高取城址から飛鳥へ (Mar.31, 2002)

 古市でDOPPOさんに会い、橿原神宮前で倍金満カズさんが乗りこむ。壺阪駅を9時37分に下りると円さんが待っていた。きょうのハイキングはこの男四人である。女の子は現地でなんとかしましょうとの円さんの心強い言葉に引かれて出てきたものの、周りにいてはるのは、ずいぶん昔の…。
 高取城址へ向かう壺阪駅そばの下土佐、上土佐には古い家並みが残っていた。ゆるやかに登りつつ、民家が切れ道路もアスファルトから地道に変わり高取城址までの山道へ。
 宗泉寺で小休止。どうやら香田さんも近くに来てるらしい。

 栢森への分岐、猿石は元禄年間に明日香村で発掘されここまで運ばれたようである。
 高取城址は高取山山頂にある。583.9mである。山城だがその石垣は見事と言うほかない。
 石垣に沿って突き当たっては曲がりながらやっと本丸の下に来る。上を見上げると、なんだ、香田さんがもう来ていた。車ですぐ近くまで入れる道もあるらしい。午後から用事があるらしく、すぐ帰られたが差し入れに団子をいただいた。
 先週、藤原岳にこまくささんのパーティにおられた春風さんも大人数で来ておられた。

 高見山や台高の山並みを見渡した後、昼食。
 草地で男四人がごろごろする。
 香田さんからいただいた黄な粉をまぶした串団子、けっこう美味しかった。
 春風さんのパーティはてんぷらを揚げている。
 串団子はたくさんあったので、カズさんが数本を持って、そのてんぷらと物々交換。ビールまでいただいた。

 下りは、猿石から分岐を右に取り栢森へ。栢森、稲渕、祝戸を経て石舞台方面へ歩くことにする。この道がまた実によかった。
 山道を下りきると飛鳥川に差し渡された綱が目に入った。
 女綱と言うそうだ。綱の中央あたりにそれらしい形状のものがつけられていた。円さんの説明によると村の境界にあり、村内の安全祈願、豊穣祈願の意味があるとのこと。道祖神、塞ノ神と同義であろうか。
 その綱の下あたりの道路脇には一対の道祖神と、注連縄を張った石があった。
 飛鳥川沿いに下る。田んぼの畦にれんげが咲いていた。

 飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社の下を通る。手元の資料によると、
1.皇極紀にある、「天皇、南淵の河上にいでまして、ひざまづきて四方を拝む。天を仰ぎて祈ひたまふ。即ち雷なりて大雨ふる。遂に雨ふること五日。あまねく天下を潤す」
2.天武紀に、南淵山・細川山の樹木の伐採を禁じた勅が出されている。
3.この神社は遥拝造で、後方の山を拝する形をとっている。
などの理由により、本来、神体山信仰の神社であったろうとのことである。
 南淵山が神奈備山だったと言うことになる。

 関大の飛鳥文化研究所をすぎ、稲渕と阪田の境界であろうか、再び飛鳥川に綱が差し渡されていた。男綱であろう。中央あたりに、男のそれとわかるものがあった。
 このおおらかさがいい。

 川を挟んだ向かいの棚田は有名とのこと。
 僕たちはまっすぐ石舞台方面へ歩いたが、左へ行くとキトラ古墳があるらしい。
 うららかな日和の中、この坂道を散歩するのもよさそうだ。
 飛鳥といえば、石舞台や岡寺などのメインストリートしか知らなかったが、別の面を見ることができてとても良かった。

 気候もよく石舞台、岡寺周辺は人でいっぱい。
 甘樫の丘へ上がって橿原神宮駅へ向かう頃、雨になった。
 しまった。雨具を持って来なかった。人のことは言えない。円さん、DOPPOさん、カズさんはちゃんと折りたたみの傘を。
 仕方がないから、ジャンパーの襟からフードを出して頭に被る。さいわい、その雨もすぐにやんだ。
 
 駅構内の「きはる」で反省会。早く帰って野球を見ると言っていたカズさんも腰を下ろし、晩酌セットにお酒を何本も追加しつつ、次回の山行やら、掲示板のことやらで話は尽きない。
 「ウフッ!」がいいとか、「倍金講座」がいいとか、「長文つぶやき」がいいとか、いろんな案が出たけれども、結局、「チュチュンがチュン!」に落ち着いた。

 古市でDOPPOさんと別れて僕は河内長野行きに乗ったところまでは覚えている。目がさめるとどうやら上本町である。次に目がさめたのは河内長野。古市から河内長野まで行き、それから上本町、さらに河内長野と車内で寝ていたことになる。
 さいわい、時間が早かったのでそのまま乗って、今度はしっかりと起きて富田林で下りた。

追紀:
 DOPPOさんから、上本町ではなく阿倍野橋ではないかとご指摘をいただいた。そうそう、そうだった。あの線は上本町へは行かない。やっぱり寝ぼけていたんだ。(^^ゞ


円さん:高取城址から飛鳥の里

DOPPOさん:No,318 高取城跡と明日香村