The 舟のタワ (May 12/13, 2001)

 トンネル西口が近づくにつれ空が広くなる。真っ青な空の端っこに白の絵の具をチューブからそのまま乾いた絵筆に取ってささっと掃いたような雲があった。
 山は開いたばかりの初々しい葉が多いのだろう、じつに軽やかな緑であった。
 いくぶんひんやりとして肌にまとわりつかないさらっとした山の空気。
 陽が透けて見えそうなブナの若葉。
 稲村、大日、山上ヶ岳、大普賢、後ろに、右手にと常になくはっきりした輪郭で見えていた。
 大普賢はみっつの大日みたいなとんがりかと思っていたが、よく見るともうひとつちっこいのがあった。
 なにもかもが軽やかだった。

 30人ほどのパーティを追いぬくと弥山の尾根。山頂はもうそこだ。
 木陰や国見覗では三々五々の昼食だ。僕も国見覗でシートを出し、のんびりと昼食。
 一時過ぎに鞍部へ下り、八剣へ。八剣山頂も満員だった。
 14:00に明星の湯の又への分岐。
 DOPPOさんの掲示板の書き込みでは、どうやら今日再び湯の又からここへ上がるルートに挑戦しているはずだ。もはや下りられたのか、まだ登る途中なのか。下りるにしては早すぎるようにも思えたし、登る途中だとすればテン泊になるかもしれない。
 僕は、



  と書いたメモを分岐の看板に挟んでおいた。

 きょうは、「舟のタワ」までの予定である。先日、楊子ヶ宿まで行った時、ここを通った。山深いところにありながら、明るいし、穏やかなところだった。倒木に腰掛けて次はここで泊まろうとひそかに決めていたのだ。
 明星ヶ岳を下りきった少し先の尾根筋の鞍部。しかも窪地になっている。舟底の感じに似ているためこの名前がついたのだと思うが、僕はむしろ「揺りかご」を連想した。
 穏やかな光を浴びながらのんびりと「揺りかご」の中で揺られていたかった。ゆっくりと山の朝夕を味わってみたかった。「揺りかご」と言うより母の胎内であったかもしれない。

 大崩れの手前で小休止。正面に釈迦ヶ岳、仏生、それを手前にたどると七面山へ派生する尾根筋。そのさらに手前の鞍部が「舟のタワ」だ。あそこだ。あと一時間くらいだろうか。大崩れを過ぎ、倒木を跨ぎ、くぐりながら尾根から巻き道、さらに尾根へ出たところにテントがひとつ。
 「こんにちは。天気がよくて」
 「どこまで行くの?」
 「もうちょっと先まで」

 余談だが、僕は山で「天気」と言う言葉は使ってはならないと最近考えている。
 「いい天気でよかったね」と言えば、いつのまにか雲に覆われる。
 「あいにくの天気で」と言えば、雨脚はさらに強まる。
 天気とは、まさに「天の気」であるから言霊(ことだま)が宿っている。それを司るのは山では山の神様だ。こんな言葉遣いをすれば、機嫌を悪くするに決まっている。山では「天気」に触れないのがいちばんだ。では、何と言ったらよいのか? 具体的に言うことだ。たとえば、
 「空が青くて良かったね」「お日さんが暖かいね」「雨もまた良しですね」などなど、とにかく「天気」と言う言葉を使わないようにするべきではないかと思っている。
 山の神のご機嫌を損ねてはならない。余談終り。

 たぶんこの辺りで、大台ヶ原の方から雷が聞こえた。山でまともな雷はまだ経験したことがない。こちらへ近づいたらやばい。
 ほらね。やっぱり気がつかないうちに「天気」と言う言葉を使ったからだ。
 でも、おかげで雨も二粒、三粒落ちただけで済んだ。

 「舟のタワ」に着いたのが四時前。設営後、大台側の斜面の倒木に腰掛ける。薄くガスがかかっていた。とても静かだ。
 すこし冷えてきたので、テントに帰り焼酎を飲む。再び外へ。太陽は幾重にも重なった紀伊山脈の遥か西に落ちようとしていた。鹿が一頭急斜面を駆け下りて行った。
 こんな光景の中にいるのだ。しびれる。

 知り合いがこんなことを言ったことがある。
 「山は郭公さんのマイブームなのね。でも、10年後は何をしているかわかんないわよ」
 そうかもしれない。見透かされているのかもしれない。10年経てばわかることだ。

 翌朝、零下まで温度が下がったのか、タープの水滴が凍っていた。バイケイソウがごわごわしていた。
 朝の光が真横から射している。
 倒木に腰掛けタバコを吸っていると、三人のパーティが。手前に張ってあったテントの人たちだ。一人がザックを背負い、残る二人は空身。仏生まで往復すると言う。

 六時、弥山まで引き返す。明星の登りに取りつく手前で、
 「郭公が鳴いてる」
 空には雲ひとつなかった。

 昨日挟んでおいたDOPPOさんへのメッセージはそのままの状態であった。もう下りたあとだったのかもしれない。
 八剣で八時半。弥山の天河弁財天奥宮で九時。小休止後、狼平へ下りる。

 すこし長いけれど、狼平から栃尾辻までの道もお気に入りなのだ。この時間になるともう誰も通らない。
 狼平で水を補給。
 立ち枯れたトウヒの後ろには真っ青な空があった。
 頂仙岳を巻いたあたりから、右に稲村がきりっと見える。
 栃尾辻手前の平坦なブナ林で大休止。ブナの若葉が逆光に映えている。陽射しがキラキラと光る。

 十五時、天川村役場。金曜に予約したタクシーに来てもらう。運転手さん、地元の人らしく山にはくわしそう。双門のこと、鉄山での遭難のこと、渓流の増水のこと、雹のことなど、いろんな話をうかがって西口まで乗せてもらった。