・皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯

 この文の読み下しにはまだ定説がない。私は、
・皆、津に臨んで、伝送の文書賜遺の物を捜露し、女王に詣り差錯するを得ず。
 と読むのがいいのではないかと思う。

 津とは船着場のことだから、津に臨むとは、入港する際に、上陸する際にと考えられる。
 捜露するとは、捜し出し露わにする、捜してはっきりさせると言うことであろうか。
 皆とは誰のことか。港で待つ側の者たちであるのか、船内の者たちであるのか。
 賜遺とは賜い遣わす、受け取るのは倭の女王であるから、与える側は魏帝と言うことになる。その役目を負った使者一行は責任重大である。そのように考えると、「皆」とは、船内の使者一行を指すと考えるのが穏当ではあるまいか。伊都国の港で検閲する側を指しているのではない。そもそも、検閲する立場でもなかったのではないか。
 したがって意味としては、私は下記のように考える。

・「伊都国へ上陸する際、船中の誰もが、魏帝から伝送された文書や賜遺の物を漏れのないように探し明らかにした。倭の女王卑弥呼のもとへ行き、文書と物とに齟齬があってはならないからだ」

 この一文からいくつかのことがわかる。
(一)
 まず、伊都国へは末盧国から陸行したのではなく、伊都国まで船で行ったことがわかる。つまり、末盧国から伊都国への陸行の記事は魏使の旅程ではない。

 「魏志倭人伝」に書かれている伊都国までの道のりは、先行する「魏略」にも類似の文章がある。魏志倭人伝が魏略を襲ったか、魏志倭人伝、魏略ともにそれに先行する史料を襲ったかのいずれかであろう。
 誰であるかは不明だが、末盧国から伊都国へ陸行したものがおり、それが記録として残っていたと言うことだ。しかし、魏使は伊都国へは直接船で入港していることを示している。

(二)
 年表によると、魏が成ったのは西暦220年である。倭国から魏への初めての使者は景初三年(239年、あるいは景初二年)である。じつに、19年後の朝貢である。これは、遼東、帯方郡に公孫氏が半ば独立状態で跋扈していたことによる。その公孫氏の滅亡を期に魏へ使者を派遣したのである。
 「魏志倭人伝」に書かれている魏との交渉は、この景初三年(239年)から正始八年(247年)に張政が来倭し帰国するところまで書かれている。ただし、張政がいつ帰国したのかは不明であるが、魏使は正始元年(240年)と正始八年(247年)の二度来倭していることになるが、冒頭の記事は正始元年の梯儁一行の来倭と対応する。

 伊都国で上陸したと言うことは、倭の女王卑弥呼は伊都国から陸行できるところにいたことを示している。
 「魏志倭人伝」には、伊都国のあとに、
・東南、至奴國百里。官曰シ馬觚、副曰卑奴母離、有二萬餘戸。
とあるが、この奴国はいまの福岡県春日市一帯と考える。須玖岡本遺跡一帯である。続けて、
・東行、至不彌國、百里。官曰多模、副曰卑奴母離、有千餘家。
 この不彌国はいまの福岡県宇美町一帯と考える。最近発掘された光正寺古墳を有する町である。服部四郎は不弥は于弥の誤記ではないかと言っているが、私もそれに従う。
>当時の発音では、
>  宇美  umi
>  不彌  pumi
>であるから、いかに外国人である魏の使節たちと言っても、umiをpumiと聞き誤るはずはない。そこで私は、「倭人伝」の原本には「于彌」と書かれていたものが「不彌」と書き誤られたのではないかと考える。

・自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、畏憚之、常治伊都國(女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国これを畏憚す。常に伊都国に治す)

 この記事と合わせて考えると、女王国は伊都国の南にあり、伊都国から陸行できる所にあることになる。

 しかし、「魏志倭人伝」には、先に上げた不弥国に続いて、
・南至、投馬國、水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸。南至、邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月、官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳テイ、可七萬餘戸。
とある。邪馬台国が、女王の都であると書かれている。
 (ここで断っておくと、現存する数種の『三国志、魏書、烏丸鮮卑東夷伝、倭人条』通称「魏志倭人伝」には、上記引用のように邪馬「臺」国ではなく、邪馬「壹」国と書かれているが、これは邪馬「臺」国の誤記とする説に従う。また、「臺」を略して「台」と表記する)

 しかし、この記事は奇妙である。伊都国から東南の奴国、そこから東の不弥国へ陸行し、不弥国からさらに水行している。当時の海岸線は現在よりもっと内陸にあったことが知られているが、それでもいまの博多駅あたりである。
 まず、邪馬台国が女王卑弥呼の住んでいた所とするならば、なぜ、伊都国から陸行して奴国、不弥国と立ち寄らなければならなかったのか、さらに、不弥国から水行しなければならないのか。伊都国から水行してもいいのである。とすれば、なぜ伊都国に上陸する際に、「捜露」したのか。同じ船で水行するのなら、最終的に上陸する港で「捜露」すればよいのである。また、仮にここで「捜露」し、さらに水行すると言うことは、違う船に積み替えた、つまり船を替えたことを意味している。何故なのか? 当時の造船技術は倭国の方が進んでいたと言うわけでもないであろう。

 また、不弥国までは里で表記されているのに対し、この投馬国、邪馬台国への距離は日数表記になっている。この投馬国、邪馬台国への表記と、不弥国までの表記とは魏志倭人伝が参考にした史料そのものが異なっていたとする説があるが、その通りだと思う。もともと、別に存在していた投馬国、邪馬台国までの記事を、「魏志倭人伝」は不弥国の後ろに付加したと私は考える。
 そのように考えると、この投馬国、邪馬台国への日数表記はどこを起点にしているのかと言う問題が残る。私は、伊都国ではないかと思うが、これはもちろん推量である。
 「魏志倭人伝」はあくまでも、いくつかの史料によりながら結果として各国の位置関係を示そうとしたのである。魏使一行の報告書に基づく旅程ではない。

・自女王國以北、其戸數道里、可得略載、其餘旁國、遠絶、不可得詳。(女王国より以北、その戸数・道理は得て略載すべきも、その余の旁国は遠絶にして得て詳かにすべからず)

 不弥国までは、戸数も道里(里数として)が書かれている。不弥国から水行したとは考えられない投馬国、邪馬台国への記事が存在しなくてもこの記事は成り立つ。
 つまり、女王国は、不弥国の南にしかも陸行できるところにあったのではないかとの推測が導かれる。具体的には、私は、大宰府あたりではないかと考えるに至っている。

 もちろんこの考えは、「魏志倭人伝」の記述と矛盾する。邪馬台国は、不弥国から南へ水行二十日で投馬国へ行き、さらにそこから南へ水行十日、陸行一月というどこだかわからないところにあるのだから。
 しかしながら、本当に邪馬台国=倭の女王卑弥呼のいる女王国なのかどうか? 私は別の国ではないかと考えている。「魏志倭人伝」は邪馬台国ではなく、女王国と言う言葉で考えた方がはるかにわかりやすい位置関係を示しているのである。
 それでは、なぜ「魏志倭人伝」は、「邪馬壹國女王之所都」と書いたのか?
 ここがわからないところである。

 さて、私は、大宰府あたりが女王国であろうと書いたが、それでも問題がないわけではない。ひとつには、倭の女王卑弥呼の墓である。私は、この卑弥呼の墓を「平原1号墓」と考えている。被葬者は女性であると考えられること、三世紀と考えられること、副葬品から王墓と考えられることに拠っている。ただ、この墓は伊都国にある。卑弥呼の墓がなぜ女王国になく、伊都国にあるのか?
 もちろん当時の伊都国王が女王であり、その墓が平原1号墓と考えることはできるが、いまのところこの平原1号墓以上の墓が発掘されていないのである。
 これにもまたうまい考えが見出せずにいる。

 以上のように、まだ解決できていないところもあるけれども、私は、邪馬台国と女王国は別の国であり、女王国は北部九州にあり、卑弥呼の墓は「平原1号墓」であると考える。

 
参考文献
石原道博編訳『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝 宋書倭国伝・隋書倭国伝』(岩波文庫)
服部四郎『邪馬台国はどこか』(朝日出版社)
内嶋善兵衛ほか『日本の自然 地域編 7 九州』(岩波書店)




津に臨んで捜露する (June 23, 2001)