尾瀬(1999夏)

(一)
 湯浅は学生時代の数少ない悪友の一人。私は大阪で、彼は故郷が関東のせいか東京で就職した。
 卒業して20年近くになる。頻繁に連絡を取り合っていたわけではない。
  近年のことだ。彼がひょっこり大阪へやって来た。かつての思い出の場所を訪ねているのだと言う。わずか数年とはいえ多感な時代を送った場所である。そんな気分になるときがあるのかもしれない。私もじつはネイティヴの大阪人ではない。が、学生時代以来、住処はいくつか替わったけれどずっと大阪に住みついている。たまに、以前のアパートとか学校の近くに行ってみたりすることがある。生活の拠点が離れてしまうとそれ以上に懐かしく思えるのかもしれない。
 でも、彼と飲んで別れるとき、「湯浅、お前死ぬなよ」と言ってしまった。
 「あはは、それはないよ、心配すんな。また近々来るから、そん時はみんなで飲もうや」
 それからほどなく、実際に彼は再び来阪した。在阪の何人かに声をかけてまた飲んだ。その近年の二度の酒の時、私は最近山へ行っている話をした。彼もまた、丹沢へちょくちょく出かけているとのこと。
 「じゃあ、いずれ一緒に山へ行こうや」

 春が過ぎて、初夏の頃だったろうか、
 「おい、行くか?」
 「おお、行こうぜ」
 それで話の骨格はできた。多少は私の方が経験はあった。北アルプスならば、おおよそ案内できる。私は「ちくま」で、彼は「アルプス」で松本で待ち合わせる、そんなイメージを持っていたら、彼は「尾瀬へ行きたい」と言う。
 「尾瀬?」
 こちらからだと少し遠い。でも、こんな機会でないといつ行けるかもわからない。
 「よし、尾瀬へ行こう」
 あとはテントで行くか、小屋泊まりかだ。私は、最初からテントでと思っていたら、彼はどうやら小屋に泊まって身軽にと思っていたらしい。そこでまた考えてしまう。梅雨明けの山小屋と言えば最盛期である。けっこう混むに違いない。あの窮屈な思いよりテントで寝たほうがはるかに気楽である。そこでテントと小屋泊まりの一長一短を列挙してどっちを取る?と聞いた。
 「テントで行こう」と返事が来た。
 新宿からバスが出ているらしく、その手配は彼に任せた。こちらとしては、いつ頃がいいかということと、何を持っていくかについてその後何度かやり取りをした。

(二)
 東京へ行くについては、もうひとつ目的があった。日ごろ書き込んでいた古代史の掲示板で知り合った数人とこの機会に会っておきたかった。これも偶然だが、湯浅と待ち合わせた場所が新宿西口の、ヨドバシカメラのそばの高速バスターミナルである。この本当にすぐそばに、古代史の面々がオフに使っている飲み屋「月村」があった。だから急遽、かくかく云々で「月村」で飲んでいるから、三時間にも満たない時間だけど、ぜひ会いましょうと掲示板に書いた。
 じつは、私は東京は修学旅行で一度、数年前の出張で一度の二回しかない。しかも一人で行くのは今回が初めて。新宿までは行ったもののやはり迷った。なんとか「月村」へたどり着くと、ありがたいことに、三人来てくれた。御大の心愛氏、くみさん、それに論敵の公正氏。
 御大とは名古屋で会ったことがある。くみさん、公正氏とは初めてである。それでも和気藹々のお酒だった。私はずいぶん酔ってしまった。

 9時を回って、湯浅との約束の時間が来た。急き立てられるように店を出る。すぐ待ち合わせの場所だ。待たせてしまった。バスは、10分ほど歩いた都庁の地下から出るらしい。重いザックを背負ってふらふらしながら都庁まで歩く。バスでは上手く眠れると思ったが、じつは酒のせいか目が回ってしまって、すこし気分が悪くなってしまった。でも、だましだまししながら幾分かは眠ったのだろう。
 「お前、いびきがすごかったぞー」

(三)
 鳩待峠に着いたのが夜明けだったか。身繕いをして水の補給。軽く朝食を済ませ、さあ至仏へ。道はすべて木道。歩きやすいといえば歩きやすい。でも、山道を歩いている気がしない。まるで劇場を歩いているみたいだ。これも山の保護のためだろう。二日酔いや睡眠不足のためばかりではなく、もともとの体力不足もある。なかなかピッチが上がらない。
 それにひきかえ、湯浅のしっかりした足取り。私はすぐ、彼のほうがよほど体力があることに気がつく。それからは、迷う道ではなさそうなので、彼を先に行かせ、私は休憩のときやっと追いつく、そんな道中であった。でも、そのほうがお互い単独行の気分が味わえるだろうし、気がねもいらない。山頂はさすがに人が多い。尾瀬の湿原が一望できる。
 湿原の中を通る木道。むこうに燧ケ岳。眺めは最高だ。

 山の鼻への下山道も木道が整備されつつあった。けっこう急な下り。下りきって、湿原の中のベンチでお昼。それから延々と十字路へ向かう。周りはいわゆる「尾瀬」である。尾瀬の湿原。なるほど、こんな中を歩くのは初めてだ。
 十字路に着いて、まずは今日の行程は終わり。ビールで乾杯。水が豊富にあふれている。テントを設営して、いろんな話をしながら先に眠りかけたのは私だった。
 「オイ、寝るな!」
 「えっ、ウンウン、聞いてるで」
 そうは言うものの上の空だ。

 夜が明けて、撤収。燧ケ岳を目指す。昨日の至仏への道と比較すればまさに山道である。
 昼前に燧ケ岳山頂。人の数も多かったけれど、とんぼの数もそれにまさるほど多かった。まだしっぽは赤くはなっていなかったけれど、山の上はもはや秋の気配である。7月下旬のことである。
 長蔵小屋の方へ下山。これもけっこう長かった。健脚の湯浅はとっくに先のほうを行っている。私といえば、足が棒になってしまって、もう少しで木道へ出るころにたまらず座り込んで休んでしまう。靴の紐を緩める、大休止状態である。さて、と気を取りなおして歩き始めたころ夕立にあった。雨具を着ける。ほんのしばらくのことであった。木道へ出れば、長蔵小屋まではあとわずか。やっとこさ、たどりつくと湯浅は涼しい顔で他の登山者と談笑中。テント場で設営を終えた頃、もう一度夕立が来た。湯浅はしばらく寝るという。雨はほどなく上がる。
 「おい、外を散歩しようぜ」
 「う、うん俺は寝とくよ」

 カメラを持って木道を散歩する。夕立に濡れた葉っぱや花びらがきらきらととても美しい。尾瀬沼は靄っている。なんと幻想的なことだろう。平野長蔵一族の墓をお参りする。大江湿原のあたりもニッコウキスゲの黄色の群生がとてもきれいである。
 尾瀬は山ではない。俗っぽくてもやはりこの湿原の景色だと、つくづく思った。
 燧ケ岳に日が沈む。夕焼けの空に山がシルエットになって聳えている。赤く染まった雲の上に月が出ている。
 「おーい、よかったぞぉ」
 それから夕食。ひとしきり酒を飲む。明日はもはや下山である。

(三)
 早朝またもや木道を散歩。靄の中で朝露に濡れた湿原の植物群。心を洗ってくれる。
 ずいぶん長い間逍遥したように思う。写真もずいぶん撮った。テントに帰り、撤収。それから大清水へ向けて下山。バス乗場のみやげ物屋でTシャツを一枚買う。風呂にも入れてくれた。それから延々と広大な関東平野を東京へ向かう。

 尾瀬を堪能できたし、また湯浅の健脚ぶりを痛切に実感した山行であった。湯浅とは翌年、今度は北アルプスへ行くことになる。

(四)
 調布にある湯浅のマンションに泊まる。翌朝は湯浅は仕事へ出るという。一緒に出て、わたしは上野の博物館を見学。
 平穣出土の同向式斜縁神獣鏡、「なんだこれは、三角縁神獣鏡じゃないか」と見間違うほどであった。
 もうひとつ、たまたま「法隆寺展」をやっていた。数多くの仏像はさもあるらんだが、これまた数多くの伎芸面にはじつはびっくりしてしまった。なぜこれほどの伎芸面が法隆寺に? 奈良時代のものであるらしいのだが、まずどれを取っても顔つきが日本人のそれではない。どちらかと言えば中東の顔である。シルクロードの一つのルートを実感した。世阿弥『花伝書』の冒頭部分にある、能楽のルーツとして法隆寺のことが書いてあるけれど、これらの伎芸面が能楽のルーツと関わっているのかもしれず、これは大きな収穫であった。