燕−大天井−槍

 八月三日
 今年十八回目の山行は、息子と出かけた。北アルプスの中でもポピュラーなコースといってよい。私も初めてである。今年になって北アルプスは三回目。まだまだ行ってないコースはたくさんある。いつかはこのコースも行く事になるであろうと思っていたが、息子を連れてちょうどよいタイミングではなかったか。

 八月二日「ちくま」は禁煙席の指定が取れた。だからというわけではないが、今回たばこを持っていくのをやめた。息子が持っていくし、あったら吸いすぎてしまうし、休憩の時間も長くなる。重たい荷物を抱えて山道を歩くにはたばこはむしろないほうがよい。なかったからといって死にはしない。ないほうが体にはよいのだ。吸いたくなったら息子からもらえばよいし、小屋にも売っているだろう。そんなことで持たずに出かけた。いままでいつも数箱持って上がっていたから小屋で買った事はなかった。ところが小屋では売っていなかった。二泊三日の山中で結局何本吸ったろうか。五、六本せいぜいそんなものではないか。

 穂高駅から中房温泉へはバスの予定だったがタクシーの運ちゃんにあっという間に乗せられ、もう一組の二人のパーティーと相乗りだった。料金的にはほんのちょっと高くついたぐらいだった。

 燕までの合戦尾根、北アルプスの三大急登といわれているが、正直それほどの感じでもなかった。合戦小屋では例にもれずすいかを食う。たしかにうまかった。お昼前に燕山荘、そこから頂上までは片道、ぶらぶらと尾根伝いに三十分ぐらいか。花崗岩が風化して出来たらしい、言ってみればオブジェのような岩の形状、たしかにおもしろい。頂上から、鹿島槍だとか、立山、剱が展望されるところだろうが、ちょうどその高さあたりに雲が出ていて残念な事だった。小屋に帰ってその前でラーメンを食う。雷が黒部の方からとこれから向かう大天井の方からも聞こえていたのではなかったか。槍も小槍は見えていたが本槍はずっと雲の中だった。本槍が見えたらシャッターを押そうと思っていたが、結局一枚だけぼんやりと見えた時押したのみであった。
 燕から大天井へは尾根伝いにゆるやかな山道である。表銀座といわれているが、確かにこの眺望なら人も大勢来るのであろう。燕の不思議なオブジェたちも人気のひとつだと思われる。確かに面白いが、ケレン味たっぷりなのだ。なんだか悲しくなってしまった。本来の山の持つ味とはちょっと異質なものを感じたのは私だけではあるまい。しかし、これも人間が勝手に作り出したわけではないのだ。自然が長い年月をかけて作り出したものなのだ。ある意味では人間臭い山と言ってもよい。一見不思議なオブジェたちが人目を引くがいい加減飽きてくる。深田久弥の百名山、必ずしも賛同してはいないが、ここが入ってないのもちょっとうなずける。それでもここからの眺めはすばらしい。裏銀座が一望の下である。次は裏銀座をと思っていたが、結局今年は果たせずに終わりそうである。

 四時過ぎに大天井、手続きを済ませ設営後祝杯をあげる。夜テントを打つ雨の音、強風。うとうとしながら予定について考える。このまま槍を目指すか、或いは常念小屋へ行き、一の沢を下りてしまうか。どうしたものかと。


 八月四日
 今回は、槍から新穂高温泉に下り、そこで風呂に入って帰ろうというものだが、早くも予定の変更を迫られそうな気配である。朝目が覚めて外を見るとガスに包まれている。早い連中はもはや撤収し出発寸前の状態である。僕らはのんびりと、さてどうしようか、ぐらいの状態。時間が経つに連れどうやら天候はもちそうなようすである。撤収後、大天井の頂上を踏んでそれから、槍方面にコースを取る。今回ポリタンクは二リットルのいつものやつと六リットル入りの容量に応じて小さくなるのとふたつ持っていったが、六リットルのがザックの中で口が開いてしまい、ザックの中が水浸しになってしまった。第一回目の水難である。西岳あたりまで雲は切れたりかかったり、幸い雨には遭わずにすむ。大天井、常念、蝶ヶ岳あたりが見える。春、あの道を歩いたのだ。常念の下には小屋が見える。常念小屋である。直ぐ近くに見えるのだ。懐かしくなってしまう。西岳から水俣乗越まで階段やらなにやらで一気に下る。槍はきのうよりもっと下までガスに包まれている。あの中に突っ込まなければならないのだ。昼食後、ちょっと山の中にはいって野糞をする。すでに二人ほど同じ事をしていた。小屋のトイレは臭いのだ。こうやって自然の中でするのが一番よい。いずれ土にかえる。だけどみんなが同じ事をしたら山全体が臭くて仕方がないだろう。
 息子はまるで町の中を歩くようにひょいひょいと前を行っている。決して山を歩きなれた風情でもないのだが、若いせいか体力があるのか何の疲れも感じさせないような歩き方である。東鎌尾根もどうということもなく通過した。だが、雪の付いている時なら難しいと思われる個所はあった。
 ついに小降りの雨に遭う。雨具を着ける。ぽこっと小屋が見えた。ヒュッテ大槍である。息子は二十分ほど前に着いたらしい。一服する。槍のほうから来たパーティーが言うには、槍のテン場は狭いから昼までに着いておかないと多分張れないでしょう、殺生ヒュッテのほうがいいですよ、と言っていたので、真っ直ぐそっちへ行く事にする。いったん、槍の肩へ上がって下りる事も考えたが、とりあえず幕営を先に済ませたほうがよかろうと。
 殺生ヒュッテに着いて設営を済ませたのが三時ごろだったか。空身で頂上を目指す事も考えた。時間は充分にある。行った所でガスの中ではあるが。どうする? いずれにせよ明日は新穂高温泉のほうへ下る予定だから、明朝もまた肩まで上がらなければならないけれど。きのう、今日とけっこう歩いたから、今日はもうこれでおしまいにしようという事になり、酒をのみ、夕食にする。夜、テントを打つ雨の音。風もありそうだ。夢うつつのなかでまたもや雨の音を聞かされる事になろうとは。


   八月五日
 夜中の事である、ひざあたりが水にぬれて冷たくて飛び起きた。空気窓が風に吹きこめられてテントの中に入り、それが雨樋のように外の雨を中に引き込んでいるのだった。おかげでテントの中は水浸しになってしまった。これが二回目の水難。明け方になって雨はやんだ。一晩中降っていたのがやんだので、これで今日一日雨には遭わずにすむ。そう思って、残り少ない食料を分け合って食べ、撤収し槍の肩まで登って行ったのであった。
 ところが、上は雨風がきつい。小屋泊りの連中も、頂上はあきらめているらしく、聞こえる話は下山の事ばかり。私たちは、一度はトライしようという事になり、途中までは登ってみたがあまりの風のきつさに正直怖じ気づいてしまう。それでも肩から半分ぐらいまでは登ったんだろうと思う。ガスの中でまずコースがわからない。見えるものは、ほぼ垂直の壁面に容赦なく風が当りガスが吹雪いている状態である。下りかけると二人の関西人が登ってくる。関西人というのはなんでこういちびりなのだろう。もちろん私たちもふくめてのことだけれど。

 肩の小屋へ戻り、しばらく様子を見る事にする。隣の兄ちゃん、肩のテン場に設営したのだが風のためにテントを壊されたのだという。下でも風はあったが、どうやら上ではその比ではなかったらしい。学生の連中も避難してくる。

 さて、下りるか。テン場を抜け尾根を下りようとするが風を正面からまともに受け、目を開けていられない。体も吹き飛ばされそうである。まずい、やばい、引き返そう。僕たちはすごすごと肩の小屋へ戻る。小屋の主人穂刈氏、「天気が急変して、お気の毒な事です」なんて、同情している。天気図を掛けてくれていたが、日本海に前線がある。これはやばい。いつぞやの白馬山行と同じ状況である。

 小屋でしばらく様子を見ざるを得ない。穂刈氏が言うには、風が強いのはほんの数十メートルらしいのだが。「それを過ぎたらそれほどではないでしょう。尾根の上だけです」と。飛騨風だから正面からまともに受けるが、ほんの数十メートルだけです、そこを何とか頑張ればあとはどうってことありません、と。
 僕たちは、ふたたびトライする。テン場にさしかかると、「あかんっ」といって三人が帰ってきた。
 「やっぱり…」。
 僕たちもまたもや小屋へ引き返す。どうやら上高地へ下りたほうが正解であろう。小屋ではいくつかのパーティーがどうしたものか相談をしている。僕たちだって新穂高のほうへ出来れば下りたいのだ。だがいたずらにここで時間を取っても仕方がない。もう一日ここで停滞も考えられるが、予算の事もあれば、お互いのスケジュールもある。上高地へ下りることにする。賢明な選択であろう。槍へはまたいずれ来る機会はあろう。むしろ何度もあろう。頂上はその時の楽しみにしておこう。

 七時半、上高地へ下りる。風裏、谷の中、風の影響はほとんどないといってよい。雨だけは仕方がないが。順調に下りる。沢を何本か渡るのだが、増水していて何処を渡ったものか思案してしまう。靴の中は水浸しで気持ちが悪いほどだ。横尾でちょうどお昼。小屋でカレー、やきそばを食う。一本残っていたたばこ、雨に濡れてぐずぐずになっている。残念な事をした。
 そこからバスターミナルまで結構早足で歩いたが、さすがにばててしまった。春も感じた事だが、重装備の連中、さすがに早い。妙に感心してしまう。新島々までバス、あこがれの松本電鉄で松本まで、臨時特急の大阪行きが十分後に出る。楽勝に座れる。がらすきであった。

 まともな雨を経験したのはこれが初めてではないか。雨具も本来の目的で使用した。テントの空気窓もいい経験になった。景色には恵まれなかったが、こういう経験も必要だ。
 息子と行くとなぜか水難に遭う。これは私のせいではなく、彼にその相があるのに違いない。

 北アルプスの地図を眺める。まだ通っていない道がたくさんある。あと五回、六回で大体の道は通れるかどうか。交通機関がちゃんとしているからアプローチは楽である。南アルプスも行ってみたいが、先ず北アルプスをあと五、六回がんばってみるか。