「過ぎていく風景」
外はまだ明るく、かすかに海のにおいがした。
湿った風のせいかもしれなかった。満ち潮なのかもしれない。中之島を挟むふたつの川に海水が混じっているのかもしれない。麻子にはなぜかそう思われた。大きく肩で息をして、川沿いに地下鉄の駅へ向う。季節は確実に進んでいて、それは麻子の感覚よりも一二歩早いように思われた。陽のあるうちに会社を出たのは久し振りのことだったけれど、必ずしも麻子の気分を浮き立たせはしなかった。麻子はこれからある画廊に向かうのだ。
柳原由希が会社を訪れたのは十日ほど前の事だった。
「来週、画廊で個展をやるの。ぜひ見に来て、お願い。麻子さんをモデルにしたのもあるのよ」
「えっ」
「じゃあ、よろしくね」
由希は用件だけを済ますとエレベーターに向かった。麻子の手許に「柳原由希個展−蔽われた世界」と書いた絵葉書の案内状が残った。
それほど気が進んだわけでもなかったし、仕事も忙しかったので、ずるずると一日延ばしになっていたが、明日で終わるし、明日は早仕舞いらしい。だから今日しかないのだ。いちおう顔を出す義理があるのかもしれないし、私をモデルにしたと言う絵に多少の興味もないわけではなかった。ただ、モデルとして彼女の前でポーズを取った事はない。それに、彼女と会ったのは、先日を含めて四度しかないのだ。
由希と初めて会ったのは、会社の地下にある洋風居酒屋。昼は食事、夜はお酒。ビルの地下にあるごく普通のお店だ。
上司の平岡に頼まれた仕事で遅くなった日、気を遣ってか「お疲れ。どう?お酒でも」と誘われて座ったテーブルの隣に由希は壁に向かって座っていた。壁側の椅子には大きな布製の袋に入れられたキャンバスがあった。足を投げ出し背もたれに寄りかかって、疲れたような考え事をしているような風情であった。テーブルには飲みかけのビール。
私は壁側に座った。つまり、彼女と対角線に向かい合うことになる。平岡が通路を挟んで彼女と隣同士ということになる。
「いやいや、どうも。おかげで助かったよ。さあ、乾杯」。彼はぐっと一息に飲み干す。
「さあ、飲んで飲んで」。私はまだほんの口を付けただけ。手酌で自分のグラスに注ぎ、肴をみっつほど頼んだあと、ちょっと失礼と言って手洗いに立って行った。
グラス半分ほどを飲み、ソーセージをつまんでいる間、私は彼女から見られていたのかもしれない。視線を感じたのだ。ふとそちらを見やると、由希がじっとこちらを見ている。口元に笑みを浮かべ、彼女は軽く会釈した。
「ごめん、ごめん。さあ飲んで飲んで」
上司はさっそく私に注ぎ足し、自らもぐびりと飲む。
「仕事ってさ、速いからいいってもんじゃない。そりゃ速いほうがいいに決まってる。でもね、確実でないといけない。速いけど間違ってるんじゃ、二度手間になるばかりか、信用がなくなる。時津さんは、その点、速いし確実。私だけじゃなくみんな助かってると思うよ」
「いいえ、わたし、そんなに速くもありませんし、うっかりミスもけっこうあるし」
「そんなことないって」という間に、彼のポケットから携帯のベルが鳴る。
「ちょっと失礼」。彼はまた席を外す。
私はふっとため息をつく。
「せわしない人ね」
となりの彼女が空いた席を指しながら声をかける。
ふふっと微笑みを返す。
「絵を描いてらっしゃるんですか?」
「…。卵よ。永遠に卵のままかもしれないけれど。…彼なの?」
「とんでもない。単なる上司。どうゆうわけか誘われちゃった。たまにはいいかなって」
「あなた、きれいね。とってもきれい」
「ええっ、私がですかぁ。ご冗談を」
とくにお洒落をしているわけでもない。髪だって後ろで括っているだけだ。化粧も濃くない。着るものだってけっして値段の張るものでもない。なるべく自然でありたいと思っているだけ。
「どんな絵をお描きになるんですか」
「う〜ん。静物、風景、人物…。まあいろいろ。売れないのよ、なかなか」
「おやおや、女性同士気が合ってるみたいですね。絵が趣味ですか。いい趣味だなあ」
平岡は席に座りながら、どちらにともなく声をかけた。
「…趣味、…ですか。あくまでも仕事の余暇として、そうゆう意味ですよね、きっと」
「ええ、…違いますか」
「…」
「自らの生涯を賭けて、自らの全人格を賭けて打ち込むものを趣味と言った作家がおりますが、私たち凡人には、なかなかそこまでは行けません。あくまでも土日の、あるいは仕事とは切り離されたオフの時間のストレスの解消、そんなもんじゃないのかなって」
「趣味ねえ…。難しい言葉ですよね」
そう言うと、彼女は伝票を持って「じゃ、お先に」とレジへ向った。
「おれ、なんか変なこと言ったかなぁ。…さあ、飲もう飲もう」
「あ、はい」
「時津さん、休みの日にさ、一日デートしようよ。映画でもいいし、美術館でもいいし。郊外の公園を散歩するのでもいい」
「だめですよ。そんなの。奥さんいるくせに」
「どうして。あなたと仕事を離れて一日ゆっくりしたいんだ。御飯食べたり、お茶飲んだり」
「でも、やっぱり」
「いま付き合ってる人いるの? いや、いたっていいさ。一日デートしようよ」
「平岡さん、もう酔ってるみたいですね。帰りましょうよ」
この平岡には麻子だって好意を持っていた。仕事の範囲ではうまく付き合えていた。でも仕事を離れてとなると別のことだ。お互いそれ以上の気持ちを持ってしまう、そして辛い想いをするのは目に見えている。平岡とはいい関係でいたいと思う。仕事の範囲で気分としては負担にならない程度に。
付き合ってる人? かつてはいたわ。でも今はいない。
二度目は、すれ違った。先に気付いたのは彼女だった。ちょうど去年の今ごろだったような気がする。
「やあ」
「ああ、どうも」
それだけだった。
三度目は、秋の終わり。やっぱりこの会社の近くの路上で。そしてこの時も彼女が先に気が付いた。私はよほど考え事をしていたのかもしれない。
「ねえ、お酒でもどう」と彼女が誘った。すこし気が塞いでいたのかもしれない。
「ええ、いいわ」
私には初めての店だった。彼女は物慣れた気配でカウンターに。
「そうだ、あなた食事まだよね。ここのオムライス美味しいのよ。半分こしましょ」
そういって、厨房にいるマスターに声をかける。
「あいよ〜」
待つ間にビールで乾杯。
「そうだ、まだ名前を聞いてなかったわ。私、柳原由希って言います。よろしく」
名刺には名前と住所だけ。勤め先も書いていない。
「すみません。私、名刺ないんです。時津麻子って言います。どうぞよろしく」
「あさこってどんな字を書くの」
「繊維の麻です」
「これでいいのね」と手帳に書いたものを見せる。
「あ、はい。勤め先は…」と、すぐ近くのビルの名前やら、会社名やら、どんな仕事かなどを言っているうちに、「お待ちどうさん」と、少し小さ目のオムライスが二枚の皿に乗って出てきた。
「あれ、マスター。ちょっと多いんじゃない」
「サービスだよ。美人二人だからね。看板娘ってことでさ」
「ひょっとして一人は看板おばさんって、内心思ってない?」
「そんなことあるもんか、由希さんも充分娘さんだよ。そう言っとかないとしようがないね」
くつろいで軽口をとばす二人に麻子もぐっと気がほぐれるのであった。
「いい店ですね」
「そうでしょ。一人でも来れるわ」
「柳原さん、お勤めは?」
「柳原さんはやめて。由希、あるいは由希さん、わかった。あるようなないような、あはは。画廊にね。定職なのかどうかは難しいところだけど。そこのオーナーがどうゆう訳か絵を置いてくれてるの。で、それだけじゃ正直言って食っていけないからあれこれ雑務係ってとこね。それでもけっこうきびしいんだけど」
「ふうん」
「いつだったか、おたくの上司が言ってたでしょ、いい趣味ですねって。じつはすごく複雑だったの。いい趣味なもんかって。でもね、彼が言うような付き合い方をするものと誰もが思ってる。でも、やっぱり気分としてはすこし違う。それだったら私だってちゃんとお勤めをしてる。正確に言うと三年はやったのよ。父の紹介で。頼むから三年は勤めてくれって。そうしないと俺の顔が潰れるからって。でも、堪えられなかった。やっぱり私は絵を描いて生きていきたいって思ったの。だから、その間は必死に描いたの。そして会社を辞めた。その頃描いたのを学生の頃の先生に観てもらったのね。彼を通して今のオーナーが観てくれたの。で、いくつか預かってくれた。なかば強制的に手伝いもさせられた。まあ、そんなとこ。で、その学校の頃の先生、いまそこのカルチャーセンターでも教えていて、こまごまとしたお手伝いをアルバイトでやってるってわけ。貧乏してるの。麻子さん、結婚は?」
私は首を横に振る。
「付き合ってる彼とかは?」
これにも首を横に振る。麻子はニューヨークに駐在している水島のことを思った。しかし終わった恋だ。
彼がニューヨークへ行ったのはもう四年ほど前になるだろうか。行く前は付き合っていた。好きだった。麻子も一週間ほど有休を取ってニューヨークへ飛んだ。会いに行ったのだ。会社には秘密にした。二人は短い時間の逢瀬を切なく抱き合った。何度も何度も抱き合った。けれど、距離はどうしようもなかった。頻繁な手紙のやり取り、電子メールのやり取りが次第に間隔があき、そしてついには彼から返事が来なくなった。遠いところにいる君のことを思うと切なくてやりきれない、おしまいのメールにはそんなことが書かれていた。その水島も、向こうで結婚するらしい噂である。おおよそのことを由希に告げる。
「吹っ切れるには時間も必要よね」
「由希さんは?」
「私? 私もじつは独身。そうね、結婚はしないわ。たぶん。そうそう、来年の三月になると思うけど個展をやるの。いまはその準備で頭が痛いの」
二人は薄い水割りを飲みながら、それぞれの想いに閉じこもりがちになる。
「でも、由希さんに話してすこし気分が晴れました」
「麻子さんは、そうね、ケレン味のない美しさがある。こうしたらきれいに見えるとか、こうしてきれいに見せようとか、そういうのじゃない美しさがあるわ」
地下鉄を上がって、目印のビルを曲がり路地に入り込んだところにその画廊はあった。由希の姿は見えない。受付で名前だけ記帳する。さほど広いスペースでもなかったが、十二、三枚は掛っていたろうか。総じてくすんだ色合いで統一されている印象であった。そうか由希さんはこんな色調が好きなんだ。しぶいとも言えようか。いくぶん暗い。でも、素人目ながら、たしかにこちらに伝わってくるものは感じられた。
森の中で立ち止まった馬に全裸の女性が乗っている。いかにも遠くに目をやり物思いにふけっている様子である。木漏れ日がやや暗い印象に明るさをもたらしている。
「おや、これかな。顔立ちはたしかに私に似ているけれど。それにしても全裸を描くなんて」
数枚先におそらく自画像と思しきものもあった。最初に会った洋風居酒屋で半ば疲れたように足を投げ出し、椅子に肩肘をついて頭に手をやっている姿勢には覚えがあった。
ビル群に夕日の当たっているのがあった。壁がクリーム色に染まっている。
もう一枚人物を描いたものがあった。ただし後ろ姿である。犬と散歩している後ろ姿が左の大きな川を含む風景のひと齣のように描かれている。その後ろ姿はけっして快活ではない。トータルな印象としてはやはり暗い。雲が騒いでいる。
麻子はもう一度引き返すように見直して行く。そして、全裸の前でじっと立ち止まる。受付の女性が近づいてくる。
「あの、このモデルの方ですよね」
「顔は確かにそうかもしれないけれど。そうなのかどうか」
「柳原さん、もうすぐこちらに来られます。よければお待ち頂けないかとお伝えするようにとのことです。この絵、売れたんですよ。予約された方がおられるんですよ」
「えっ…」
そんなやり取りのあとほどなく由希がやってきた。
「いらっしゃい。来てくれたのね」
「ねえ、モデルって」
「ごめんごめん。これよ。だいぶ私のイメージで描いちゃったけど。裸のって言ったら怒ると思って。これ、売れたのよ」
「…」
「ねえ、お礼にごちそうするわ。そう、来週の今日はどう? 金曜日」
「でも…。ちょっと都合が」
たぶん生理の最中になるはずだ。気が滅入る。
「じゃあ、どうしようかな。そうだ、あさっての日曜、昼間はどう? 私のマンションに来ない? ごちそうって訳にはいかないけれど」
「でも…」
「ねえ、ぜひそうして」
「はい。じゃあそうします。あれ、自画像でしょう? いつか、居酒屋で見かけたときの姿に似てる」
「ありがと。じつはねえ、あれは売れなかったけど。四枚売れたの」
「おめでとうございます」
麻子はジーンズに白いブラウス、セーターにしようかジャケットにしようかと思ったが、結局ジャケットを羽織り、髪は括らずにブラシで梳かした。途中のターミナルの百貨店できんつばを買った。最寄りの駅に着き由希の携帯に電話をする。スーパーで買い物を済ませてこちらに向っていると言う。
「おはよう、いや、こんにちは、かな」
由希は買い物袋を下げている。ゆったりとしたスカート、ゆったりとしたセーター。
「どうも遠慮なく来てしまって」
「散らかしてるけど、がっかりしないで」
由希の部屋は、キッチンにテーブル。キッチンの奥にベッド。ソファ。ソファ用の低いテーブル。どうやらそこが彼女のくつろぐ場所のようだ。
「もうひと部屋あるんだけど、そこをアトリエにしてるの。見る?」
「ええ、ぜひ」
ふたつのイーゼルに掛った描きかけの絵。壁に立てかけられている数枚。壁には目立たない色のカーテンが廻らされている。
その壁に立てかけられた数枚。画材があちこちに。油の匂い。
「ここが現場なんですね」
「ヘタクソなのにネ」
「いや、そんなこと」
「さあ、コーヒーでも入れるわ。目覚めのコーヒー」
「あの、きんつば買って来ましたから」
「まあ、ありがと。あたしもケーキ買って来たんだけど。そうね、きんつばを先にいただくわ。好きなところに座って」
コーヒーメーカーが豆を碾いている。
麻子はしばらく外を眺めている。川が見える。ためらって結局、台所のテーブルに座った。
「川が見えるんですね」
「いつでも見てるわ。ねえ、ボサノヴァ好き? あたし好きなの」
そう言ってステレオのスイッチを入れCDをかける。軽快な音。
きんつばを切り分ける。
「コーヒーカップいろいろお持ちなんですね」
「もらいものとか、ブラジルに行ったときの土産とか。あたしね、ヨーロッパもいいけど、南米とかアフリカとかインドとかもけっこう好きなの。といってあちこち行ったわけでもないんだけど」
コーヒーが入った。麻子にはオフホワイトの地に黄色の大きなひまわりの花。自分のは普段使ってるらしい大き目のマグカップ。これは抽象画ふうだ。
「いらっしゃい」と麻子の前に置いたとき、そっと頬に口付けをした。
びくっとあごを引いた麻子に、
「あはは、気にしない気にしない、挨拶だから。フレッシュないの。牛乳ならあるけど」
「いや、何にも入れないほうが好きだから」
「ほんと? 意見が一致したわね」
聞きなれた曲が耳に入る。
「あっ、これ知ってる」
「いいでしょ? 黒いオルフェ。きんつば、おいしいわ。コーヒーに合うのね。ごめんなさいね。たいしたおもてなしができなくて。ゆっくりくつろいで。あたしは、起き抜けだし。あはは」
「コーヒー、おいしいですね」
「お昼はスパゲティにしようと思ってるの。それとサラダと。ビールもあるわよ」
「ありがとうございます。個展の準備大変だったでしょう」
「まあね。でも、それを何度かやらないと。なかなか認めてもらえないの。でも、今回は四枚も売れちゃった。麻子さんをモデルにしたのは、そうね、何度か会ってあなたから受ける印象。森の中の裸婦って昔からあるんだけど、馬に乗って何か考え事をしてる。そんな情景をイメージしたの。官能的とゆうより、何かきりっとしたイメージを出したかったの」
「恥ずかしいわ。…どこまで描いたら出来上がりって感じなんですか」
「うーん。難しい質問ね。手許に置いてたらなかなか満足しないのよ。だから、売れて自分の手許を離れたときが出来上がりなのかもしれないわね」
「ずいぶん渋いってゆうか、くすんだ色合いがお好きなんですか」
「うーん。結局そんな感じになってしまう。売れる絵を描こうなんて思ったらいけないって、画廊のオーナーが言うのね。私に限らないんだけど、そこは結構若手の絵を扱ってくれるの。誰だって、絵が売れたいと思ってる。でも、そんな絵はつまんないって言うの。だからそんな絵は置いてくれない。自分で本当に納得できる絵を描きなさいって。でも、それで生活はできないの。川を眺めながらいろんなことを考えるわ。あたしこのままなんだかわけわからない状態で老いていくのかもって」
「でも、会社に勤めているから、だからそれがどうしたのってところもあるし。生活が安定することが唯一の価値観でもないでしょうし」
「でも、実際はけっこう辛いものもあるのよ。オー、マイ、ガッ!って。あはは」
由希は鍋に水を入れて沸かしはじめる。
「手伝いますよ」
「そうね、じゃあ、サラダの係りしてくれる?」
「はい」
「グレープフルーツを一個。ラディッシュをスライス。クレソンを千切る。ドレッシングは冷蔵庫。以上」
「はい」
由希はフライパンを出しベーコンを炒める。
「ねえ、にんにく嫌い?」
「ううん、そんなことないですよ」
「じゃ、入れるわよ。そうねふたかけスライスして」
「はい、お姉さま」
鍋にオリーブオイルをひき、にんにくを炒め、そこにトマトのかんづめ、湯むきしたトマトを入れ竹べらで焦げ付かないようにかき回しながら弱火で煮込む。
ほうれん草をさっと湯がいて水にとり、きゅっと絞って四つに切り揃え、再びお湯を沸かす。
ほうれん草をベーコンと一緒に炒める。塩こしょうをして小皿へ。
「スパゲティ、何分になってる?」
「八分」
「じゃあ、タイマーを七分にセットして」
「どのくらい食べます?」
「そうね、三分の一くらい残しておけば」
「けっこう食べるんですね」
「そう?
多い?
じゃ、八分の五にしましょう。黄金分割。うん、究極の美の比率よ。あはは、ちょっと違うか」
「三分の二と八分の五…。あんまり違わないような…。だって二十四分の十六と二十四分の十五でしょう?九十六分の六十四と九十六分の六十。まあ、数本分ぐらいは違いそうですね」
「あはは、目分量でいいんだって。心持ち少な目ってところでいいんじゃない?」
麻子はサラダを盛り付ける。
由希はスパゲティを一本取り出し食べてみる。
「OK、ねえそのざる持ってて」
スパゲティをざるにとり、トマトソースの鍋に。ベーコン、ほうれん草も一緒に入れる。適当にからめて皿に盛る。
「さあ出来たわ。ねえビール出して」
「ホントに飲むんですか」
「そうよ。いけない?」
「いえ、はい、いただきます」
ふたりは向かい合って乾杯。
「スパゲティおいしいわ」
「そう、よかった」
「サラダはグレープフルーツが利いてますね」
ビールと食事でいささか物憂い二人であった。
「ねえ、ソファでやすみましょ」
「それもいいけど、散歩しません? 川のところ」
「いいわよ。天気もいいし」
二人は川沿いの道を口数も少なく歩くのであった。時々肩と肩が触れ合う。
「あそこから河川敷に降りれるわ」
階段を降りると公園のように整備されて、家族連れの姿も見られた。
二人はベンチに腰をおろす。
「いいところに住んでるんですね」
「麻子さんは?」
「新興住宅地。山が近いわ。だから私は毎日山を見てるの。ああ、きょうはきれいに見える。きょうは雲がかかってる」
「私が毎日川を見てるのとおんなじね。あんなにたくさんの水、いったいどこにあるんだろ? だって絶え間なく流れてくるのよ。なんだったっけ、絶えずもとの水にあらず?」
「方丈記ですよね。行く川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず」
「そうそう…。どんなにもがいても結局は流されていくひとすくいの水に過ぎないんだわ。しかも形のない」
「でも、悠久の大地にひとりたたずむだったかな、そんな詩もありますよ」
「ふうん、国語も得意なんだ」
「あはは。これ聞きかじり。山へ数人で行くんですけど、いつだったかお昼のときおじさんに教えてもらったんです。彼曰く、単独で山へ入ると、前にも後ろにも誰もいない。大自然に囲まれてひとりぽつんといる。とっても怖いと思うときもあれば、この素敵な大自然を誰かに見せてあげたいって思うんですって。しびれるって言ってました。でも、そんな感じは単独行でないと味わえないって言ってました。自分は決してワン・ノブ・ゼムじゃないって思うんですって」
「私は、耐え切れるかな?」
二人はまた無口にさっきの道を引き返す。
ソファに並んで腰掛ける。麻子はほっと息をつき天井を眺める。由希は、その頬に唇をつける。麻子の手を握る。麻子はすこしおびえた目でじっと由希を見つめる。由希は唇を重ねる。堅く閉じた唇を舌で舐める。それからうなじ。手はブラウスの上から乳房へ。
「麻子、きれいよ」
麻子は、由希の舌を受け入れた。何度も絡ませる。由希は麻子のブラウスのボタンをはずす。
「ねえ、ベッドにいきましょ」
由希は何度もキスをしながら、ブラウスを脱がす。麻子の太ももに手をやる。ジーンズのファスナーをおろし、指をいれる。
「脱ぐわ。自分で」
二人はお互いを触り合いキスをし合う。由希の体臭が麻子を刺激する。麻子には肌のふれあいが懐かしく思われていたのかもしれなかった。
いつのまにか眠りに落ちていた。気がついたときは由希は着替えてさっぱりとした服装であった。
ベッドの脇に腰をおろし、投げ出された腕をそっと握り、トントンとたたく。
「シャワーでも、どう。さっぱりするわよ」
外はもはや薄暮である。麻子には、今日一日のことがうまく把握できないでいる。
「うん」
ものうく起き上がる。
「汗が引くまで、わたしのパジャマを着とくといいわ」
「ありがと」
バスルームから出ると、冷たいジュース。麻子は台所の椅子に腰掛ける。
「おいしい」
「へへ、特製です。ごめんね、晩御飯一緒にできなくて。実は今夜人に会う用事があるの」
「いいです、そんな。すっかりお邪魔してしまって…。由希さん、…」
「なに?…あたしのこといやになった?」
「…」
麻子は首を横に振る。麻子の頬を涙が伝う。由希は唇でその涙をすくいとった。
「ごめんなさい。はじめてだったから。女の人と…。あの自画像、わたし買おうかな」
「ホント? ありがとう。でも、直接は売れないの。画廊を通してでないと。高いかもよ。無理しないで」
「はい」
二人は夜の空気に頬をひんやりさせながら駅へ向かう。
「また、会おうね。ご飯もごちそうしなきゃ」
「…でも、約束しないでおきましょう。由希さん、あのあたりよく来られるみたいだし、偶然にまたお会いする事もあるわ」
麻子はターミナルへ、由希は逆に向かうホームへ。由希の電車が先に来た。窓からこちらを見ている。お互いに手を振る。
麻子はホームに立ち、きょう一日の事を振り返る。身体がじっと熱くなってくるのであった。
でも…。
「明日、画廊に電話してみよう」
麻子はそう思いながら、ホームに入ってくる電車に乗った。
完