北アルプスの春の入門コースを目指すには、どうしてもこなしておきたいコースのひとつ。ぎりぎりになってやっと時を得た。先週山上ヶ岳から見た感じでは雪はもうほとんどないが、距離を歩いておくには適当かと思われた。コースとしてもはじめてだし、ぜひ一度は歩いておきたかったのだ。
天川村役場に車を停めると、四人組のパーティー、どうやらテント持参らしい。ここに車を停めるということは同じコースを行くものと思われ、半ば心強くもあった。ペースは僕のほうが遅いけれど。ところが別の車にリュックごと移し替えてどっかに行ってしまう。おやおや何処へ? 車の運転手、出掛けに「兄ちゃんは何処へ?」「弥山ですけど」「気をつけてな」。彼らはいったい何処へ登るんだ? 稲村、山上ヶ岳なら洞川まで車を入れるはずなのに。
仕方がないからいつものように1人でとぼとぼと山道へ入って行く。のっけから急登、くたくたになってしまう。分岐点で赤いテープが右についている。道はしかし左のほうが古い。「ははーん」、右は直登、左は巻き道だな。テープにしたがって直登、これが相当こたえた。登り切ると鉄塔。
「待てよ、この道、この鉄塔用の道だったのか。間違えたかな」
引き返そうかどうしようか、汗を拭きながら思案する。山へも道はあるようだ。行ってみて違うようなら引き返す。そう決めて樹林帯の中に入るとさっきの左への道との合流点になる。最初の勘が当っていた。それから、巻いたり尾根をつめたり、とにかく長い長い。その道の下を林道が走っている。いずれもっと上まで車で入れるようになるらしい。なんだか奇妙な感じ。いったん林道に出て再び山道。いばらや笹やらで歩きにくい。遭難碑がひとつあった。再び鉄塔に出る。見晴らしはよい。小休止。そこから一時間ほどで栃尾辻。さすがにこのあたりまで来ると山へ入ったという感じがする。それにしてもここまで来るだけで疲れてしまった。昼食にするがなんだか詰め込んでいる感じだ。微風で汗がすうっと引いて行く。寒いくらいである。晴れているとそれほど怖くもないが、太陽が雲に隠れたりするととたんに不安になってくる。天気はおおむねよい。
ここまで標準タイム、二時間四十分。予定の狼平まであと二時間。栃尾辻からの道はとてもよかった。ブナ林の中を歩く。ブナ林は下草はあまり生えてないし、鬱蒼とした感じではないのでとても明るく感じられる。天気はよい。それにしても誰にも会わないのだ。前を見ても、後ろを見ても誰もいない。孤独というものを痛切に感じてしまう。一方で、一人ではなんだかもったいないような、静かな山の気配を満喫する気分である。天気がよいのがなによりである。もし悪かったら不安で仕方がなかったろう。
三時十分、ほぼ標準タイムで狼平。あと一時間で弥山までいけるが、無理をしないでここで予定通り幕営。水は沢からおいしい水を汲める。それにしても誰にも会わなかった。一人の静かな山行を楽しめた。着替えをして、一服していると何やら足音がする。
ぬくっと外を見ると単独のおじさん、
「さてどうしたものか、上まで行ってしまいますわあ、明日が楽やから」
元気なものだ。
私はまた一人になってしまった。ウイスキーをいい加減飲んでいるとドヤドヤとまた足音がする。四人で二つのテント。
「おや?」
彼らは今朝天川の役場で見かけた連中では?
そうか、トンネル西口まで別の車、多分タクシーで行って西口から登って弥山、八剣と済ませこっちへ下りてきたのだ。多分そうに違いない。
明け方寒くて目が覚める。マイナス五度。この時期まだ氷点下に下がるのか。風はない。星がきれいだ。寒くなければ外へ出てゆっくり眺めるのだが。そうもいかない。
夏の星座、さそり座がもはや顔を見せている。夏の終わり、受験勉強で明け方近くまで起きていて、外を眺めると冬の星座オリオンが顔を出していて、「ぼやぼやしてられないなあ」と思った。そんなことをふと思い出していた。
五時十分起床。お湯を沸かそうとすると、コッヘルに残っていたお湯が凍っている。スープを飲んで、パンをひとかじり。着替えてストックだけで弥山を目指す。けっこう急登である。五時五十分発。六時四十分弥山着。昨日のおじさんもはやテントを畳んで、下山準備完了といった風情。
「寒かったですねえ」
「ほんまやねえ」
僕は八剣へ。オオヤマレンゲの保護のためにフェンスが張ってある。雪はほんのわずか残っているだけだ。七時十三分、八剣頂上。写真を撮って引き返す。七時四十分弥山。若いお兄さん、これまた単独行だが、ちょうど弥山から鞍部に下りようとしている所。
「えらく早いですねえ」
「西口で五時十分でした」と。
八時半、狼平。ゆっくりと紅茶、パン。例の四人組、テントを干したり、河原にシュラフを干したり、後は下りるだけのせいかのんびりとしている。こういう処で、週末の一夜を過ごすのは悪くない、あらためてそう思う。こっちものんびりとしている。いよいよ撤収にかかるらしい。彼らの一人のテントのたたみ方を見るともなく眺めている。なるほど、そうか。そうしたほうがいいんだ。あとで自分がたたむときまねをしてみる。これはいい。すでに二十回近くも、幕営をしているのに何もかもが自己流のために、気がつかないこともいっぱいあるのだ。
それにしても狼平はよい所だ。沢の隣だから谷の中、その平坦地。日暮れは早いし夜明けは遅いが、いかにも山懐に抱かれた静寂地である。道中のブナ林もよかった。秋にまた来てもよい所である。
栃尾辻で彼らに追いつく。声が聞こえていたので、手前の陽射しのところで休んでもよかったがずるずると辻まで下りてしまった。仕方がない。羊かんを食いたばこを吸い、水を飲む。彼らはまだ動く気配がない。先に会釈をして下りる。
一時間ほどして鉄塔。ここで昼食。三、四十分いたけれど、まだ彼らの足音がしない。
小休止のつもりが、大休止になり、根が生えてしまったのだろう。
単独行が一人上がってくる。その後、二人組みのおじさん、マットは持っていたが、テントはないという。狼平の小屋に泊まるつもりらしい。小屋には用がなかったので、中へは入らなかったが、シュラフひとつであの小屋に泊まるとなれば寒いに違いない。昨晩だってテントの中の水が凍ったのだから。うまく眠れるのかどうか、ひとごとながらちょっと心配する。
二時二十分、天川村役場着。
今回の山行は久しぶりにハードだった。たぶん体調のせいだ。天川温泉に入って帰ることにする。
翌日は、案の定足が凝り凝りである。だけど山そのものはとてもよかった。とくに栃尾辻を過ぎてからは本当に山らしい山に入った感じであった。季節を変えて紅葉の時にまた出かけてみたい。たぶん雪のある時は行けないかもしれない。