(六)

 僕はポケットから煙草を取り出し、
 「吸っていい?」
 早苗は「仕方ないわね」って表情でにっと唇を引く。右頬にえくぼができた。
 「そっか、じゅじゅさんが学生の頃、私はまだ小学生だったんだ」
 「今でもそうだってわけじゃないんだし」
 「じゅじゅさんが中学生の頃、私が生まれたんだ」
 僕はふとクラブ活動を終えて刻々と変化する茜色の空を眺めながら長い通学路を歩いて帰った日を思い出した。
 「その頃は僕は九州の片田舎にいたなぁ・・・。そうかぁ、小学生の僕が世界中を探し回っても、あなたはこの世に存在しないんだ」
 早苗は小首をかしげる。
 「一方、あと三十年もすれば、あなたが世界中を探し回っても僕はこの世に存在しない」
 早苗は再び小首をかしげた。
 「なんだか『スプートニク』を思い出すわ。・・・でも探す必要はないわ。心の中にいるんだもん」
 僕はじっと早苗を見つめた。

 「もう二十年になるかな、今の所に越してきて。それからずっとあの電車で通勤してる。早苗さんは?」
 「はい、生まれて以来ずっと今のとこ。中学は歩いて。高校の時は自転車だった。電車でも通えたけど、そのほうが不便だった。だから大学に入ってからですね、電車で通うようになったの。何年になるかしら? あはは、もうだいぶなりますね」
 「たとえば一本違っていても、あるいはおんなじ電車でも乗る車両が違えばめぐり合うことってなかったんだなって、最近思ってる」
 「おんなじ車両に乗ってたって、毎日顔を合わせてたって、こうして会って話をすることになるともかぎらないですよね?」
 「ほんとそうだね。大阪に何百万人の人がいるのか知らんけど、あの線を利用してる人が何十万人いるのかも知らんけど、その中でめぐり合うんだから、奇跡に近いよね。僕たちは赤い糸で繋がってるのかもよ」
 「・・・」
 早苗は深いため息をついた。

 「ねえ、休みの日、どっか行こうよ。ドライブでもいいし」
 「・・・。うれしいけど・・・」
 「どっか行きたいとこない?」
 「・・・。ねえ、各停で帰りません? たぶん座れるし、もっと話ができるし」
 「うん、いいねえ」

 喫茶店を出て改札へ向かう曲がり角で早苗の胸が僕のひじに当たった。
 いちばん端っこのホームから各停は出る。
 僕たちは肩が触れるくらい近づいて歩いた。
 ほぼ真ん中の車両の連結部に近いシートに並んで座る。

 「そういえば、あの日ずいぶん酔ってましたね。よく飲むんですか?」
 「いやそうでもない。あの日はたまたま誘われて。そうそう、上六にさ、月一か二ヶ月に一度くらい、もう例会になっちゃったけど、飲みに行くお店があるのね。一度そこで飲もうか?」
 「例会って?」
 「へへ。ネットで知り合ったんだけど、ちょくちょく一緒に山へ行く仲間がいて。初めの頃はあちこちで飲んでたんだけど、結局そこが定席になった。焼酎の品揃えがわりと豊富でさ。みんなまたよく飲むんだ、これが」
 「じゅじゅさんが一番よく飲むんでしょ?」
 「そんなこともないと思うけど。ただ、よく乗り越しちゃんだよね」
 「あはは」
 「河内長野だったらまだいいけどさ。三日市とか橋本とか。もう帰りの電車がないんだよね」
 「どうするんですか? そんなとき?」
 「そりゃあタクシーで帰らないと仕方がないけど。橋本のホームのベンチで寝てて寒くなって目が覚めて、結局始発で帰ったこともあるなぁ。夜中になるともうタクシーもいないんだよね。三日市で国道に出るつもりで歩いててどこをどう間違ったのか、何か住宅地に迷い込んで、バス停のベンチで寝てたこともあったなぁ」
 「酔っ払いなんや」
 「でへ」
 「あんまり飲めないけど。でも、そのお店行ってみたい」
 「うん、行こ。行こ」

 電車が動き始めると早苗は先ほどの本をかばんから出した。表紙を眺め、それから読むでもなくページを捲る。
 「山崎正和さんって劇作家でしたよね?」
 「そうね。『世阿弥』も読んだような気がする。阪大の先生してたんじゃなかったかな? いつだったかフェスティバルホールで見かけたことがあった。丸谷才一との対談がいくつか出てるけど。鴎外のことを書いた評論『鴎外 闘う家長』、あれは良かった」
 「たしか『不機嫌の時代』も?」
 「ああ、そうそう。難しくて、たぶん最後まで読み通さなかったような気がするなぁ」
 「じゃあ、これ、お借りします」
 「どうぞどうぞ。急ぎませんから」

 早苗は再びかばんに仕舞う。
 僕たちは肩を寄せ合って電車に揺られた。
 僕は耳打ちする仕種でそっと早苗の髪に唇を触れた。



 (七)

 次の駅で、電車は特急と急行の通過待ちのために約5分間停車する。
 「外へ出ようか?」
 空いている各停だから席を外しても、また座れる。
 僕たちは、ホームのベンチに腰掛けた。
 前に組んだ早苗の手を握ろうとすると、
 「そうだ、京都の・・・行った・・・?」
 特急が猛スピードで通過する。声が聞き取れない。
 「えっ?」と耳を近づける。早苗は手を添えて、
 「京都の鷹ヶ峰、行ったことあります?」
 早苗の息がかかり、唇が耳に触れた。
 僕はドキドキして早苗を見つめる。
 「えっ? ああ、光悦の?」
 「ええ」
 「いや、ないなあ。京都はあんまり詳しくない。光悦、好きなの?」
 「そうでもないけど。自由かなって」
 「実物見たことないなぁ。写真では、よく長次郎と対比して載ってたりするよね。たしかに面白い形してるのあるよね。長次郎は見たことあるような気がする。どこだったかなぁ・・・。たぶん香雪美術館だったかな?」
 「ああ、たしか御影の?」
 「そうそう。たまたま義理の姉夫婦が近所に住んでて、そう言えばって、見に行った。長次郎ってすごく内面的な感じがする。光悦はどちらかと言うと自分自身を主張してるような感じかな?」
 「詳しいんですね」
 「ぜんぜん、そんなことない。あくまでもイメージ」
 「楽美術館もありますよ」
 「それも京都?」
 急行が通過する。
 「ええ」
 僕は顔を近づけ、
 「じゃあ、行こうよ。鷹ヶ峰も楽美術館も」
 
 急行が通り過ぎて、早苗は腰を上げようとする。
 「もう一本待とう」
 ドアが閉まり、電車は去って行く。
 薄明かりのひと気のないホームに、僕と早苗だけが残された。
 早苗は、肩でホッと息をつく。
 僕は早苗の髪に触れる。早苗はこちらに顔を向ける。
 僕たちはそっと唇を合わせた。
 僕たちは手を握り言葉を交わすこともなく、僕は薄明かりの向こうの暗闇に目を凝らした。早苗はやや伏目がちだったか。
 「つらい思いをするだけなのにね」
 電車が来ると、「さぁ」と早苗が先に立ち上がる。
 車中、体を寄せ合い早苗は目を閉じた。ついには眠ってしまったのかと思われた。
 駅に着くと僕は彼女の太ももをつついた。目を開け、
 「じゃあ、おやすみなさい」
 早苗はドアが閉じるのも待たずに手を振ると階段を上がって行った。

 帰宅すると、メールが来ていた。

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 件名:おやすみなさい

 きょうはいっぱい話をしたせいか、ずいぶん疲れてしまいました。
 でも、とっても楽しかったです。

 おやすみなさい。

 早苗

 そうだ、鴎外で思い出しましたけど、『雁』、読みました?
 まだだったらお貸しします。
 好きな小説のひとつです。
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 すぐ返事を書いた。

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Re:おやすみなさい

 こちらこそとっても楽しかったです。
 鷹ヶ峰、楽美術館ぜひ行きましょう。

 『雁』、読んでません。(^^ゞ
 読んでみたいです。

 じゅじゅ
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 それから僕はゆっくりと湯舟に浸かった。


 (八) 早苗の独白 その一

 男の人に興味がないわけでもありませんし、お付き合いの経験もないわけではありません。でも、ちょっと面倒くさいというか、やっぱり臆病なんでしょうね。だから、経験と言っても、ほんのすこしのことであんまり面白くもないのですが・・・。

 兄に親友がいました。関さん、関健造さん。学生時代からの友人で、ちょくちょくうちにも遊びに来ていて、山にも二人でよく行ってました。
 私が二回生のときでしたから、兄が就職して二年くらいの頃だったでしょうか。
 二人で汗臭い格好で帰って来て、
 「おい早苗、風呂沸かせ。ビールは?」
 なんてえらそうに言います。
 母が用事でいませんでしたので、「やれやれ」って、私がお風呂を沸かして、ビールと言っても、父はもう他界しておりませんでしたので飲むのは兄しかいません。買い置きがあるわけでもなく、酒屋さんに冷えたのを持ってきてもらいました。肴は冷蔵庫の中のものでそれこそ適当に。
 飲みながら、きょうはどうだった、次はどこそこへ行こうなんて話です。早苗、お前も飲め飲めって、結局三人でいろいろ話をしたことがありました。と言っても私は聞き役ですけど。兄が、さかんに言います。
 「健造、妹を飲みに連れてやってくれ」と。
 健造さんは、何度もうちに来ていましたから私も気兼ねがありませんでしたし、母もお気に入りでした。明るくて屈託のない人でしたね。話題も豊富でした。
 あとで考えると、兄はどうも私と健造さんを何とかと思っていた「ふし」がありますね。
 健造さんは、本気なのかどうか、「おお、早苗ちゃん、飲みに行こうな」って言います。
 私はただ、「あはは」って笑ってましたけど。

 そしたらひと月もしないうちに本当に飲みに行くことになりました。たしか、兄の転勤が決まっていたので、それまでにってことで誘ってくれたんだと思います。義理堅い人です。
 どんな話をしたのか忘れてしまいましたが、たぶん専攻のこととか、最近どんな本を読んでるかとか、そんな話ではなかったかと思います。関さんの方が兄より勉強家でしたから。二人だけで飲むとなると幾分照れもあり、すこし堅い話になったのかもしれません。
 飲むだけ飲んで、食べて、
 「もう一軒行く?」
 「いえもう、ずいぶん。どうもごちそうさまでした」
 「じゃあ、気をつけて」
 って、礼儀正しくさよならをしました。
 健造さんには、親友の妹だからと言う気遣いもあったのだと思いますし、私もまだ学生でしたし、先のことなんてまだまだ考えられなかったです。
 帰宅すると、兄は「なんだ、もう帰って来たのか?」ですって。

 兄が転勤でうちを出たのはそれからほどなくでした。健造さんもそれからうちに来ることもなくなりました。もう十年、いやもっとになりますね。
 兄の結婚式のとき一度お会いしただけです。
 兄から漏れ聞く限りでの消息は存じておりますけれど、まあ、それはここでは伏せておきましょう。
 そうですね、いまお会いしたらどんなふうに思うでしょうか。

 就職して、長くお付き合いしていた人がいます。もの静かな人でした。
 美術館、博物館はあちこち行きました。奈良や京都などもよく歩きました。
 お部屋へも行ったことがあります。すごく几帳面な人で、私なんかよりきちんと整理整頓されててびっくりしたことがあります。
 結婚の話もありました。でも、どうもふんぎりがつかなかったですね。
 
 お茶を習いはじめたのは別れてからのことですが、彼の影響もたぶんにあったのかもしれません。


 
(九) 早苗の独白 その二

 重々さんに気がついたのはいつ頃だったでしょうか。そう、秋になってたと思います。
 眠たそうにぼんやり外を眺めるような、考え事をしてるような。時には本を読んでおられました。たまたま、彼の隣に立ったことがあり、何を読んでるのかなって覗いて見ると、かぎ括弧がいっぱい付いててどうやらドラマの脚本みたいでした。そのとき彼はまだ私に気がついていなかったと思います。
 そうですね。重々さんには、生活の匂いがしない、そんな印象を持ちました。目の前のことが彼には現実ではないって言いますか、そんな印象ですね。
 いったい何を考えてはるんやろ? 重々さんにとって現実って何なんやろ? そんな興味はありましたね。
 それと、そうですね。毎朝お見かけしていて、重々さんの前では素直な自分になれそうな気がしました。お会いして話をしてみて、話そのものは堅くなっちゃいましたけど、素直な自分でいられたと思います。
 もし許されるのなら、もっともっと一緒にいたいです。・・・でもね・・・

 
 (十)

 翌朝いつものように電車に乗ると、早苗もまたいつものようにホームに並んでいた。窓を通して目が合い、挨拶をかわす。ラッシュ時のことであり、なかなか隣りに並ぶこともできないが、僕はむしろその方がいいと思っている。朝から、若いカップルが一緒に電車に乗っている様子は必ずしも快くないからだ。
 ターミナルで早苗が先に降り、ホームで待っていた。
 「やあ、おはよう」
 「はい、これ」
 早苗は、薄い文庫を手渡した。
 「あ、さっそくありがとう。読ませてもらうわ」
 「じゃあね」
 早苗は、ホーム中ほどにある階段を下り、下の改札を抜ける。僕は、ホームの端の改札を抜ける。

 地下鉄に乗ってその文庫を開く。
 「えっ、ずいぶん字がちっこいやん。明るいところで読まないと見えんぞ」
 目にだけは自信があったけれど、年相応になってきているのだ。


 会社へ着くとすでに大沢部長が来ていて、
 「よお、じゅうちゃん、おはよう」
 「おはよございまーす」
 「なんだよ、そのけだるい挨拶は。そうそう、じゅうちゃん、ちょっとちょっと」
 と、某得意先の名前が記された2冊のファイルを持って僕をミーティング・ルームに誘う。
 「単刀直入に言うけど、ここオレが行ってるじゃん」
 「ええ」
 「ところがさ、じゅうちゃんご存知のように出張がちょくちょくあって、なかなか定訪できないんだよね」
 「なるほど、そうゆうことか」
 「さっすが、じゅうちゃん、ベテランだけあって察しがいいねえ」
 「週一?」
 「そう、週一。でね、いろいろ考えてみたんだど、水曜日のじゅうちゃんのコースにくっ付けられるんじゃないかな? じゅうちゃんだったら安心して任せられるし」
 「よくゆうよ。部長、ご冗談を。目が笑ってるって」
 「いやいやいや、ほんとだって」
 「ま、しょうがないですね」
 「じゃ頼みます。引継ぎ、今日行こうか。水曜日だし」
 「え? 今日?」
 「そうだよ。何時に出る?」
 「じゃあ、9時半、いや9時45分にしましょうか」
 「OK。よろしくね」
 「やれやれ」
 かくして、部長が持って来た2冊のファイルを僕がミーティング・ルームから持って出ることになった。
 出かける準備をしながら、
 「なるほど、この前のお酒はこの伏線だったわけね?」
 「違う違う、オレはそんな策士なんかじゃねえよ。酒は酒、仕事は仕事」
 「ほんまかいな。深謀遠慮やな」
 「なんだよそれ。どんな字を書くんだよ?」
 「えっ?」
 「遠慮なんかしてねえって。遠慮してたら頼まないって」
 「は?」

 コーヒーを淹れに席を立つと若い女の子が小声で、
 「大沢さん、深謀遠慮って知らないのかな?」
 「さあ・・・」
 「熟語の試験によく出るのにね」
 「あはは、でも、短刀直入は知ってたよ」
 「タントーチョクニュー。ありましたね、そんな熟語。どんな意味でしたっけ?」
 「ほら、ヤクザ屋さんがさ、例えば健さんの映画とかでさ、懐に入れてる短い刀、ドスってゆうんだけど、あれでさ、問答無用でブスって刺すやん。転じて、相手に有無を言わせず物事を押し付ける、の意」
 「へえ〜、そうだったんですか。なんか物騒な語源ですね」
 「あはは、ほんまやね」

 「おーい、なにやってんだよ、行くぞ」
 「へえへえ」
 僕はポットの前で残りをぐっと飲み干した。


 
(十一)

 大沢部長は、今年の一月、東京から単身で大阪へ来た。
 小さな会社なのに、営業統括本部長という肩書きで本社へ来たのだ。
 社内の情報通によると、東京では某女性(仮にM子としておく)と不倫をしていたらしく、それは公然の秘密だったらしい。昨年末のことだ。
 「へぇ〜、M子と? そうなの、全然知らんかった」
 僕は社内事情にだいたいにおいて疎い。興味もあんまりない。
 「それで大阪へ?」
 「うん」
 「それはいかんわ。いかがなものか。よくないで。気の毒や。だいたいやな、恋愛なんてきわめて個人的な事柄なんやから、会社がそれに首をつっこむのはいかがなものか。知らん顔をしておくのが節度ある態度っちゅうもんやで」

 部長とはすぐに打ち解けた。ウマが合った。僕は「冗談を言い合う係り」を与えられているのかもしれない。社内の風通しもずいぶんよくなった。
 
 会社を出てすぐ高速に乗る。
 「大沢さんも大変ですねぇ」
 「五十何年も生きてたらいろんなことがあるって」




早苗(一)〜(五) (十二〜)