1997.7月18/21日 立山-剱

 剱へはぜひとも一度行ってみたい。昨年からずっと思っていた。
 ただ、一人ではどうだろうか。単独行をとおしている僕にとって剱はちょっと無理かもしれない。まだまだ初心者の部類に属する僕にとって、内心行けん事もなかろうという気持ちと、無理してもろくな事はなかろうという気持ちとが相半ばしていたのだった。だから、できれば気の合ったパートナーと組んで行ければそれにこした事はないのだ。北アルプスの春山入門コースを何とかこなして、「この夏、剱へ」の思いはますます募っていたのだった。
 七月に入り、昨年と同時期に伊吹へ行った。来るべき夏山の足慣らしも兼ねていた。梅雨明けを待ちながら、さてまず何処へというのが焦眉であった。思いはやはり剱へ。得意先の山口氏と剱の話になり、ぜひ一緒にということになった。彼とならこちらとしては申し分ない。迷惑をかけるのはこちらだが、充分頼りになる。願ってもない事だ。そのつもりで気分は盛り上がって行く。直前になり、今夏山行は難しい家庭の事情が出来たようである。話を聞けば無理もない。僕だって自重する。それがまさに梅雨が明けようとする頃であった。行きたい山はいくらでもある。単独で行けそうな所に変更してももちろんよかった。しかし気持ちは剱へ向いている。あれこれ思案したあげく、結局単独で立山、剱をめざしたのであった。無理だと思えば引き返せばよい。山へ一人で入る時、僕はいつもそう自分に言い聞かせていたのではなかったか。そう考えると気分も楽になるのだ。

 そんなことで、梅雨明けと同時に、急行北国に乗ったのであった。梅雨明けすぐだから、比較的空いているものと思っていたのが、指定はリゾート立山、北国ともに満席で早めに大阪駅に着き、運良く座れたが自由席に乗って出かけたのであった。

 結論から先に言う。いくつか危ない、難しいといわれているところも慎重に行けば何の問題もない。一個所あげるとすればカニのヨコバイの第一歩であろう。これさえ、間違えなければ何の問題もない。一人ずつしか通れないから、自分の番が来るとさすがに緊張するけれど。
 室堂から一の越、それから立山に上がり三山を経て、剱沢のテント場で一泊。翌朝剱を往復。剱沢で連泊。三日目に剱御前、雷鳥坂を下り、雷鳥沢のテント場を過ぎ室堂へ。三日とも一日の行程としては比較的短いので、結構ゆっくりできたし体力的には楽であった。先を急ぐ必要もなかったし、好天の中、薬師、槍、そして後立山連峰の展望を心行くまで堪能できた。適切な助言者がいれば、初心者でも十分に行ける山だ。現に、女性だけのパーティーもいたし、旦那が奥さんを連れて、という光景もいくつも見られた。好天なのは有り難かった。雨や強風なら話は違っていたかもしれないが。

七月十九日(土)
 八時、室堂着。富山で乗り換え、立山、そこからケーブルカーで美女平、バスで室堂。システマティックに運ばれてくる。観光開発は進んでいるのだ。湧水を汲み朝食。八時半、まずは一の越へ向けて。そこで一服。はるかに槍が見える。薬師はきれいな山だ。そこから雄山までちょっとだけアルバイトをしいられる。雄山までは一般のツアー客でにぎわう。胸にそれぞれのツアーを示すバッジを付けたおじさんおばさんでにぎやかだ。関西人はここでも元気いっぱいである。雄山へ上がると後立山連峰が一望される。あれが白馬、あれが不帰キレット、唐松岳、五竜岳と見ていくと、ほぼ正面に見えるのが鹿島槍だ。そのはずなのだが双耳峰の片方しか見えない。ちょうど向こうの北峰が南峰にかくれているのだ。それでも槍の如くとんがっている。もっと近くにとんがっているのが針の木岳ではあるまいか。
 雄山の遥拝をすませ大汝へ向かう。もはや登山者だけの世界になる。そこで昼食。まわりは関西弁だらけといっても過言ではない。すぐうちとけてしまう。鹿島槍から爺ヶ岳への稜線沿いに、屋根が見える。たぶん冷池の小屋だ。みんなでそうやそうやの大合唱。ちょっと上にテント場。去年の夏はあそこに泊まった。すぐとなりにこれも関西かららしい学生風の三人組、話を聞くと既に昨日剱を済ませてきたらしい。僕の予定の逆コースで、これから雄山そして室堂に下りるのだという。剱の事を聞く。
 「大丈夫ですよ、慎重に行けばどうって事ないです」
 「ヨコバイはどうだろう?」
 「一歩目をペンキマークのところに真っ直ぐしたに出すんです。そうすると全然大丈夫。それをみんな進行方向に出そうとするから後がややこしくなるんで」
 このアドバイスが、今回最大のポイントであった。

 富士の折立を過ぎ、真砂岳。別山の登りで大休止。さすがにばててしまった。それにしても時間的には充分ゆとりがあるのだ。このころになるとガスが出てきて、天気はよいのだが遠くの視界は悪くなる。別山山頂は剱沢を挟んで、剱が正面に見える、はずである。残念な事にガスがじゃまをする。剱沢まではあとわずかだから急がずガスが切れるのを待つ。ぜひ一枚剱の勇姿をおさえておきたい。今回、リバーサルフィルムを入れてきたのだ。待てど暮らせどガスの切れる気配もなく、二、三枚撮ったが結局ガスの中からほんのちょっと顔を見せているので精一杯だった。
 剱御前との分岐を剱沢へ取る。結構急な下りであった。テン場の申し込みが五百円。記念品にキーホルダーをくれた。水割りを飲みながら湯を沸かしていたら、そのまま二度も眠ってしまった。まだ少しはお湯があったからよかったようなものの、あぶなく空だきをするところであった。用心しなければならない。

七月二十日(日)
 五時半、いよいよ剱を目指す。剣山荘をすぎ、一服剱、前剱。タテバイでどうやら渋滞のようである。取り付いているのが豆粒のように見える。それが動かないのだ。休憩しながら、ゆっくりとそこまで行くと、やはり取りつくまで三十分ほど待たされた。鎖が新しくなっている。どうということもなく過ぎ、九時十九分、ついに剱の山頂に立った。天気は最高、気分も最高であった。鹿島槍が双耳峰としてちゃんと見えた。きりっとした双耳峰である。秀峰のひとつだ。
 いよいよ下山。ヨコバイでまた待たされる。待つ間あれこれとみんなの講釈が絶えない。いざ自分の番になるとさすがに緊張する。引き返したくなるくらいだ。きのう、お兄さんから聞いたアドバイス、確かに下の方にペンキマークがある。鎖で体を支え思い切って足を伸ばす。足が届くと後はもう楽だ。鼻歌気分でトラバース。はしごを下りて、そのあと二個所ほど緊張したがこれさえヨコバイの一歩に比べたらなんてことない。適当に休みながら、剣山荘につく。冷えた缶ビールを一本。実にうまい。ここもまわりは関西人が多い。しばらくの間、あれこれと山談義に話がはずむ。関西人は何とひとなつこいのだろう。

 テン場に帰り、連泊の申し込みをすると代金は二日目以降は不要だという。なんとおおらかなテント場なんだろう。ちょっとおそめの昼食。それから何もする事がないから水割りを飲む。向かいのにいさん、マットを外に出し寝転がって文庫を読んだり、所在なさそうである。
 「にいちゃん、きょうはテントキーパーかぁ?」
 「いいえぇ、さっき来た所なんですよぉ。剱はもう明日にしようかと思って」。
 何やら九州なまりである。聞けば福岡大学のOBだとか。更にいろいろ話をすると、なかなかのつわものであった。僕など足元にも及ばない。そのころ僕はテントから出て、近くのちょうどテーブルがわりになる岩場にウイスキー、水、ピーナツと取り揃えていい加減飲んでいたのであった。すると僕の横にテントを張ったおじさんがビールを持って話に加わってくる。この人はちょっと東北なまりだった。新宿から来たのだという。ひとり雪渓を剱へ向かって登っていた人がいたが、どうやら彼のようだ。これまた凄い人である。三人とも今回の山行は単独であった。

 いろんな話をしたはずだが酔っ払ってあらかた忘れてしまった。山岳会の話、写真の話、そんな話をしたように思う。僕は予定の山行を終え、明日は帰るだけの気楽さで、ウイスキーを空にしてしまおうと盛んに飲んだはずである。おかげで平衡感覚を失い、二度も地面に転げてしまった。

七月二十一日(月)
 朝四時半、新宿のおじさんが起こしに来てくれる。
 「お隣さん、朝だよぉ」。
 夜明けの写真をどうのという話を、たしか昨晩したのだ。覚えてくれていて起こしに来てくれた。僕は結局晩御飯も食べずにシュラフに潜り込んでしまっていたらしく、ずるずるとだらしなく目を覚ましたのであった。三脚を外に据えて、朝日の当る剱を撮る。天気がよすぎて雲ひとつない。写真としては何の妙味もないけれど、まあ記念写真である。
 お湯を沸かし夕食用のを朝食にする。新宿のおじさん、ヨーグルトチーズケーキを「これおいしいから」と一つくれる。六時半、剱御前に向けてゆっくりと。剱御前からの眺めがまたすばらしい。剱、鹿島槍、槍ヶ岳、薬師。

 雷鳥坂をだらだらと下りて、大きな沢まで下りて小休止。沢を渡ると雷鳥沢のテント場。ここから、室堂までが登りになる。しかもけっこう急登であった。一般客も来る所だから道は整備されている。コンクリートの道である。しかし、しんどかった。みくりが池温泉に入って帰る予定だが、なかなか着かない。室堂が目の前に見える頃やっと温泉に着く。
 ゆっくりと湯に浸かる。天気がよすぎて、腕が痛い。日焼け止めクリームを持って来ていて顔には塗ったが腕に塗るのを忘れていたのだ。
 室堂に着いて昼食。この山行三度目のラーメン、もち、ウインナーソーセージ、いいかげん飽きてしまった。富山に着いて帰りの切符を買う。あいにく指定はずっと満席。仕方がない、何とか乗れれば帰れるのだ。ところが十五時富山発の臨時特急があるとの事。あと十分もすれば出る時刻だ。ビールと駅弁を買ってホームに並ぶ。余裕で座って帰れた。

 なお、往復での諸経費は三万円たらずであった。