北岳−ずっとそこに見えているのに…(Aug.16/19, 2001)
(一)新宿から広河原
23時に新宿西口で湯浅と待ち合わせ。
「いよぉ〜」
一年ぶりである。去年は、蝶、常念、大天井、燕。一昨年は尾瀬へ行った。
まずはビールで乾杯。
23時50分発の急行アルプスは、1時59分に甲府に着く。わずか二時間だ。なるべく寝ておきたいところだが、結局お互い一時間ほどの睡眠ではなかったか。
甲府に着くとバス停ではすでに寝袋にくるまって仮眠してるのが数人。
タクシーのおっちゃん、「バスは4時半だよ」と。
「えっ? 3時とちゃうの?」
「それは8月15日までじゃなかったかな?」
「で、いくら?」
「5人集まれば一人2500円」
「じゃあ、乗ろうか?」
あと三人はすぐ集まった。
「曇ってるのかな? 星が見えませんね」
「そうだね。でも、昨日も夜叉神峠まで行ったら晴れてたよ」
車は山道に入り、ぐんぐんと高度を上げていく。橋を渡ったところでガスに包まれた。
「ガスですね」
濃いところでは、ヘッドランプの灯りがはね返される。どっちへ行っていいのか分からないほどである。しばらくすると地面が濡れている。
「ありゃ? 雨か?」
いま降っているのではなく、降った後だ。
「夕立だったのか」
ガスには包まれるは、雨の形跡もあるはで、気分はすこし暗澹とした。
トンネルを抜け山を巻きながら車は進んでいく。ガスの切れ間から星が見えた。
「星、出てるわ」
3時20分、広河原に着く頃は、ガスもなく満天の星が臨まれた。
「あれが北岳です」
タクシーのおっちゃんが指差す彼方におぼろながらも、黒い塊が見えた。
「このゲートの向こうの吊橋を左へ。そうすると小屋がありますから」
まだ深夜である。ゲートの手前のセンターで夜明けを待つことにする。寝袋を出すのも面倒だから、たばこを吸ってみたり、周囲を歩いてみたり。
それにしても星がきれいだ。オリオンがもう見えている。とゆうことは「こっちが東になるんだな」
そのオリオンの方からうっすらと空が白んでくる。星の数も減り、ゲート周辺の道もなんとか見える様になってきた。北岳山頂が明るく見えてくる。
ゲートの横を抜け吊橋を渡る頃、その端正な三角が真っ黄色に染まっていた。
「よし、行ってやるぞ」
(二)広河原から北岳
広河原小屋で洗顔、水の補給を済ませ、5時過ぎ、「さあ、行こうぜ」
北岳山頂の、その黄色が徐々に下まで広がってくる。広河原ではそのように夜が明ける。広河原は深い谷の中だから、日が当たるのはもっとも遅い。
はやる気持ちとは裏腹に、水3リットルを含む重い荷物は寝不足の身体にはかなりこたえる。40分に10分の休みが、40分に15分、雪渓の下端に着くころが三回目の休憩で、もう大休止状態であった。睡眠不足もあるけれど、僕は僕で普段の不摂生がこたえているのだろうし、湯浅は湯浅でこの夏海外出張が二度、ジェットラグからまだ解放されていないのかもしれない。体力は彼の方がはるかにあるのだ。その彼が、僕同様かなりお疲れモードなのだ。
真っ直ぐ上に雪渓が伸びていて、その上が八本歯のコル。北岳はその右にずっと見えている。すぐそこに見えている。すぐそこに見えているのになかなかたどり着かない。
「おい、どっちへ行こうか?」
当初は、二俣から右俣コースを肩の小屋へ行くつもりだった。でも、この一直線のルートを見れば、
「真っ直ぐ行こうか?」ってことになる。
雪渓の上を歩いてみたり、脇を歩いてみたり、いずれにしても急登だ。
雪渓の真ん中あたりが切れていて再び大休止。
「眠い。寝かせてくれ〜」
雪渓上端あたりに水場があった。冷たくておいしかった。
「なんだよ、これだったら、下で3リットルも汲まなくてよかったんや」
小屋の水はたぶん雨水だろうから、あんまりおいしくない。
道中の水を1リットル。テン場の朝晩、および農鳥あたりまでなんとかもたせようと各自3リットルずつ持って上がっているのだ。
ここで水を詰め替える。
雪渓が終わると八本歯のコルの階段が始まる。いくつもいくつも急な階段である。
バットレスがすぐ目の前に見える。やっと尾根に出た。間ノ岳、農鳥方面が見える。小さな鞍部から村営小屋が見えた。
「おお、小屋が見えたで」
それにしても、山頂はまだまだ上の方だ。今度は岩場の急登である。
「ヤレヤレ」
遊びのない登りづめの山道だ。
やっと小屋と山頂の分岐に着いた。平坦な地面にザックを放りだす。
「ふう〜」
先着の何人かが休んでいる。おそらく僕たちが最終組ではないだろうか。
ザックを置いて空身で山頂まで。
14時半、やっと山頂に着いた。
「長かったなぁ〜。何時間かかったんだ?」
「7時間半ってとこか」
ガスが出て遠望は利かなかったが、あとは小屋まで下りるだけだし、うまくガスが切れてくれたらと、山頂でいつまでもごろごろしている。
「さあ、下りようや」
さっきの分岐まで戻ると、単独のお兄さんが上がってきた。
「きついなぁ〜」
広河原で幕営してたんだそうだ。休みをたくさん取って来たから比較的のんびり上がっているのだと。きょうは北岳。明日は農鳥までの予定だとか。
「ええなぁ」
小屋までの巻き道の途中にキレイな一面の花畑があった。ぽつんと雨が降った。設営する頃はも少し降っていた。
「やば、飯食ってさっさと寝ようや」
「さっきのお兄さん、宴会しようって言ってたぜ」
雨は幸いほんの少し降っただけだった。
テントの中で飲んでいると、さっきのお兄さん、酒食料持参で僕たちのテントまで。
「やあやあ、どうぞ中へ。外よりええでしょ」
僕は相変わらず焼酎だが、湯浅はワインを赤白二本。
「ハーフボトルだけど高かったんだぞ。もっとも、貰った商品券で買ったんだけどな」
三人でいろんな話をした。
「夢枕獏の神々の山嶺、よかったよね。おれ、ハードカバーが出た時すぐ読んだんだぜ」
「ああ、僕も読みました。つい最近、文庫で」
「あれもよかったよな、新田次郎の、ほら、今井通子ともう一人の女流クライマーの」
「ええ、ええ。ありました、ありました。鎌倉彫りをしてる人でしたよね」
「新婚旅行の山行で雷に打たれて亡くなった」
「そうそう、あれって今井通子さんの私の北壁にも書いてましたよ。今井通子さんはクライマーの中では文章うまいです。新田次郎のその小説、なんだったかな? 三つの嶺やったっけ? 違うなぁ」
「銀嶺の人じゃないか?」と湯浅。
「そうそう、それそれ」
「芳野満彦が高校の頃友人と八ヶ岳で凍傷にあって足の指を切断したのもあったよね」
「冬に南八ヶ岳に会社の女性を連れて行ったんだよね。彼女は全くの素人なんだけど、たぶん行けるだろうと」
「落ちやすいところがあるって聞いたことがありますよ〜」
「うん、結果何事もなかったんだけど、危ないところがいくつもあったな。やっぱりさ、会とかに入って基本的な技術を身に付けたほうがいいのかなって思う時があるよね」
「そういえばいつだったか、剱沢のテン場で話をしたお兄さんもそんなことを言ってたような」
「さて、そろそろ。この缶詰、置いとくから食べて」
「えっ、いいんですか?」
「荷物軽くするの手伝ってよ」
それからご飯にしたが、半分ほど残してしまった。湯浅は、食わないまま寝てしまった。僕もそそくさと寝袋にくるまる。
(三)北岳から大門沢
「おい、田上、4時半だぞ、起きろ!」
湯浅に叩き起こされる。外を見ると、
「あっらー」
雲海の上に富士山が、いや、
「あれ、富士山だよな?」
「そうだよ」
「そうだよなぁ」
外へ出て、昨日のお兄さんにも念の為に、
「あれって富士山ですよね?」
「そうだよ。10月になると富士山のそばから日が昇るんだよね」
富士山のはるか左がやたら明るいからあそこから日が昇るのだろう。太陽はあっという間に雲海の上に顔を出した。
きょうも快晴だ。
昨日の残りの御飯をおかゆにして二人で食べる。
さあ、二日目の出発だ。八時間は寝ているはずだから昨日ほどしんどくはないだろう。
稜線に出ると、仙丈がきれいに見えた。富士山は左側から飲み込まれるように雲が付き始めていた。
すぐそばの中白根山へ向かう途中数匹の猿を見た。こんな高いところまで上がって来ているのだ。
中白根山から見る北岳、仙丈、その間の奥の甲斐駒。なかなか見ごたえがあった。富士山はもはや大福餅のあんこのように雲に包まれていた。
間ノ岳へ向かう途中からガスが出てきた。風も強い。水分もある。ザックカバーをつけた。間ノ岳に着く頃はむしろ寒いくらいだった。風をよけるために少し下って腰掛ける。
ここから三峰岳へ行く人もいた。なるほど、三峰から塩見へも、仙丈へも行けるのか。
間ノ岳から緩やかに下っていくうちにどうやら雨具をつけた方がよさそうなガスになってきた。
雨というほどではないが、やたら水分の多いガスなのだ。
緩やかな下りがいつの間にか転げるほどの急坂になった。やっとこさ下りて緩斜面になった頃、農鳥のテン場を過ぎ、小屋が見えた。
「ちょっと早いけど、昼御飯にしようか」
まだ10時前である。屋根があったほうがありがたい。
バイトの子に小屋を使わせてもらうように頼む。バイトの子はオヤジさんに聞きに行く。一人300円ずつ払い小屋に入る。
お湯を沸かしスパゲティ。パンを補食。コーヒーを沸かす。張り紙には休憩は30分以内とある。そろそろ30分になる頃か。タバコを一服してホッとひといきついている頃、オヤジが怒鳴り込んできた。
「あんたらすぐ出ていきなさい」
「は?」
僕たちはてっきりその休憩時間をオーバーしているからかと思っていたら、そうではなく、ここは禁煙なんだそうである。でも、そんな張り紙はどこにも見当たらなかった。
「ここに書いているでしょうが! んとにもぉ」
そう言ってオヤジはまたどっかへ行ってしまった.
その張り紙は僕たちのちょうど真上に吊り下がっていた。
「これじゃあ、見えないわなぁ」
「やれやれ」
ザックをまとめ外へ出ると、幾分明るくなり風もおさまっていた。相変らず遠望は利かないが寒さと濡れる心配はなくなったようだ。
西農鳥、農鳥と黙々と歩いた。チングルマのふさふさしたところが綿帽子みたいに白くふんわりしていた。
僕は、昨日の広河原から北岳への登りを反芻していた。遊びのないストレートな登り、しかも急登だった。北岳はずっと見えていた。それなのにちっとも近づかない。北岳もまた僕たちの遅遅とした歩みをじっと見ていたことだろう。
僕たちは休むたびに、「あのクソオヤジぃ〜」を連発した。次に、きのうのしんどさを振り返った。
「田上、やっぱりアレだよ。前泊しないとだめだわ。甲府でビジネスホテルでもいいからさ。ゆっくり寝るんだよ」
大門沢下降点には鐘の搭があった。昭和42年冬、単独行の若者が大門沢への下りを見つけられずにビヴァークし遭難したらしい。この鐘はそのご両親と所属する山岳会によって建てられた。
尾根は広いし、真直ぐにも道がある。雪が付いていればなおさらのこと、ガスが濃ければ下りの道もわかりにくい。
「さて、あとは下るだけや」
その下りの急なこと。しかも道が悪い。木の根が張っているし、岩もごろごろしている。しかも長い。辛抱しながらやっと沢に出た。
顔を洗い腕を浸す。体を拭く。
それからさらにひと歩き。このあたりになると大峰にもありそうな山の雰囲気である。大門沢の小屋が見えた。
「ふう」
ビールで乾杯し、庇の下でオヤジさんと歓談。あすの風呂のことなどをお尋ねする。
「農鳥のオヤジさん、ご存知ですか?」
「ああ、おんなじ集落の者だよ。奈良田の」
こりゃ悪口言わないほうがいいかな。
テントへ帰り、焼酎。湯浅はワイン。ごはんはアルファ米の鮭御飯。おかずは麻婆春雨。ごはんがすすむ。昆布としいたけの佃煮もよかった。きょうも熟睡。
(四)大門沢から身延
翌朝、またもや湯浅に起こされる。四時半。好天だ。
コーヒーを沸かす。
「飲むか?」
「要らねえよ」
「そやった、そやった、お前猫舌だったな。家ではどないしてんの? お湯沸かすの?」
「沸かさねえよ。ひたすらヴォルヴィックあるのみ」
再び沢に沿って下る。ここからも実に長い。吊橋を三つ渡った。やっと林道へ出た。
陽射しはまだまだ暑い。振りかえると上はガスが付いているようだ。
奈良田温泉まであと30分くらいか。
「しんどかったなぁ〜」
「来年はもっと楽な山にしようぜ」
アスファルトの道へ出てしばらくするとマイクロバスのタクシーが止まってくれて、「乗せてやる」とおっしゃる。しかも無料で。ありがたい。前を行くもう一人にも声をかける。なんてやさしいおじさんなんだろう。12時に身延へ送るお客さんがある。席に余裕があるから良かったら一緒にどうぞ、と。これまたありがたい、2時まで待たなくて済む。
僕たちは風呂に入り、ビール。白籏史朗の写真館、民俗資料館を見学した。さすがに写真は素晴らしかった。山へ写真を撮りに行くのと、山へ行ったついでに写真を撮るのとは本質的に異なる。
昼食は「ほうとう定食」を。ごはんはあわ御飯だったか。美味しかったのでおかわりしたら、特別サービスしますと。
このあたりの人たちは、みんな語尾に「じゃん」をつける。じいさんもばあさんもだ。
「きょうも暑いじゃん」「風呂に入りに来たじゃん」等々。
若者言葉ではなく方言なのだろう。
先ほどのタクシーのおじさん、迎えに来てくれて、出発までの間、ご自身が先日甲斐駒へ行かれた時の写真帳を五、六冊はあったろうか、見せてくれる。10人ほどの合乗りで身延まで。道中この土地の説明をしていただいた。
発電所がたくさんあること、水は年中出しっぱなしで年間5000円だとか。そのかわり、コンビニとかパチンコ屋とかはありませんよ、と。
七面山があった。日蓮の関係で信仰の山らしい。僕は小さな声で、「七面山は大峰にもあるでぇ」
身延で湯浅は甲府へ、僕は静岡へ。
握手をしてまた来年と言って別れた。