郭公、富士山を見に行く。(Dec.8/10, 2001)

(一)
 この夏、マルビルのフォトサロンで富士山の写真を見た。たぶん、白籏史郎が主宰する会のメンバーによるものだったと思う。白籏も来ていた。朝夕の真っ赤に染まった富士山、朝もやに光が当たりその奥にそびえる富士山、笠雲を被った富士山、どれもこれも素晴らしかった。僕にはとてもこんな写真は撮れないけれど、ぜひ一度この眼で見てみたい。

 雑誌のバックナンバーやインターネットや知り合いに聞いて、愛鷹山系の越前岳へ行くことにする。山そのものはどうってことなさそう。とにかく今回のテーマは「富士山の朝夕を見る」だ。写真も撮ろう。三脚、レリーズ、長めのレンズを持っていくことにする。どれもめったに使ったことがないけれど。
 愛鷹山荘から越前岳までの間に富士見台があり、そこからの富士山が素晴らしいらしい。できればそのあたりのどこかで、あるいは越前岳山頂でテントを張ろう。で、朝夕の富士山の写真を撮る。そんな予定である。

(二)
 朝8時33分に新大阪を出る新幹線は三島に停まる。11時前に着き南口の改札を抜ける。富士急の案内所でバスの時刻表をもらう。本数が少ないみたいだから帰りの時刻を確かめておかないと。コンビニで山の食料を調達後、中華屋で昼ご飯。12時5分の須山行きのバスに乗る。途中前方に富士山がでっかく見えた。「おおおっ」。地元の人にとってはどうってことない光景だろう、またもっときれいな富士山を見ていることだろうが、僕にとってはこんなに間近に見るのは初めてのことだ。
 1時間で須山に着く。愛鷹山の登山口まで約30分車道を歩く。そこから左の林道に入り20分歩くと右に神社がある。いよいよ山道である。山道そのものはさほど急でもない。そろそろ尾根が近づくと左へ巻く。尾根直下に愛鷹山荘。数張りのテント場、トイレ。水場もある。ちょろちょろっと沁み出ている程度だった。12月から3月にかけては涸れるらしい。
 尾根へ上がると木立の切れ間にベンチがあった。そこから富士山が見える。「おおっ」。
 尾根道は、粘土質らしく、幾分水を含んで滑りやすかった。木間越しに見える富士山はなんとももどかしい。写真を撮ろうにも木々が邪魔になる。それでも、見えているのだし、好天なのだから、富士見台へ着けば夕暮れの写真が撮れるにちがいない。

 鋸岳の展望の利くところで小休止。3時半を回ってそろそろ4時前だったか。ガスが出てきた。ありゃりゃ。仕方がない。山の天気のことだ。4時10分ごろ、富士見台に着く。
 見晴らしは利きそうだが残念ながらガスの中である。ありがたいことに平坦になっている。テントが張れる。越前岳山頂まで行かずにここで幕営することにする。絶好の富士山のビューポイントだし、幕営適地でもあるから、きっとこれまで数多くのカメラ小僧がテントを張ったに違いない。
 きょうは誰もいないし、この時間だからもう来ないだろう。

 ガスの中だから写真はあきらめてさっさと酒を飲む。
 「おいおい、何のために三脚を持って来たんだか」。
 いいかげん飲んだらいつのまにか寝てしまっていた。12時近く目覚めて晩御飯。
 星が素晴らしくきれいだったし、外へ出ると、眼下には街の灯かりがきらめいていた。

(三)
 早朝、お湯を沸かし紅茶、パンをほおばる。外へ出るとそれほど寒くない。風がないせいだろうか。
 富士山の麓にはまだ街灯が点いていた。三脚を立て、カメラを据える。どうやら電池が切れかかっているみたいだ。交換する。
 そうこうするうちにつま先が冷えてきた。足元には霜柱が立っている。カイロをもむ。
 徐々に明るくなってくる。雲ひとつない。富士山は眼前になんの衒いもなくその優美な姿でたたずんでいる。シャッターを押してみる。10秒前後かかる。三脚を持ってきてよかった。 


 











 太陽は富士山に向かってほぼ真後ろに近い右奥から上がってきた。
 300mmまでぐっと寄って山頂および噴火口あたりを撮ったり、引いて全体を撮ってみたりする。いったん三脚を据えてしまうと移動するのが億劫だ.
 富士山、左奥の白く冠雪した南アルプスなど、ほぼフィルム一本を使い切ったころには日も高くなり、暖かくなっていた。
 
 撤収して7時50分、越前岳山頂へ向かう。30分もかからなかったと思う。
 十里木からだろうか、すでに二人連れが上がっていた。
 山頂にはエビのシッポが出来ていた。また、霜柱の長いこと。平坦地らしきものはあるといえばあるが、幕営するには、富士見台の方が断然いい。
 数枚撮ったあと十里木へ下る。途中までは木間越しだが、それからはさえぎるもののない富士山がバンと眼前に。好天の中、雲が一筋。


 












 いちいち三脚を出すのも面倒だから、手持ちで撮る。
 どうやら十里木から登る人の方が多いようで、何人にも出会う。
 降りきる直前には100人くらいのパーティだったか。
 広い駐車場があった。

 道をまたぐと「十里木高原」のバス停。時刻表を見ると、昨日駅でもらったそれとは違う。おや?
 時間はまだまだあるのだし、途中まで歩くことにする。そしたら、もうひとつ「十里木」のバス停があった。この時刻が昨日もらったのと同じである。同じ富士急なのに、さっきの「十里木高原」のバス停はなんだったんだろう?
 まだ、時間がありそうなので、もっと歩く。結局、サファリパークをすぎて、「忠ちゃん牧場」のバス停まで歩いてしまった。

(四)
 三島へ戻り、修善寺行きの電車に乗る。伊豆長岡で下り、伊豆葛城山へ。ここからの富士山もきれいだと言う。残念ながらこのときは雲に包まれていた。
 この伊豆葛城山の山頂には「葛城神社」があった。説明によると、もともと大和葛城山にいたご祭神を勧請したのだとか。役の行者が富士に流されていた時期があり、たぶんそれとの関連があるものと思う。これはこれで収穫だった。

 さて、ひと口に葛城山と言っても、いま私たちがそう呼んでいるものが、かつてもそうであったとは限らない。この伊豆葛城山にある葛城神社と大和の倭文神社(しどり神社)の祭神が同じだと言う。いま倭文神社は二上山口にある加守神社に合祀されているはずだ。してみると当時は二上山あたりも一帯として葛城山と言っていたのかもしれない。二上山、いまの葛城山、金剛山だけではなく、紀見峠以西の紀ノ川に沿った連山にも葛城山の名前がついている。南葛城山、和泉葛城山など。またその山々から紀ノ川へ下る一帯は葛城町である。いわゆる葛城氏の集住していた地域かもしれない。
 ちなみに、加守とは掃部である。かもり、かんもり、かにもり。諸説あるけれど、これは神守りの意ではないかと思う。さらには、役の行者は鴨氏の系譜上にある。鴨もまた加守、掃部ともともとは同義ではないかと思う。

 昨年、三角縁神獣鏡が出土した鴨都波(かもつば)遺跡のすぐそばに鴨都波神社がある。かつてそこでお聞きした話では、もともと鴨氏が住んでいたこの地域に後になって葛城氏が入って来たとのことである。金剛山、葛城山東麓には高鴨神社があり、これが鴨氏の本拠地と言われている。まず、鴨氏が先住し、応神天皇の大和入りの際の道案内をした。葛城氏は。この応神天皇とともに入って来たのかもしれない。葛城氏の祖は武内宿禰。彼は、神功皇后と行動を共にしている。僕は神武の事績はこの応神のそれを投影したものではないかと考えている。

(五)
 新幹線に乗る時間が来た。
 ホームに上がると、富士山が夕日にほんのりと染まっていた。僕はあわてて、カメラを出しレンズを付け替え、何枚か撮った。うまく撮れたかどうか、そのフィルムはまだカメラの中だ。