1998年9月11日〜14日 大キレット

 梅雨明けの裏銀座が雨に祟られたせいか、どこか欲求不満があったのだろう。お盆休みは、長野は地震だった。「もう一度」、天候もよさそうだ。ネットで調べてみると、地震の影響で東鎌の一部、北穂から涸沢岳の一部が通行不能になっている。槍は前年息子と行って暴風雨に見舞われた。
 「とりあえず上高地へ入ってから」
 コースも決めずに「ちくま」に乗った。車内でも「さて、どうしよう」。
 これははっきり言ってよろしくない。万が一のことを考えると、家族がだんなの行き先を知らなければ捜索願だって出せないではないか。いや、捜索願を出す前に葬式を出してしまうかもしれないけれど。
 槍へ上がり、西鎌を双六までおり、そこから笠。漠然とだがそんなイメージを持っていた。雨の裏銀座は、三俣蓮華から双六、笠の予定だったが笠をあきらめ、分岐を小池新道へ取りわさび平へ下りたのだった。

(一)
 横尾を過ぎるとまだ平坦だが山道になる。いくつか沢を横切りながら徐々に登る。9月半ばだ。まだまだ暑い。やたら長い。途中から道が付け変えられているのに気がつく。地震のせいだろうか。その付け変えられた道がほぼ直登なのだ。そのしんどいこと。殺生まであとわずかのところにある平坦な踊り場で大休止。きょうは殺生までだから、急ぐこともない。
 何組かのパーティと雑談していると、「ド、ドーン」と大きな音がする。槍の南斜面が崩落しているのだ。殺生で聞いていたら肝をつぶしたことだろう。僕のことだ、怖がってさっさと降りたかもしれない。
 僕はことさら足が遅いけれど、周りのパーティの健脚なこと、ここで一緒になったひと組みには後にも会うことになるが、彼らの足には脱帽した。
 殺生で幕営。ここでは前年、息子と幕営した。地震の後のせいか小屋の補修などで機材が入っていた。
 「ごくろうさんやね。水あげようか」
 気さくな工事のおにいさんだ。彼らはヘリコプターでここまで上がってくると言う。
 上のテントではなにやら…。

(二)
 翌朝も快晴。撤収して肩の小屋まで。ザックを置いて槍の頂上へ。前年の息子とは暴風雨の中、途中で撤退。これは今から考えれば当然のことだ。無謀すぎる。高所恐怖症だから足をすくませながら慎重に山頂へ。
 「すばらしい!」
 北アルプスが一望のもと。裏銀も表銀も、黒部五郎も、常念も、笠も何もかもが見える。もちろん穂高も。
 盟主槍に、常念、笠がどっしりと控えている。そんな感じだ。
 北鎌からの上がり口を覗く。「なるほど、ここから上がるのか」
 ひとしきり眺望を楽しんだあと再び肩の小屋へ。この下りがもっと怖かった。
 さて、ザックを担ごうとすると、「プツン」と肩と天袋をつないでいるストラップが切れてしまった。さいわい、もうひとつずつ予備がついていたのでそれにストラップを通し替える。危ないところを通っているときこんなことにならなくて良かった。

 さて、どっちへ行こう。西鎌を下りて笠へ。もう一つは、大キレットを通って北穂へ。
 山の経験はまだ数年ではあるが、北アルプスも何度か来た。剱もやった。僕ももうそろそろ大キレットを通る資格があるのではないだろうか。方向も北穂から槍ではなく、より一般的とされる槍から北穂なのだ。怖かったら、無理だと思ったら引き返せばいい。
 「よし、そうしよう、大キレットを北穂へ」
 さいわい天気は上々。風もない。
 南岳を下りたところで昼食。水を補給。単独行も数人いる。途中数人にすれ違う。北穂から槍へ向かった人たちである。
 「なに、慎重に行けば大丈夫。落石だけ注意して」
 「怖いですよ〜。くわばらくわばら」なあんて脅かす人もいる。
 結論を先に言うと、たしかに怖い。引き返そうかと思ったほどだ。でも、引き返すには今通ってきた怖いところをもう一度歩かなければならない。それもまた怖い。いっそのことこの崖を飛び降りたら楽になれるのに。冗談ではなく、本当にそんな誘惑にかられるのだ。
 怖いところは二箇所あった。まず大きな一枚岩。ここをどうやって通っていいのか解らない。岩の上を通るにはその先をどうしていいのかわからない。岩に鎖が横に長く付けてある。おそるおそる岩の下を覗きこむと横にどうやら足を置ける水平の棚がある。これは剱のヨコバイと同じだ。「なるほど」。鎖をしっかり持って足をおろす。棚に足がかかる。鎖を持ちながら水平移動。
 「ほっ」
 痩せ尾根は気分としては怖いけれど、好天だし、まあなんとかクリアできた。
 もう一箇所、飛騨泣きと呼ばれる信州側から飛騨側へ岩をヨイショとまたぐ。こんなところも剱にあった。それからが大変。ほぼ垂直の壁をピンを掴みながらよじ登らなければならない。左右はストンと切れている。
 「うーん。万事休したか」
 これは怖い、こう書きながらも手のひらに汗をかく。でも仕方がない、引き返しても怖いのだ。しっかりとピンを掴み、下を見ないように(もちろんそんな余裕などはないのだが)、一本ずつよじ登っていく。クライマックスはこの二箇所であった。単独行のお兄さんが追いぬいていく。
 「もう、大変」
 「あはは。気をつけて行きましょう」
 北穂直下の鎖場を過ぎて、4時。北穂小屋着。こうして書いていてもここまで来るとほっとする。
 さっきのお兄さんとビールで乾杯。

 北穂山頂では、はるか先の壁に取り付いたクライマーを狙ってカメラマンがじっとシャッターチャンスを待っている。西日が当たっているがガスの切れ間を待っているのだろう。僕もしばらくじっと待っていたけれど、結局その間彼はシャッターを切らなかった。辛抱しきれずに、僕はテント場へ下りたけれど、そこから見上げると彼はまだ待っていた。写真は辛抱である。設営後、僕はウイスキーとつまみ、カメラを持って前穂の見えるところで飲んだ。飲みつつ数枚。朝は常念が逆光の中で黒くどっしりとしている。そこへ光芒。テントの中からじりっと外へにじり寄りパチッ。

(三)
 北穂から涸沢岳間は地震の影響で通行不能の箇所がある。一旦涸沢へ下りる。奥穂へはまた登り返せばいい。そんな気持ちだったが涸沢への下りも思う以上に長かった。下りるだけで疲れてしまう。食事は三泊分持って来ていた。私は小屋のテラスで考え込んでしまう。どうしようかと。奥穂へ登り返す決心がなかなかつかないのだ。はるか上に見えている。あそこまでか。道も見えている。ジグザグの道を登ればよいのだ。天気も抜群。しかし、気分がいまひとつ「よし行こう」とまでは乗らないのだった。そうこうするうちに、北穂から人はドンドン降りてくる。ここに幕営して、ピストンでもよい。いろいろ考えてみるが、まあはっきり言えば気分としては腰が引けていたということだ。
 「また今度にしよう」
 そう決めて、横尾への道を下りかけるが、まだ未練がある。思い直して少し引き返す。
 「でも、でも、やっぱり。やめとこう。今回は大キレットを通っただけでよしとしよう。また来ればいい」
 横尾までの道もけっこう長く感じた。途中沢を渡る橋のところで休憩。槍の手前のテラスで見かけた親子と再び会う。彼らも同じルートをたどったのだ。それにしても足が速いこと。横尾でも会ったが、このほうが楽だろうと僕はもはや山靴を脱ぎサンダルに履き替えて、すたこら歩いている横をびゅうっと追いぬいてしまった。もはや追いつくことは不可能だ。

(四)
 夕方、松本から臨時特急があった。名古屋で新幹線に乗りかえる。ザックを幾分でも軽くしようと酒の残りを山の水で飲む。もうすぐ京都と言うところで安心してしまったのだろう。寝てしまった。気がつくと聞きなれない駅名や、路線の名前がアナウンスされている。
 「あれっ?…」
 どうやら乗り越してしまったらしい。どこだ? 岡山だ。あらら? しまった。 駅前で野宿か? 駅員に聞くと帰りの「のぞみ」はあると言う。
 どの分を支払ったのかは知らないが、もう出るから急げという。ばたばたとホームに駆け込む。やっと「のぞみ」に乗る。新大阪に十二時前だったろうか。地下鉄はまだ動いていた。それでも最終であったろう。これからナンバへ行っても南海はもはや動いてはいない。地下鉄の最終駅、なかもずまで行き、そこからタクシーに乗った。個人タクシーだったが、そのおじさんと話が弾む。写真好きなんだとか。いつもカメラを積んでいて、走っているときいい風景に出会ったら写真を撮るのだそうだ。
 おかげで、それもまた楽しいひとときだったが、ずいぶんな遠回りと散財をして帰ったことである。