咫鏡は福岡県前原市にある平原遺跡(平原1号墓)から出土した径46.5cmの八葉座の超大型内行花文鏡と同じものだと言う。以下その根拠を要約する。
・【咫】周代の小尺における長さの単位。一咫は大尺で約八寸、今の約18cm。八咫で円周144cm。直径約46cm。
・内宮の御神体を容れる樋代の内径は1尺6寸3分。これは唐尺で、今の約49cm。
・『伊勢二所皇御大神御鎮座傳記』に、伊勢太神宮の宝鏡について以下の注が付いている。
> 一名日像八咫鏡是也。八咫。古語八頭也。八頭花崎八葉形也。故名八咫也。中臺圓形座也。圓外日天八座。
 鏡は太陽を象ったものである。大きさは八咫である。八頭花崎は内行八花文のことである。八葉とは、鈕孔を巡る八葉座のことである。通常の内行花文鏡は四葉座であるから平原のこの超大型内行花文鏡の八葉座は例がない。
・後漢代の内行花文鏡は、前漢代の、日光鏡、清白鏡の系譜上にあると言ってよく、まさに太陽を象ったものである。


 では、平原1号墓を見てみよう。(前原市教育委員会『平原遺跡』)
(1)墳丘
東西径13m、南北径9.5mの方形周溝墓である。盛土部分は削平されていたが、「ツカバタケ」と呼ばれることから、近世まで墳丘が存在していた。
(2)主体部
1.墓壙は墳丘中央よりかなり北東側に掘られていた。木棺の頭部は西側。
2.割竹形木棺長さ3m。棺底に厚さ4cmの青粘土。その上に朱を敷く。ことに西側で多量の朱と多量の玉類。
(3)出土遺物
瑪瑙管玉12個。韓国では、3、4世紀のものだと言われている。
ガラス管玉30個以上、ガラス小玉約500個、ガラス連玉約886個。
耳[王當](じとう)片3個。弥生時代の遺跡から出土したのは日本ではこの平原が唯一。
素環頭大刀1本。長さ80.6cm。(郭公注:『魏志倭人伝』に五尺刀二口。小尺では1尺18cmだから5尺で80cm)
ガラス勾玉とガラス丸玉約500個、方格規矩四神鏡32枚、内行花文鏡2枚、超大型内行花文八葉鏡5枚(郭公注:従来4枚と考えられていたが柳田康雄氏の最近の研究で5枚であることが判明した。ただし、破砕されていて鏡片を繋ぎあわせても完鏡にはならないようだ)、[兀虫]龍(きりゅう)紋鏡1枚。

 平原1号墓の特徴は、大量の玉類に比して素環頭大刀が一本であること、耳[王當]の出土などにより被葬者は女性と考えられている。また、副葬品が豪華であることから女王の可能性は充分にある。
 年代は、瑪瑙管玉が韓国では3世紀から4世紀の遺跡から出土すること、周溝内および主体部墓壙内から弥生後期前半と弥生終末の土器が出土していること、南隣りの2号墓とは周溝を共有しており、1号墓、2号墓の築造時期は近接しており、出土土器から2号墓は弥生終末から古墳時代初頭と考えられている。実年代としては3世紀であろうことが考古学界でも最近認知されつつあるようだ。この平原1号墳は古くは原田大六氏、最近では岡村秀典氏(『三角縁神獣鏡の時代』吉川弘文館)などずいぶん古く見る学者もいるのである。

 さて、私見を述べないまま資料を引いてきたけれども、この一連の資料から何が見えてくるだろうか?
 まだまだ確かめなければならないことがたくさんあることは言うまでもないし、補足しなければならない箇所も随所にあるが、おおまかな見通しとしては、私には以下のように思える。

 4世紀後半から終末の頃、北部九州で生まれた誉田別は、平原の超大型内行花文八葉鏡(八咫鏡)を御神体とする天照大神を奉斎して東上した。同行したのは住吉三神を奉斎する海洋氏族であった。触れなかったけれども、天児屋(アメノコヤネ)命を祖とする後の中臣氏もこのとき同行したのではないかと思う。
 まず、住吉大社が応神の時代に創建された。雄略の時代に伊勢が平定され、その時天照大神も伊勢に遷された。
 神武天皇については実在せず、応神の事績を投影したものではないだろうか。