山上ヶ岳 (Apr.22, 2001)

 東大阪にある鋳物工場で毎月一回、銅鐸、銅鏡の復元作業をやっている。夕方になると近くのすし屋の二階で勉強会と称する飲み会。この日は、すし屋の表に「古代のロマン 河内の語り部サロン」と書かれた看板を掲げてくれる。題字は成瀬国晴氏。鋳物屋の大将、私を紹介してくれた学校の先生、彼らが同級生なのだ。もうひとつ付け加えると、その時の国語の先生が、昨年まで某大学の学長だった西宮一民氏。記紀や古語拾遺の校注で有名。それが縁で私も何度かお会いしたことがある。
 この会合には、考古学の教授、某考古学研究所の関係者、鋳造の同業者もいれば、工業高校の先生、考古学専攻の学生、それに私のような、古代史ファンも何人か出席している。私たち素人は言いたい放題だが、先生ともなるとさすがに慎重だ。
 それはともかく、昨年12月、久しぶりに顔を出した。
 「すいません、サボってばっかりで。ちょくちょく山へ行っていて」
 「ふうん、どこへ?」
 「近場ばっかりですけど、大峰とか」
 「大峰か。そう言えばお寺があるよね。あそこの梵鐘の銘文を写真に撮ってきてくれませんか」
 「いいですよ。おまかせあれ。ただし、雪が解けてからね」
 山上ヶ岳の山頂にある大峰山寺、あそこに鐘楼があったかどうか、記憶は定かではないけれど、お安いご用だ、いずれ行くのだから。

 金曜日徹夜したせいか、昨日は早くから布団にもぐりこんだ。天気ならば出かけよう。ちょうどいい機会だから山上ヶ岳へ。
 早朝DOPPOさんから、「雨上がったで〜、はよ起きなはれ」とメールが入った。DOPPOさんはDOPPOさんで、ある山行を予定しているとのこと。

 名水豆腐に予約を入れて、清浄大橋の茶屋に着いたのが7時40分ころだったか。天川までトンネルが通って格段に早くなった。駐車場のいちばんはしっこに車を停めて靴を履き替える。日帰りだし、荷物は軽い。荷物と言えばめったに使わない三脚と300ミリのレンズくらいである。あとはコンビニで買った食料、お茶。雨具。手帳、タバコ、飴玉。

 赤い橋を渡り、「従是女人結界」と書かれた門をくぐる。雨上がりで少し冷えていたが天気は良い。途中の茶屋でさっそくトレーナーを脱ぐ。カッターシャツの袖を捲くる。
 吉野からの道と合流する洞辻茶屋ですでに下山する人と会った。六時から登り始めたそうである。朝は風がきつかったらしい。鐘掛岩直下の北斜面で残雪を20メートルほど左に横切る。さすがに緊張したが、これは右に祠の上を通ることもできたはずだ。そうすれば雪を横切る必要もなかったかもしれない。先を急ぐ必要もないので、展望台へ行ってみたりその上の岩場に廻ってみる。洞川の町が窪地に密集しているのがよくわかる。
 10時山頂の大峰山寺。息が上がることもなく来れた。明神21のみなさんとお付き合いするようになって自分らしからぬ頻繁な山行のおかげで少しは体力がついてきたのかもしれない。もっとも荷物が軽いこともある。
 さて、写真を撮ろうかと廻りを見渡すけれど、鐘楼らしきものが見当たらない。まさか本堂の中じゃないよね。鐘だもの。お花畑まで上がって休憩。稲村、大日、弥山と良く見える。先客が単独行と二人組の三人。鐘について聞いてみたけれど、「さあ、何度か来ているけれど見たことないなあ」と。ないものは仕方がない。僕も座って、おにぎりやパン。お茶を飲む。風も幾分ある。トレーナーを被る。
 
 日本岩へ廻ると登山口の茶屋あたりも見える。洞川を囲む山の向こうの市街地も臨まれた。いったん宿坊の方へ下りてみる。どっかにあるのかもしれないと思ってきょろきょろしたがどうも見当たらない。
 ひょっとすると麓の洞川のお寺のことだったのかな? 「やれやれ」

 ふたたびお花畑にもどり、そこからレンゲ峠、レンゲ辻、林道と下る。12時55分に駐車場に戻る。予約しておいた豆腐を貰って、お寺(龍泉寺)へ。
 「あった、あった」
 このことかな? 鐘の廻りをぐるっと見渡すとたしかに浮き彫りの銘文がある。あるがこのことだろうか?
 大峯内道場
  龍泉寺
(子)時寶(永)六稔
(巳)ノ四月吉(小)
 括弧は不確かな文字である。金石文の解読は難しい。写真に撮ったあと、境内を掃除しておられた女性の方にお聞きするとお坊さんが寺務所にいてはるから、と。お坊さんに聞くと「はい、見てみましょう」と気持ち良く外へ出てこられた。
 よくはわからないがと前置きされて、稔は年、(小)は祥ではないでしょうか、と。
 なるほどそれで一応意味は通る。
 「ここにもありますね」と、お坊さんは別の箇所を指さされた。鋳造段階ではなく、鋳造後にノミのようなもので彫ったらしい文字が薄くあった。
 定次二代五位堂
        五郎兵衛
 定次の名前を継いだ二代目が五位堂の五郎兵衛と言う人でしょう。他にも文字のあとらしきものがありそうなので、ひょっとすると寄進者の名前かもしれませんね。このお寺は昭和6年に火事に遭ったので、古い記録が残っているかどうか、探せばこの鐘の由来についても出てくるかもしれませんが。
 若いお坊さんだったが、いろいろ教えていただいた。ご本人、浅学で申し訳ありませんがと謙遜しておられたが、なかなかどうして。
 ただ、これが頼まれた鐘であったのかどうかは、ちょっと自信がないけれど。

 天川まで戻り、役場に車を停め、地図を広げながらDOPPOさんに電話をする。
 八剣の南の明星ヶ岳へ直登の道を見つけにナタとテープを持って行っているはずだから。
 電話はうまく繋がった。

 私はてっきり天川から南へ行きはったものとばっかり思っていたけれど、そうではなく五条から十津川へ行く道のようである。今、その帰りだと。それじゃあ仕方がない。帰るとするか。吉野川を渡って下市の交差点で信号待ちをしているとDOPPOさんから電話がかかった。すこし道を間違えて遅れたけれども、室の交差点の近くでまたもや再会。
 「やあやあやあ。よう会いますね〜」
 近くの喫茶店でコーヒーをごちそうになる。よくよく考えてみるとDOPPOさんとは3週連続で会っていることになる。その前は中一週で二上山から葛城山までご一緒いただいた。
 季節が進むごとに行く山もまたすこしずつ高くなってくるから、お互いの山行が別々であっても地理的に近くなるのもありがちなことである。
 低気圧通過後の幾分ひんやりとした中で、快適な山歩きだった。