富士山 富士山

 富士山の麓に高校以来の悪友Fがいる。高校を卒業以来会ったのは数えるくらいだろう。でも会えば、年月の隔たりを感ずることなく「おい、お前」の付き合いができる。きっと一生続く付き合いだと思っている。
 彼がそこに職を求め住みついてから何度となく「お前がそこにいる間に富士山を登りに行くから」と言ったような気がする。でも本心ではない。言わば軽口の挨拶として言ったまでのこと。もう十年近くになるだろうか、学生時代の友人が横浜で結婚式を挙げるのに呼ばれた。せっかくだから、Fのところに泊まった。富士山の外周道路を富士市から時計回りに、田貫湖、本栖湖、西湖、河口湖とドライブした。風穴とか、忍海八景とかも見て回った。あいつのカセットからはサザンが流れていた。
 山中湖の近くだったと思う、北野インドカレーに寄ったあと、御殿場から見た富士は西日を背景にすごくでっかく見えた。この黒々とした思いもよらない巨大な塊として富士山を見たのはこれが初めてだった。こんなでっかいのは見たことがない。富士山の大きさを実感したのはこのときだった。Fも心にくい演出をしたものだ。あいつはきっとこの光景を今までにも経験しているに違いない。これを、私にも見せてやろうと思ったに違いないのだ。
 その夜、あいつの馴染みの酒場で、モーツアルトを聞きながらウイスキーを舐めた。マスターとの話題は競馬。ちょうどオグリキャップがマイルチャンピオンを勝って、連闘でジャパンカップに駒を進めたときのことである。
 富士山への思いが具体化した深層心理にはこのときの経験が潜んでいたのではないかと思う。

   1994年の7月の初旬、私は早引きした。息子は試験期間中とかで早く帰宅する。近畿道、名神、東名と走る。道中、浜名湖のPAでウサギを見た。日本坂トンネルのあたりで日が暮れた。関東は日が暮れるのが早い。
 Fのアパートでくつろいだあと、富士宮口の登山口についたのが11時を回った頃だろうか。11時半ごろから登り始めた記憶がある。合羽を着ようかどうしようか程度の雨だった。言っておくがそのころは、まともな雨具も持っていなかった。いわゆる簡易雨具に類するものだ。雨具の重要性など、まだまだ理解できない頃のことである。

   息子はすたすた何事もなさそうな風情で登って行く。私はどんどんおいて行かれる。一本道のことだし迷うことはないし、それぞれ懐中電灯を持っている。六合目をすぎ七合目あたりだったろうか、さすがに息子も休む、私もやっと追いつき休憩を取る。ところが、汗もかいているのでじっとしていると寒さでより冷えてくるのだ。体の中からぞくぞくしてくる。
 ふたたび登り始めるのだがどうやら息子が不調らしい。気分が悪いと言う。ガイドブックで読んだ高山病かもしれない。教科書に従えば、こうゆう時には下りるしかないのだ。術ない気持ちは、状況こそ違え誰だって経験のあることだと思う。無理に登れば、いや登れないだろう。「よし、下りよう」。

 私達は登山口まで引き返しました。不思議なことに私は寒さこそ感じましたが、気分の悪さは何も感じませんでした。きっと歩くのが遅かったのでそれなりに気圧の変化に順応していたのかもしれません。
 周りを見渡してみると、例えば、四人のパーティがあれば、そのうちの一人は気分が悪くなる、そのくらいの確率で高山病にかかっていたのではなかったかと思います。

 駐車場に戻ったのが夜中の二時過ぎ。息子はシートに持たれかかるとすでにぐったりとしています。考えてみれば試験期間中で、夜更かしもしていたのでしょう。
 さて、私はどうしよう。なんとか登りたい、その気持ちだけはありました。
 そこで、息子を車に寝かせて、「お父さんだけ登ってもいいやろか?」と聞くと「かまへんで」と言いいます。ひとり車に残すのも気がかりでしたが、これからぐっすり眠るのだろうし、私がこれから往復してもお昼までには戻れるだろう。近くには売店もあることだし、息子の言葉に甘えて、私は再び登り始めることにしました。なんと薄情なお父さんだろう、と思われる方もおられることと思います。

 さて、ふたたび私は登り始めました。元より足は速くありません。徐々に高度を稼ぎながら、先ほど登った地点をやっと越えました。徐々に薄明るくなってきます。もはや懐中電灯の明かりも不必要な時間になってきました。
 その頃はじめて自分が歩いている状況が見えてきました。瓦礫の荒涼とした道を歩いていたのです。こんなところってあるでしょうか? なにかとんでもない空間に迷い込んでしまったような感覚でした。雲の切れ間からはるか下の様子が見えます。「頂上でご来光を」、そんな気持ちなどもはやどうでもよくなっていました。ただただ、自分は薄明から払暁の時、荒涼とした空間に身をおき、ただひたすら歩いていた。それがとても心に迫って来ていたのです。
「ご来光なんてどうでもいいや。こうして異空間を自分が歩いている。それだけで十分や」そんな気持ちだったのです。周りの顔はなんだか薄白く、ふやけてみえます。みんな病人のようです。これも、気圧のせいでしょう。私もまたそのように見えているはずです。八合目、九合目になるともともと足の遅い私がさらに遅くなりました。所によってはルートにロープが張ってあります。そのロープを頼りに少しずつ少しずつしか登れませんでした。そして休む。
 そうこうするうちに、外人のおばさんとたぶんお友達のお姉さんのふたり連れと同じように歩き、かつ休むようになりました。二人は私に酸素のボンベを勧めます。これを吸ったら筋肉が生き返る、なんかそんなことを言ってます。でも、そう簡単に甘えるほどの間柄でもありませんから、あいまいな笑顔でお断りしていました。
 でも、何度目かの休憩のとき、「それじゃあ」って、そのボンベをお借りして口にあて吸ってみました。経験のあるかたにはご理解いただけると思いますが、それはもう、腿の筋肉とかがしゃきっと生き返るような心地でした。こんなに違うものかと思うほどでした。まるで日照り続きのときの一雨を花々がごくっと吸収するような感じです。富士山へ行かれる方には、これはぜひお勧めしたいですね。

 そうこうするうちに、足が平らな地面を踏みました。
 そうです、頂上についたのです。八時ごろでしたでしょうか。売店ではがきを買って山頂のはんこを押してもらい暑中見舞をだしました。先ほどの二人連れと写真を撮り合いました。後にそれが私の登頂証明となりました。おはち周りをするには、車に寝かせている息子のことが気がかりです。でも、せっかくここまで来ているのですからなんとももったいない。一旦は、レーダーへの緩やかのように見える坂を登りかけました。ところが、じつはとてつもなくきつくて、短時間ではとても行けるものではない。途中であきらめるしかなかったのです。

 それから下ったのですが、その下りがまた長いこと。何時まで経ってもまだまだ下りなければなりません。富士山はやっぱりでっかいです。単調だ、俗っぽいと敬遠される人も多いことでしょう。でも、どんな山にもそれぞれの自分なりの思いが生まれてくるものです。この富士登山が私をさらに山へ近づけてくれました。
 登山口まで下りると、息子は思いのほか元気でほっといたしました。
 それから、Fのアパートへ立ちよりご飯をよばれて、それから滝の白糸、そして夕方、予約していた河口湖の国民宿舎に泊まりました。翌朝テレビでは北朝鮮の金日成が亡くなったニュースをやっていました。