石上神宮のフツノミタマと高倉下
(本稿は、井上筑前守さん主宰の同人誌「風の中へ10号」(2009)に投稿したものに、若干加筆訂正した)
                              (Mar.20, 2011)


 
(はじめに)

 古事記に次のような記述がある。

・かれ、カムヤマトイハレビコの命、そこより廻り幸して、熊野の村に到りましし時に、大きな熊、ほのかに出で入るすなはち失せぬ。しかして、カムヤマトイハレビコの命、たちまちにをえまし。また、御軍もみなをえて伏しぬ。この時に、熊野の高倉下(たかくらじ)(こは人の名ぞ)、一ふりの横刀をもち、天つ神の御子の伏しませる地に到りて献りし時に、天つ神の御子、すなはち寤め起きて、
 「長く寝ねたるかも」と詔らしき。かれ、その横刀を受け取りたまひし時に、その熊野の山の荒ぶる神、おのづからにみな切りたふさえき。しかして、その惑ひ伏せる御軍ことごと寤め起きき。かれ、天つ神の御子、その横刀を獲しゆゑを問ひたまへば、高倉下が答へて曰ししく、 「おのが夢に云はく、天照大神・高木神の二柱の神の命もちて、建御雷の神を召して詔らししく、『葦原の中つ国は、いたくさやぎてありなり。あが御子等、不平みますらし。その葦原の中つ国は、もはらいましの言向けし国ぞ。かれ、いまし建御雷の神降るべし』とのらしき。しかして、答へ白ししく、『あは降らずとも、もはらその国を平らげし横刀あれば、この刀を降すべし』とまをしき(この刀の名は、佐士布都の神といひ、亦の名は甕布都の神といひ、亦の名は布都の御魂。この刀は、石上の神の宮に坐すぞ)。(下線は筆者)

 神武東征時の熊野における一節である。本稿では、
・第一部:石上神宮の布都の御魂とは何か
・第二部:高倉下とは何者か
について検討する。
 結果として北部九州勢力の東進が浮き彫りにされることと思う。
 神武東征についても触れざるを得ないが、やっかいな問題を含んでいるために、最後に追記として、「神武東征とは何か」についての問題点を指摘するにとどめたい。


第一部:石上神宮の布都の御魂とは何か

 
(一)石上神宮の布都の御魂について。

 明治7年(1874年)、石上神宮宮司、菅正友は教部省の許可を得て、石上神宮禁足地を発掘する。石上神宮は拝殿、神庫こそあれ、本殿がなく、この禁足地が高庭・神籬・御本地・神の御座・霊畤などと言われ、いわゆる聖地であった。本殿を伴う以前の祭祀場、つまりより古い祭祀形態が残されていたと考えられる。大正時代、禁足地近くの池から土師器高杯と須恵器高杯が出土していて、古墳時代中期、五世紀の前半代と推定する学者(竹谷俊夫)もいるようである。そうすると、三輪山に大物主が祀られるのは、同じく出土している須恵器の年代から五世紀後半と考えられているから、石上神宮の方が大神神社より創祀時期はやや早かったことになる。宗像大社の高宮にもその祭祀形態が残っている。

 石上神宮の禁足地は奥行き(南北)約10間(約18.2m)、幅(東西)約24間半(約44.5m)の長方形である。この禁足地の正中にひとつ、拝殿から見て正中の左右奥にひとつずつ、併せて三つの小円丘があった。(ただし、この小円丘がいつからあったか、いつ小円丘下に御神体を含む宝器が埋納されたかは不明である。出土物には平安期のものも含まれているから再埋納したのか、平安期以降に小円丘が成立したのかは不明である)

 「石上振神宮二座」から、一部を引用し、その経緯および神宮そのものを概観しておこう。

■祭神
 ・建布都大神(フツノミタマ)
 ・布留御魂神(天璽瑞宝十種)

■神宮
 石上邑之地底、以磐石為境、作地石窟、以布都御魂横刀、(左座為東方)、天璽瑞宝十種、(右座為西方)、同共蔵焉、其上高築地、謂諸於高庭之地、人皇第七十二代白河院太上天皇御世、(未詳年紀)、有勅、高庭之前立拝殿、今之神殿是也、

 高庭之地當神器之上、設磐座立神籬、拝−祭建布都大神・布留御魂神也、以建布都大神奉斎東座為第一焉、布留御魂神奉斎西座、謂之霊畤、而無神殿、所−以為東上者、我邦尚故也

 素戔烏尊斬蛇之十握剣、名曰天羽羽斬、亦曰蛇麁正、称其神気曰布都斯魂神、
 旧事本紀曰、素戔烏尊断蛇之剣、今在吉備神部許也、神名帳曰、備前国赤坂郡石上布都之魂神社一座、亦曰、断蛇之剣、号曰蛇之麁正、此今在石上神宮、神代巻無神宮二字

 天羽羽斬、自神代之昔至干難波高津宮御宇天皇(謚曰仁徳為人皇十七代)、五十六年盂冬己丑朔己酉、物部首市川臣、(布留連祖)、奉勅、遷−加布都斯魂神社於石上振神宮高庭之地

 高庭之地底石窟之内、以天羽羽斬加−蔵干布都御魂横刀左座、(為東方)、是布都御魂横刀為中央之故、當其神器之上設霊畤、拝−祭布都斯魂神、為加祭之神
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 上記引用と重複箇所もあるが、「石上布留神宮略抄」も一部を引用する。

 當宮ハ南向ニテ三座也、中座ハ建布都大神也、左座ハ布都斯魂神也、右座ハ布留御魂神也、

 ○中央座建布都大神ハ、武甕槌尊(常陸国鹿島大神并大和国春日第一殿所祭神是也)帯之平国之十握剣之神気之御名也、此神剣号[フツノミタマ](此言布都御魂)剣刀申、亦甕布都神トモ、或ハ佐士布都神トモ申、(中略)熊野神邑(今那智即是也)ニ到給、其処熊野高倉下ト云者、霊夢告依、我庫之内天降[フツノイタマ]剣刀取テ、皇孫尊ニ献上ル(中略)(高倉下命者天火明命之孫天香山命之子、即尾張連等遠祖也)

 ○右座(西方)布留御魂神ハ、宇摩志麻治命之先考、櫛玉饒速日尊ノ、天上ヨリ受来ル天璽瑞宝十種神気ノ御名也

 ○左座(東方)ノ布都斯魂神者、素戔烏尊之、天上ヨリ帯テ降レル十握剣ノ神気ノ御名ナリ、此剣、昔者天蝿斬ノ剣ト申、彼出雲国簸ノ川上ニ、人ヲ呑八岐大蛇有ヲ、素戔烏尊、天蝿斬剣ニテ寸々ニ斬給フ時ニ、蛇ノ尾ニ至テ剣ノ刃缺ヌ、韓鋤(カラサビ)ニテ擘テ、視スレハ、尾ノ中ニ一ノ宝剣アリ、乃天照大神エ上献ル、所謂天叢雲剣是ナリ、彼ノ蛇ヲ斬ル剣ノ名ヲ改テ、蛇ノ麁正トモ、又ハ天羽々斬トモ云テ、神代ヨリ今ノ備前国赤坂郡ノ吉備津宮ニアリ、人皇十七代仁徳天皇即位五十六年(戌辰)十月二十一日(甲辰)ニ、霊夢ノ告ニ依テ、春日臣ノ族市川臣ニ勅シテ、天羽々斬剣ヲ石上布留ノ高庭ノ地エ遷シ加エ蔵斎奉ル、今ノ布都斯魂神是也、布都御魂神ト布都斯魂神トハ連枝ニテ、竝テ天尾羽張神ノ分神トナリ、

 ○伝聞、白河天皇永保年中ニ、勅シテ神門ヲ改テ拝殿ヲ作ラル
 
 ○神府(亦曰神庫)
 神庫ハ、昔者高庭ノ地ノ左右ニ有、古来諸氏家ヨリ献上ノ神宝ヲ納ラル、天武天皇御世ニ及、其氏子孫ニ帰下サル
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 石上神宮にはもともと二座祀られていた。神武東征の際、高倉下によって献上された建布都大神(フツノミタマ)と、饒速日が天上から降臨する際に携行した布留御魂神(天璽瑞宝十種)である。後に、素盞嗚が出雲国簸ノ川上で八岐大蛇を切った十握剣が備前国赤坂郡石上布都之魂神社に安置されていたのを石上神宮に遷し三座を祀ることになった。白河天皇の御世、神門を改めて拝殿を作った。神庫は昔は高庭(禁足地)の左右にあった。その神庫には諸家から献上された神宝も納められていたが天武の御世にその氏の子孫に返された。

 大意このようなことが書かれている。なお、現在は神庫はひとつ、西側にのみ残っている。

 菅政友はまずこの正中の小円丘を発掘する。

・古来ヨリ神剣祟リあるニ付、石櫃ニ納メ、此中ニ埋メ候趣、伝説御座候所

 とあるように、正中の小円丘の下に神剣が埋められていると言う伝承はあったようである。天保年間に一度盗掘に遭い、その時出土した「青色ノ管玉」は「神庫ニ納メ有之候」。

 では、禁足地正中の発掘の様子を見てみよう。二つ引用する。
 まず、菅正友が書いた報告文。

・一封土ハ拝殿後正中壱丈許リ後ニテ高サ二尺八寸余、中央ニカナメノ木直株有之(太サ弐尺五寸埋候時植シモノナラン)石平地ヨリ下凡壱尺余ニ至レバ一面ニ瓦ヲ以テ之ヲ蓋ヒ、壱間半四方許モ可有之歟、尺或石余ノ石ヲ積重境界ヲ成シ候様子ニ御座候。(中略)鋒端東ニ向ヒ剱一振出現、此ハ折損シ候所モ無之、其他刀剣様之物一切無之候間、伝説ノ如ク之剱[フツノミタマ]霊ナルコト疑フベキニアラネバ、云々。」

 この神剣のほか、勾玉11個、管玉251個、丸玉、矛の折、などが出土し、神剣は菅政友によってフツノミタマと断定され、御神体として現在本殿に奉祀されている。(『日本の神々 4:大和』)

 次に、菅正友が教部省栗田寛に宛てた書簡。

・此丘上、正中ニ廻リ二尺四五寸程の方言カナメト称シ候木有之。則堀(ママ)除キ、地下一尺余ニ至レハ、瓦ニテ順序ナク一面ニ蓋ヒ、尺或ハ尺余ノ石ニテ界をナシ候サマナリ。凡方壱間半許、深サ三尺余ノ所ニ、勾玉管玉等土石ニ交リ有之。其数大小二百八九十箇。皆浅緑色ニテ、其内ニ細キ管玉ハ、太キ管玉ノ穴ニ指込ミタルモノ、三箇御座候。勾玉ハ何レモ石質管玉ヨリ美麗ニテ、浅碧色ナル白キ斑文アル、又至而透明ナル。皆穴ノ所ニ糸ノ懸リ之様ノ筋、三ツ罷有候。緑石ノ奇ナル形ニテ、不可名状者(此ハ略図ニテ御届ケ申候)。又胴ノ小手ノ甲ノ如キ者一ツ、冑ノシコロノ腐候如キモノ二枚(此ハ細ニ折タリ)。小鈴ノ金ヲキセタル者一箇、煕寧銭一文、其ノ外ニハ鉄ノ腐タルモノ少々有之候へ共、刀剣桙(ママ)様ノ者ニハ無之。刀剣類ハ神剣ト桙(ママ)ノ外ニハ絶テ無之候。鉾ハ四ツニ折タルヲ集メ候ヘハ、一尺五六寸モ可有之歟。扨神剣ノ出タル円丘ノ正中ノカナメノ樹ヨリ三尺許、東ニ鋒端ヲ東南ニナシテ斜ニ有之。尖ノ方ニ木一株生タリ。玉ノ出タルヨリハ少々浅ク地下二尺余ノ所ニテ、石ヲ重ネタル間に身ノマヽニテ有之候。土中ニ数百年埋リタルニシテハ、物打チニ少々腐込タルト、柄頭ノ環ノ如キモノ半ハ損セシ様ナルトノ外ニハ、損セシ所モ見エス。尤サビ深ケレハ片刃ハ分明ナレトモ片方ヨリ刃ヲ付シカ、両方ヨリ付タルカ、詳カナラス候。其埋メタル体ヲ想像仕候ニ、俄ニセシコトト見エテ如何ニモ麁略ナル事ニ御座候。神剣モ其時ニハ箱ナトニ入タルカ、遂ニ其箱ノ朽タルナラン。正中ニ埋メヌハ、前ニモ御届申上候通、発掘ヲ恐レタルナラン歟。地下ニ至テ浅ク、殊ニ、柄ノ方ト鋒端ニ相対シテ木ヲ植タルモ、後ノ目印ナラン。サレト打続キタル乱世ニテ、堀(ママ)出スヘキ時節モナク、取扱候者モ父死シ子継キ子死シ孫継キ、イツシカ其伝ヲ失ヒテ、遂ニ今日ニハ至リシナラン。(以下略)(藤井稔『石上神宮の七支刀と菅正友』)
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 禁足地正中の小円丘に二尺五寸程の木が植えてあった。その地下一尺ほどのところが瓦で覆われていて、一尺ばかりの石があった。一間半四方を三尺ほど掘るとすべて浅緑色の勾玉・管玉が大小289個。勾玉は管玉より美麗で浅碧色の中に白い斑文があったり、透明なものもあった。また、胴ノ小手ノ甲ノ如キ者、冑ノシコロノ腐候如キモノ、小鈴ノ金ヲキセタル者、煕寧銭も出土。

 神剣は正中のかなめの木から三尺ほど東に鋒端を東南に向けて斜めに埋めてあった。先端には木が一株植えてあった。正中の玉類よりは浅く、地下二尺ほどであった。石を重ねた間に身のままで埋納されていた。物打ちが少し腐込んでいて、柄頭の環が半ば損傷していたが他に傷みはなかった。埋納の仕方は急いだようで粗く丁寧ではなかった。埋納時には箱に入っていたかもしれないが、その箱も朽ちてしまったのだろう。正中からややずらして埋めたのは盗掘を恐れたからだろう。鋒端にも木を植えたのは後に掘り出す際の目印だったろう。しかしながら乱世が続きいつの間にか忘れ去られたものと思われる。

 おおよそこのようなことが書かれている。

 菅正友がこの剣をフツノミタマと考えたのは、まず正中に埋納されていたこと、正中にはこの剣以外には刀剣の埋納がなかったことによる。
 私もその通りだと考える。そのことについては後に再度触れる。
 また、菅はその神剣の寸法も書き残している。括弧内は換算値。

■神剣

身ノ長サ
 二尺二寸五分 (68.18cm) ハバ一寸二分 (3.64cm)
 刃ノ方へソリアリ其ソリ四五分バリバカリ (1.21cm〜1.52cm)


 四寸二分 (12.73cm)
柄端ノ環
 横一寸七分
 縦一寸二分 (3.64cm)

全体の長さ 84.55cm

 この形状は刃の方へ内反りのある素環頭大刀である。
 読売新聞のサイト、YOMIURI ONLINEに以下の文章があった。
(2011年3月19日現在、残念ながらリンク切れだった)
http://osaka.yomiuri.co.jp/tokudane/td70115a.htm
「水戸学の心意気 歴史研究に没頭」
・政友が作らせた、出土した神剣の木製模造刀を見せてもらった。長さ88センチの素環頭太刀で、反りがあった。

 フツノミタマはご神体であるから本物はまず見ることができない。幸いにも木製ではあるがレプリカを作っていて、それを見た記事である。

 次章でこのフツノミタマがいつ頃のものか考えてみるが、その前に石上神宮が所蔵するその他の刀剣三本をみておこう。

 禁足地は1878年にも、正中小円丘の左右奥にある二つの小円丘も発掘されていて、素環頭大刀、鉄剣が出土したことになっているようである。が、これについては資料そのものにやや不明瞭な点がある。と言うのは、左右いずれの小円丘から出土したものか不分明なのであるが、「神宮明細帳」には1878年出土として書かれていて、その形状も記されている。また、『古器彙纂』には「明細帳」に記された寸法とほぼ等しく図も載せていて、「此古剣三本寸法如明治十一年五月正殿幣殿新築ニ付地形取直シ土石入替之節発顕右者明治七年発掘之際見残シ之分ト見へ依之唐櫃ニ入為後年神庫ニ納ム」とあるから、小円丘下からの出土であることは間違いなく、比較の資料として重要な意味を持っている。まず、図を示す。

藤井稔『石上神宮の七支刀と菅正友』(吉川弘文館)より

 その三本とは以下のとおり。

A・四尺一寸六分の直刀 126.05cm
B・二尺六寸一分の剣 79.08cm
C・三尺一寸五分の素環頭大刀 95.45cm 内反りあり。

 Aの直刀については四世紀前半から半ばの紫金山古墳から同等の直刀が出土している。
 Cの素環頭大刀については四世紀半ばから後半の東大寺山古墳から同等の素環頭大刀が出土している。

 正中小円丘出土の素環頭大刀の年代については次章に譲るが、上記よりも短いにもかかわらず正中に埋納されていたことを考えると、祀る者とよほどの由縁があったものと思われる。正中の小円丘に埋納されていたことも勘案して、菅正友はこれをフツノミタマと考えたのである。穏当なところだ。

 石上神宮は、物部氏によって祀られ、時の大王から神宝、神剣類の管理を委託されそれらは神庫に納められた。禁足地そのものは、出土状況から考えると、あくまでも物部氏の私的な祭祀施設として存在していたと言うことができる。

 なお、このAかCのいずれかが、岡山県の石上布都神社から遷された布都斯魂であり、饒速日によってもたらされた布留御魂になるはずである。

【追補】
 2009年7月11日、友人と岡山県赤磐市の石上布都魂神社へ行き、宮司の物部忠三郎様から、木製だが布都斯魂の模造刀を見せていただいた。素環頭大刀である。したがって上記Cが布都斯魂と言うことになる。下記にその写真を載せる。

岡山県赤磐市 石上布都神社所蔵 布都斯御魂模造刀

 次章以降で、素環頭大刀の列島における弥生期から古墳時代前期・中後期出土、及び中国、朝鮮半島出土を概観し、石上神宮のフツノミタマの年代、製作地を検討する。



(二)石上神宮のフツノミタマの年代について―資料編
(三)石上神宮のフツノミタマの年代について―検討編
(四)石上神宮のフツノミタマの製作地について