宗像三女神の原郷と隼人 (May 2,2014)   

 
問題の所在

(1)
 綿津見三神(底津綿津見、中津綿津見、上津綿津見)
 住吉三神(底筒之男、中筒之男、上筒之男)
 宗像三女神(多紀理毘賣、市寸嶋比賣、多岐都比賣)
 というように、古代史に登場する海神は三神構造をとっているが、一見してわかるように、前二者は統一的な神名であるのに対して宗像三女神は、不統一である。
 これはなぜなのか?
(2)
 宗像三女神は、玄界灘に浮かぶ沖ノ島、大島、それから宗像市田島(宗像大社)に祀られていることから、宗像氏はいわゆる玄海灘ルートを管掌した海人族と考えられるが、「新撰姓氏録」によると、
宗像朝臣
 大神朝臣同祖。吾田片隅命之後也。
宗形君
 大國主命六世孫吾田片隅之後也。
 とあり、「吾田」とは、阿多隼人の「あた」のことと思われる。阿多は鹿児島西海岸に位置する。
 どうやら、宗像氏は阿多隼人の分枝のようでもある。とすれば、宗像氏とは、鹿児島西海岸から縄文か弥生の頃、北上した海人族であったと考えられる。
 では、宗像氏の原郷はどこか?
(3)
 さらには、隼人族そのものも元々海人族であり、縄文期の渡来人と思われる。
 では、隼人族の原郷はどこか?
 本稿では以上の事柄について検討する。

第一章 宗像三女神の名義と原郷
第二章 吾田と鹿葦、吾田片隅
第三章 隼人族の北上
第四章 隼人の原郷


 第一章 宗像三女神の名義と原郷

(多紀理毘賣)
 鹿児島県出水市と言えばツルの飛来地で有名だが、この出水市に加紫久利神社(式内社)がある。(薩摩国の式内社は、この出水郡加紫久利神社と、開聞岳のそばの枚聞神社の二社)

 
 
 加紫久利神社 背後の森にも参道にも、イチイガシの巨木があった。

 祭神は、
主神 天照皇大神
相殿 多紀理毘賣命
   表筒男命 中筒男命 底筒男命
   誉田別命
   息長帯比賣命
   伊邪那岐 伊邪那美命
 延喜式には、一座とあり、主祭神がどの神様であるかは判然としないけれども、由緒書きによると何度か建て替えられているから、都度都度に周辺に祀られていた神々が合祀されたり、勧請されたということだろう。
 多紀理毘賣命と言えば宗像三女神の一であるが、宗像三女神が単独で祀られる場合、圧倒的に市寸嶋比賣が多く、多紀理毘賣が単独で祀られているのはかなり珍しい。出雲大社瑞垣内の筑紫社に祀られているが、これは「古事記」に「この大国主の神、胸形の奥つ宮に坐す神、多紀理毘賣の命を娶りて(以下略)」の記述に基づくものであろう。
 加紫久利神社においては、主祭神であったか、周辺に単独で祀られた神社があり、後に合祀されたかのいずれかである。
 神名の語意について、西宮一民は、
・名義は「霧の女性」「多」は接頭語。「紀理」は霧。
 と言っている。
 出水郡に霧に関わる地名があった。「薩隅日地理纂考」に、
○霧降(檜垣集) 今俗霧野トイフ又桐野トモ書ク西ノ方ニ尾野嶋トイフアリテ往古ハ廻リ一里許ノ良港ナリシヲ漸々ニ潮水涸テ遠干潟ト成リシニ依リ元禄十三年ニ尾野嶋マテ三百六十余間ノ堤ヲ築キテ今水田ナリ(天正ノ頃マテハ良港ニテ領主島津義虎船手ノ役所アリシトイフ)檜垣集ニ 立ちしきり霧のみなとか降来らむ時やは秋の關に入りぬる

 「檜垣集」十八段 薩摩国出水郡 霧野湊の歌である。ツル飛来地からやや海側になる。
 出水には、霧の立ちやすいところがあり、霧野と呼ばれた。それが、多紀理毘賣の神名に由来したということだろう。


(多岐都比賣)
 出水から国道3号線を鹿児島方面へ走ると、東シナ海に出る直前(阿久根の手前)に三差路があり、西へ走ると長島、黒之瀬戸方面である。(途中の脇本に宮崎神社があり、宗像三女神が祀られている)

   
 黒之瀬戸―市来崎側から  黒之瀬戸―指江側から


 この、黒之瀬戸はかつては隼人ノ迫門(セト)と言われたようで、『太宰管内志』から引くと、
○隼人ノ迫門(セト)
 〔万葉集六巻〕に神亀五年帥大伴卿遙思芳野離宮作歌一首
・隼人乃 【湍門】乃磐母 年魚走 芳野之滝尓 尚不及家里
 読み下し文では、
・隼人の 【瀬戸】の巌も 鮎走る 吉野の滝に なほ及かずなりけり(萬960)
・〔和名抄〕に出水郡勢度郷あり、〔鹿児島ノ人鮫島氏云〕隼人ノ迫門は出水郡出水郷にありて長島に渡る處なり是をくろの迫門といふ、〔彦山ノ僧立辨曰〕隼人迫門は出水郡阿久根より同郡長島に渡る間のせとなり今は黒ノ迫門といふ肥後國葦北郡ノ方より坊ノ津にゆく船の必通るべき所なり潮の干満にはえもいはず潮の早き所にて船人の恐るゝせとなり

 この【湍】、多岐都比賣のタキである。書紀では、湍津姫とも書かれる。
 タキは急流、激流、早瀬。
 吉野の滝も吉野の急流、激流・早瀬。紀ノ川上流の吉野川の岩がごつごつしているあたりの早瀬のことと思われる。いま言う滝(Fall)は、昔は垂水と言った。
 隼人の湍門の急流、激流を見ながら、吉野川のそれを思い出して歌ったのである。

 黒之瀬戸付近に多岐都比賣を祀る神社はまだ探し切れていないが、この黒之瀬戸=隼人の湍門から多岐都比賣の神名が想起されたのではないか。
 「薩隅日地理纂考」には、
○薩摩ノ迫門(セト)
 米之津浦ヨリ同郷脇元浦ノ海口マテ二里許ノ間ヲ云フ肥後國及ヒ肥前國ヘ通フ數十里ノ入海ニテ迫門ハ出水長島兩郷ノ堺ナリ或ハ隼人湍戸トイフ(中略)潮水進退ノ時ハ大河ノ洪水ニ勝リテ潮聲雷ノ轟カ如シ其間ニ楫折ト云所特ニ潮早クシテ大船トイヘトモ大渦ニ覆没スルノ患アリ出水ノ方ニ小キ入灣アリテ舟船繋泊ス大救小救及ヒ八合ト名ク脇元浦ノ海口ニ長島ヘノ渡場アリテ其間十町許ナリ満干ノ時ヲ待テ往来ス進退ノ時ハ渡ル事ヲ得ス土人此號ヲ黒戸迫門トイフ

 この脇本に上述の宗像三女神を祀る宮崎神社がある。

 
 宮崎神社。宗像三女神ではあるが、長島への渡し場、つまり瀬戸(タキ)を横断する港だった脇元にあり、多岐都比賣を単独で祀るには「ここしかない」というほどのポイントなのだが、あいにく、そうと断言できる資料がまだない。「薩隅日地理纂考」では厳島神社。

 もうひとつ、タキの地名がある。
 薩摩國高城郡、和名抄は太加木と読ませている。「たかき」、あるいは「たかぎ」。
 ところが、地元の道路標識には高城、ローマ字表記でTAKIとあった。つまり「たき」である。地元でお聞きしても「そうです、タキです」と。
「太宰管内志」
・國人はタキノコホリと唱ふるなり
「日本地理志料」」
・高城今呼云多岐、蓋古訓之遺也
 高城は今、タキと言っているが、おそらく古くからの読みが残っているのだろう、くらいの意である。
「薩隅日地理纂考」
・當郡ハ東南薩摩郡ニ境ヒ西海ニ出北出水郡ニ接ス郡内高城水引ノ兩郡ヲ置ク 
 和名抄ニ高城ハ太加木トアリ方言タキト呼フ諸縣郡高城ニ合テルナリ

 だから、あるいは多岐都比賣のタキはこの地名に由来する可能性も否定できない。
 ただし、この高城エリアでもまだ多岐都比賣を祀る神社は見つかっていない。
 いずれにしても、以下で触れる市寸嶋比賣を祀る市比野と、多紀理毘賣を祀る出水との間に、タキに関わる瀬戸、地名があることは留意できよう。


(市寸嶋比賣)
 本稿は、昨年(2011年)の夏、鹿児島方面をドライブしたことが契機となって書いているのだが、それまで市寸嶋(いちきしま)については、壱岐島のことではないか、あるいはこれから向かう鹿児島の市来のことではないか、などと考えていたのだが、『太宰管内志』によれば、壱岐はイキ、ユキとは呼ばれたが、イチキと呼んだ例はなさそうである。
 市来については、鹿児島県神社庁のサイトで見たかぎり、串木野・市来に、市寸嶋比賣命を祀る神社は存在しなかったが、「薩隅日地理纂考」によれば、市来郷大里村に厳島神社があり、宗像三女神として祀られているが、創建は年代としては下り建久年間(平安末期)のようである。
 出水郡長島の北東に獅子島があり、そこに幣串(へいぐし、へぐし)神社。祭神は市杵嶋比売命。鹿児島県神社庁のサイトによると、由緒は、
・創建年代は不詳であるが、往古より明神様と称えて、漁業航海の神として霊験顕著であることから、氏子は勿論近郷近在の人達の崇敬も厚いといわれる。
 とあり、市杵嶋とはこの獅子島のことかとも思ったがいまひとつしっくりしなかったのだ。
 
 薩摩川内から南の串木野・市来方面へ走ると西の海側に弁財天山。弁財天は七福神の一だが、習合して、市寸嶋比賣のことであるが、いまは山頂にそれらしき社殿もなさそうである。串木野・市来には上述のように市寸嶋比賣を祀る神社はなかった。
 ところが、市比野にあったのだ。
「薩隅日地理纂考」
薩摩國薩摩郡 樋脇郷 市比野村
 (薩摩川内の東約10km。薩摩川内から串木野へ抜ける途中の峠の海側の弁財天山から見ても東にあたる)
○[灰/皿]山(カブトヤマ)牟霊山亦丸山トモイフ
 此山平原ノ中ニ在リテ其高サ三十間余周廻半里許ナリ
 其形状[灰/皿]鉢ノ如シ 亦山足尾ヲ引テ[シコロ]ニ似タリ
 樹木繁茂シテ山下ハ多ク水田ナリ
 四方ヨリ望ニ其姿別ナラス
 山上山下ニ市杵島姫ノ神社アリ 祭祀三月四日ニテ此日遠近ヨリ参詣多シ

 
 丸山。登ってみたが鬱蒼とした森だった。


 また、市比野村の物産の樹木の項の一番目に、「鈎栗」、ルビが振ってあり「イチ井」とある。
 どうやら、これが市寸嶋比賣のイチキではないだろうか。イチイの木の意であろう。
 イチキ、イチヒの地名から考えると、ichi-khiがもともとの音で、イチキともイチヒとも発音され、イチヒがイチイに変化したものと思われる。
 鈎栗、鉤栗で検索すると、コナラ、くりもどき。イチイガシ(櫟樫)もコナラ属。
 平原の中にあるカブト山を島に見立て、どうやらイチイの木が森状に生えていて、そのカブト山周辺(つまり市比野である)に市寸嶋比賣を奉斎する一族がいたのである。
 このGW、そのカブト山に登ってきた。今は丸山と呼ばれ麓に運動公園がある。ゲートボール場を抜けると山下の厳島神社。創建は推古期と書かれていた。
 登山口の概略図には山頂にも鳥居が描かれていた。落石危険のため立入禁止の看板があったが、ゲートボールをしていた地元のおじさんに聞けば「行ける行ける」と。
 じっさいに登ってみると、登山道そのものはしっかりしていたが枯れ木などで荒れていて落石の危険よりもむしろ季節的にもヘビの不安があった。その不安は的中し、しかもマムシに遭遇した。

   
 
左上:丸山登山口(丸山東南)の厳島神社
右上:丸山山頂付近の厳島神社跡
左下:丸山西北側麓の厳島神社

 「薩隅日地理纂考」には市杵島姫ノ神社とあるから、厳島神社という社名がいつからなのかは不明である。


 山頂(217.8m)に三角点はあったが社殿はなく、跡らしきものも見当たらない。やや下って登山道から分岐した道をたどると少し登り返したところに社殿跡らしき平坦地があり碑が立っていた。厳島神社跡。平成四年十二月吉日。氏子一同。
 登山口の概略図にはあったがその後廃絶されたということだ。
 麓には、もう一社、小祠ではあったが覆家に覆われた厳島神社があった。「薩隅日地理纂考」の記事「遠近ヨリ参詣多シ」にはうなづける。


 天理の櫟本(いちのもと)。
 宗像氏と同族の和邇氏が集住した地域である。阿田賀田須命を祭神とする和邇坐赤坂比古神社が鎮座する。
 『先代旧事本紀』「地神本紀」に、素戔烏尊の八世孫として、
阿田賀田須命。和邇君等祖。
 「新撰姓氏録」に、
・和仁古
 大國主六世孫阿太賀田須命之後也。
 櫟本の地名は大きな櫟(イチイ)の木があったことに由来すると言われている。


 宗像大社のご神木と御神紋は楢(ナラ)である。宗像大社発行の「むなかたさま」によると、
・宗像大社では本殿右側奥に樹齢550年と言われている楢の木の御神木があります。由緒については詳しい記録・伝承は残っていませんが、古絵図などにすでに描かれ、御神縁との深さが感じられます。他に御神木・相生の樫があります。この樫の木は、高宮へ行く鎮守の杜の道にあります。別々に出た芽が互いに結合し一つの木になったものです。

 
 宗像大社御神紋


 このように、鹿児島県薩摩川内市・市比野、奈良県天理市・櫟本、宗像大社のある福岡県宗像市・田島と地域は異なるが宗像と関係するところにイチイ、ナラ、カシと言った同族の樹木もまた関係しているのである。
 このことから考えると、出水の加紫久利神社もまた、樫栗(カシクリ)ではないかと思う。丸山にも出水・加紫久利神社にもコナラの巨木があった。
 つまり、出水、黒之瀬戸(あるいは高城)、市比野周辺に集住した一族がそれぞれ奉斎した神々がこの宗像三女神だったのである。もちろん、黒之瀬戸(あるいは高城)の多岐都比賣は私自身の推定であるが、偶然とも言えない蓋然性を感じるのは私だけだろうか。
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 このGW(2012)、黒之瀬戸大橋を渡り長島へ行った。長島の古墳群(指江古墳群、小浜崎古墳群、明神古墳群)はいずれも東シナ海に面した丘の上にある。瀬戸側には少なく加世堂古墳(横穴式)、移築された小向江古墳(地下式板石積石室)を見たのみである。
 長島町役場は瀬戸よりはるか北(島の北でもある)にあり、八代海(湾と言うべきか)に浮かぶ伊唐島、諸浦島に近く位置し、ともに長島から橋が架かっている。獅子島へは諸浦島、天草からフェリーでつながっていて、近隣の島々でひとつの文化圏が成り立っているようだ。
 東シナ海側に役場の指江庁舎があり、歴史民俗資料館ほか町施設が集まっている。
 瀬戸は両側から丘陵状の陸地が落ち込み、海浜は住環境には不向きのようである。
 多岐都比賣の項で書いたように、長島への渡し場も黒之瀬戸を東シナ海へ抜けてやや阿久根側寄りの脇本にあることからもそれは窺われよう。
 (長島町歴史民俗資料館の方には、古墳群、神社など親切に教えていただいた)


第一章 宗像三女神の名義と原郷
第二章 吾田と鹿葦、吾田片隅
第三章 隼人族の北上
第四章 隼人の原郷