1997.4月26/30日 春山入門 蝶、常念縦走記

 言ってみれば、この北アルプスの春山入門コースを目標として、この冬から今まで近場の低山、大峰山系と寝泊まりを繰り返してきたのだった。出来れば比良も行っておきたかった。それも雪のあるうちにだ。弥山、八剣ももう少し雪のあるうちに行っておきたかった。訓練として必ずしも万端とも言いかねるが、相手は自然である。雨とわかっていて出かけるほどの勇気はない。そんな中で好天の日はなるべく出かけたし、私なりに順序を追って予定をこなしてきたはずだ。そしてついにゴールデンウィークに入った。天気予報をこまめにチェック。一週間の中で、いつが最もよいか。それが問題なのだ。さいわい休みに入ると同時に天気は良さそう。直ぐ出かけることにする。
 金曜の夜は杉本と久しぶりに飲んだ。会う前に駅で翌日の夜行の指定を取った。席の心配をしなくてよいし、ゆっくり出かけられる。

 土曜は、ゆっくり起き、ザックをつくり、早目に風呂に入り、早めに晩御飯を食べ、七時半前に家を出る。急行ちくまで四時松本着。憧れの松本電鉄で新島々へ。五時前に新島々。バスは道路工事のせいで今日八時に開通、新島々を七時すぎに発とのこと。二時間ほど時間を持て余す。車内で眠れなかった分を取り戻そうとするが、ちょっと寒い。そばを食ったり、タクシーの運ちゃんと話をしたりして時間をつぶす。駅のそばの桜はいまが満開だった。運ちゃんの話によれば今年は雪が少ないとのこと。例年の五月下旬並みだという。僕にとっては有り難い。

 上高地についたのが八時半。登山届を出し、梓川に沿って徳沢へと向かう。平坦な道だ。重装備の連中にどんどんと抜かれてしまう。さすがにこの時期、山に入る連中は熟練者ばかりなのだろう。徳沢まで約二時間。ちょっとへたってしまった。ここで朝食。天気は最高。真っ青な空だ。二泊から三泊で、ここから長塀尾根に取り付き、蝶ヶ岳、常念岳、大天井、燕岳、そして中房温泉へ下山の予定である。
 十一時、徳沢園の右からいよいよ尾根に取り付く。園の前の沢をわたるコースは、横尾、涸沢から穂高、あるいは槍ヶ岳へ向かう。私には十年はやい。だから春山入門コースの蝶へ向かうのだ。横尾から蝶へも行けるが、なんせ急登らしく、これまた私の力では無理だろう。そんなことで長塀尾根を選んだのであった。雪はなかったが結構急登である。しかし一時間もすればついに雪中歩行となる。

 夏道はジグザグに付いているらしいのだが雪のためにほぼ直登が続く。アイゼンは不要かと思われたが、何度目かの休止の時、背中の重さに閉口して、履くことにした。一キロは軽くなったはずだが、果たしてこの選択は正しかったのかどうか。道中一緒になった東京弁のお兄さん、私よりたくさんの荷物である。体格もまた相撲取りのようである。何度か来た道らしく余裕のある風情。急ぐでもない、ゆっくりゆっくり歩いている。けれど、結局私がばてるのが早く、ついに置いて行かれてしまう。睡眠不足、ザックの重さ。理由はいくつか挙げられるが、体力がないのだ。
 蝶ヶ岳へは長塀山を越えて尾根伝いに行くことになるのだが、にせピークに何度もだまされてしまう。もう山頂か、いやそれからまだ先がある。それを何度も繰り返すうちに、いい加減泣きそうになった。樹林帯の中で幕営しようかと思ったほどである。しまいにはマットを敷いて寝てしまう。へとへとになりながら、やっと森林限界を越えた頃、蝶の小屋が見えた。もともと幕営のつもりだったし、小屋が開いているとも思っていなかった。お兄さんは何やら、「いや開いているんです」なんだかそんなことを言ってたようだが。
 やっとテント場に着く。三、四張り。小屋に電気が点いている。なんだかほっとしてしまう。受付を済ませる。五百円。溜まり場にお兄さんがいた。
 「やっと着きました。何時ごろ?」
 「僕も三十分ほど前かな?。てっきり樹林帯の中で幕営してると思ってましたよ」
 「じつはそうしようかと思ったんですけどねぇ」
 そんな会話をしながら、横目には小屋の中のストーブが目に入った。六時を回った所である。

 穂高連峰が圧倒的なヴォリュームで迫ってくる。槍はその右に、意外にも細くキュートな感じで天を突いている。

 日が暮れそうな時間になってきた。テントを張ろうとするが風が強い。稜線上にテン場があるので、ポールを差し込むと風に煽られて持って行かれてしまう。指先は冷たくなってくる。隣のテントの兄ちゃんに手伝ってもらいたいくらいであった。先ほどの小屋の中のストーブの明るさ、温かさが脳裏をかすめる。これでは一人ではなかなか張れない。どうしよう。しかたがない、小屋に逃げ込むとするか。改めて素泊まりの手続きをし直す。

 ストーブの周りのみんなから、「あれッ、テント張るんじゃなかったのぉ?」と、さんざん冷やかされてしまった。だけど、いろいろと話を聞いたりして、とても楽しかった。単独行では味わえない和気藹々とした一夜であった。どうやら写真を目的とした人たちである。
 関取が言う。
 「明日は天気が悪いから停滞です」
 ジャンボ尾崎にそっくりのおじさん、
 「君はどうするんや?」
 「常念から大天井、燕のほうへ」
 「一人で? やめといたほうがいいなぁ。初めてなんだろぉ。危ないぞぉ」
 さんざんおどかされてしまう。だけどそうかもしれないのだ。雪の具合では確かに危険である。
 「ええ、ここまで着た事でよしとせんといけませんねえ」
 内心忸怩としているが、本当にそうかもしれないのだ。写真の話、山の話、経験の少ない私としては黙って聞くよりほかはない。明日は停滞、そんな雰囲気で残念やら、ひと安心やらでぐっすり眠ってしまう。

 翌朝、逡巡しながら朝食。大勢は停滞。ここを基地に空身に近い状態でカメラだけもって撮影に出かける。そんな状態である。縦走組は下りるものは思い切ってさっさと立つ。優柔不断にも私は結局停滞をベースに考え、できれば常念の往復をもくろむ。
 蝶槍の手前でジャンボ尾崎似とでっくわす。雷鳥がつがいでいて、それを写真に撮っている。助手を連れていて、足が入っているとか、雷鳥に向かって、こっちを向けなんて理不尽な事をのたまわっている。面白い人なのだ。宮崎から来た単独行はさっさと常念を目指している。ジャンボは助手と常念へ向けて、私はのんびりと蝶槍をおりかける。雪の中の急な下りである。途中まで下りて考え込んでしまう。下りるのはよいが今度は登れないのでは? どうせ下りるのなら、いっそのこと引き返すのではなく、縦走したほうが正解ではないかと。それにしても一人で行けるだろうか?
 ジャンボ二人組は下りきって、はるか先を行っている。私は仕方なく引き返す。小屋に戻るころは猛吹雪である。眼前に迫っていた穂高連峰も、槍もすでにガスに閉じ込められて見えない。
 「いやいやいや、すごい雪で」なんて言いながら、ストーブを囲む。それから、何人来ただろうか。一様に体の半分に縦に雪が付いている。再び山談義、写真談義、そして世相一般。こんな楽しい山小屋は初めてであった。ジャンボが帰ってきて言う。
 「何だ、来るかと思って待っていたんだぞぉ」
 冗談がきついのだ。

 翌朝は打って変わって快晴。四時半に目を覚ますが、右も左も写真連中は誰もいない。
 おっとっと、慌てて起き出して写真を撮る。さいわい日の出には間に合った。
 モルゲンロートはほのかな桃色であった。

 朝食を摂りながら考えた。さてどうしたものかと。このまま上高地へ下りるか、常念をめざすか。停滞一日は言ってみれば予備日のうちだから、別に予定が狂った訳ではない。
 「よし、予定通り常念を目指そう。天気もよいことだし」
 いろいろ逡巡したが、やはりこうするのが一番なのだ。覚悟は決まった。黙々とザックをまとめ、靴紐を締める。
 「どうするんや?」ジャンボが聞く。
 「はい。常念まで行きます」
 「気を付けてな」
 「どうもいろいろとお世話になりました」
 二晩いっしょに泊まればしぜんと親しくもなる。

 さて、常念への縦走。三つ、四つの小さなピークがあり、それには雪がべったり付いている。その登りがきついのだ。滑るかもしれない。滑ったらはるか下まで。その緊張感がすごいのだ。怖い。雪の深さはところによれば数メートル。今年は少ないらしいがさすがにこのあたりまで来るとスケールが違う。
 やっと常念の取り付き。風で雪が飛ばされているせいか意外にも登りやすかった。岩場だが三点確保でいままでの雪の中よりむしろ楽しく感じられた。が、頂上にはなかなか登りつかない。さすがにしんどくなってくる。一個所、わずかに二、三歩のトラバースだが引き返そうかと思うほどこわいところがあった。左ははるか下まで切れている。右は手がかりのない一枚岩。あれこれ思案する。足場を確認し、方針を決め、「えい、やっ」と渉ってしまう。渉ってしまえば何の事はないのだ。
 風が次第に強くなってくる。頬が痛いほどである。雪まじりの岩場をトレースを確かめながら、大きな岩場を巻いたと思ったらぽっかりと常念頂上が見えた。

 十二時九分。蝶を出てちょうど五時間であった。それから小屋への下り。この下りが一段と風がきつい。風に雪か、砂が混じっていて、それが頬を打つ。いやになるほどきつくて、油断をすると吹き飛ばされそうである。一時間後やっとの思いで常念小屋にたどりつく。迷いもなく素泊まりの手続き。
 反省点としては、夕暮れまで時間があったから、幕営を試みてもよかった。風の止む一瞬をねらってもよかった。何のためらいもなく、即素泊まりの手続きをしてしまったのだった。

 常念小屋は蝶ヶ岳ヒュッテに比べればホテル並みである。が、どうもひんやりとしている。アットホームな感じはない。内心、昨日までのような楽しさを期待して、手続きをしたのではなかったか。それは期待外れであった。部屋には一人で泊まれた。六畳ぐらいの部屋にザックの荷物を広げてゆっくりとする。素泊まりは僕だけではなかったか。

 休憩室でぼんやりたばこを吸っているとテント場の兄ちゃんが話し掛けてくる。聞けば奈良から来たのだとか。私と同じ夜行に乗って、彼は私の予定のちょうど逆コースから来ているのだ。単独で、幕営にはさぞ苦労した事だろう。おしっこに外へでようものならテントは風に吹き飛ばされてしまう。若く見え大学生かと思っていたが、去年卒業したのだとか。常念の小屋で大峰山系の話に花が咲いてしまった。稲村のあの大日のへつりは気持ち悪いねえなんて、不思議な会話をしてしまった。

 天気予報は明日もまた不順らしい。横通岳の急登を眺めながら、またもや逡巡。もう一泊停滞し予定通り大天井、燕への予定だが、一の沢を一気に下りてしまうか。財布の中身を見ながら下りたほうが正解だろうと結論する。
 翌朝、小屋からはまだ槍が見えていた。天気はもつのだろうか。多分難しそうである。やはり下りる事にする。お姉さんにタクシーの予約をしてもらい一の沢を下ろうと一歩雪の中に足を入れてびっくりした。下りる先が見えないほどの急な下りであり、かつ朝が早いせいか凍っている。
 「やばい、アイゼンがいる」
 引き返してアイゼンを履く。慎重に下りるけれど、下りる先が見えないというのも怖いものだ。なんとか下りきると後は雪の中とはいえ比較的楽だった。デブリのなかを通る所もあったが、九時登山口まで下りてしまった。タクシーの予約が十時。朝食にラーメンを作る。タクシーで穂高温泉郷、「しゃくなげ荘」で久しぶりの入浴。松本では「こばやし」でざるそばを食う。うまかった。蕎麦の味が全然違う。値段もとびきりだったが、これはうまかった。大阪行き特急「しなの18号」に間に合う。19時半、大阪着。

 初めての遠出の春山は予定の三分の二の消化ではあったが、じゅうぶん満足できるものであった。
 圧倒的な景色、吹雪、人との会話、いろんな体験があった。燕から大天井へは、いずれ槍を目指すコースとしよう。

諸経費一覧

交通費
大阪〜松本 急行ちくま 指定 \7,350
松本〜新島々〜上高地 \2,500
タクシー 一の沢〜穂高温泉郷 \4,500
穂高温泉郷〜穂高駅 \2,000
穂高〜大阪 特急しなの 指定 \9,530

宿泊費
蝶ヶ岳ヒュッテ2泊 \11,000
常念小屋1泊 \5,500

食費
新島々駅そば \500
松本駅前 こばやし そば \2,520

みやげ
バッジ2個 \800
信州味噌2個 \1,680
Tel.Card 2枚 \1,000

その他
上高地有料トイレ \100
しゃくなげ荘風呂代+ジュース \410
          合計 \49,390