第四章 隼人の原郷

 すでに通説と言っていいかもしれないが、隼人はインドネシア、マライ半島あたりから中国南岸、東岸に沿って北上し南九州に至った民族のようである。
 ただ少し厄介なのは、中国の少数民族の持つ要素を合わせ持っていることである。沿岸を北上した際に中国の少数民族との混交と考えるべきか、別個の渡来と考えるべきか、そのあたりが難しい。
 ここもまた、私なりに調べたいくつかの項目を断片的ではあるが提示しておこう。

(い)言語編

 風土記逸文に、
大隅國
 必志里
・大隅の國の風土記に云はく、必志(ひし)の里。昔者。此の村の中に海の洲(ひし)ありき。因りて必志の里と曰ふ。(海の中の洲は、隼人の俗の語に必志と云ふ)
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 この「ひし」は、マライ語のpasir(砂洲)、インドネシア語patir(砂洲)に由来するそうで、村山七郎も支持している。

 必志の里(さと)ではなく、必志里(ひしり)と読むべきものではないかという説もある。(西村真次「日本上代史上の諸種族」)

 串卜郷
・大隅の國の風土記に、大隅の郡。串卜の郷。昔者、國造りましし神、使者におほせて、此の村に遣りて消息を見しめたまひき。使者、髪梳(くしら)の神ありと報道しければ、「髪梳(くしら)の村と謂ふべし」と云りたまひき。因りて久西良(くしら)の郷と曰ふ。(髪梳は、隼人の俗の語に久西良といふ)今改めて串卜の郷と曰ふ。
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 同じく西村真次は、この「くしら」についても、櫛を意味するマライ語のSisirが「多少の類似性を有つてゐはしないか」と書いているが、これは言語学者から積極的な支持はないようだ。

  村山七郎の論考から紹介すると、
○宮崎県諸県郡、鹿児島県の「スバ」=「唇」
 ゴンザ(権左)のペテルブルグの辞典では、sba「唇」
 オーストロネシア系の単語である。
○「ホロ」
 隼人の北上で一部を紹介したが、以下オーストロネシア語系との関連。
・1728年薩摩を出帆して大阪へ向かう途中、太平洋におし流されカムチャツカに漂着し後にペテルブルグにたどり着いた青年ゴンザ(権左)がレニングラードに残した記録(1738年)ではforo(フォロ)「羽毛」とある。これはさらに古い時代にはpoloであったはずであり、「羽毛、毛、羽」をあらわすオーストロネシア諸語の単語と関係がある。

インドネシア語派
 タガログ bulo 羽毛
 トバ・バタク im/bulu 羽毛
 ジャワ bulu (羽のちりはたき)
 マライ bulu 羽毛、体毛、羽、羊毛
 ンガジュ・ダヤク bulu 毛、羽
 ホーワ vulu 毛、羽

メラネシア語派
 フィージ vulu/a 恥毛 mubulu/kovu 髪の結び
 サア bulu 多毛の

ポリネシア語派
 トンガ、フトナ、サモア fulu 毛、羽

祖語形 bulu


○熊襲のソ。
 台湾ツォウ族の言語でツォウは「人」の意味。
・クマ・ソのソは部族名であり、「人」を表すだろうとおもう。ソs(oウムラウト)は日本語のサ行音子音が ts に由来することを考慮すると、s(oウムラウト)<*tso(oウムラウト)<*tsau にさかのぼるとおもう。(ツォではなくツォーであったろう。大隅の贈於はその反映ではなかろうか)

 
 
 


○書紀巻第七(景行紀)の、厚鹿文(アツカヤ)、サ鹿文(サカヤ)(ともに熊襲の首領者)、市乾鹿文(イチフカヤ)、市鹿文(イチカヤ)、取石鹿文(トロシカヤ)(首長)の「カヤ」

インドネシア語派
 タガログ語 kaya 可能性、能力 may-kaya 富める、有能な
 マライ語 kaya 富める、全能な ora[ng] kaya 高位の人、富者人
 ジャワ語 kaya 財
 ホーワ語(マダガスカル島) haza えもの

メラネシア語派
 フィージ語 kei- 所有

祖形 *kaya
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 このように、南方系を示す単語が記紀時代には残っている。


(ろ)民俗編

○竹細工
 鹿児島で見られる竹細工は、たとえばハート型をした筌(セン、うえ。地元の図録ではヒビ)はインドネシアから中国東海岸沿いに分布している。
・南九州では、川内川、万之瀬川、肝属川などの河川の本流や支流を利用して、海から遡上する魚類や、海に下る魚類を捕獲するために、筌類を用いた筌漁が盛んに行われてきた。筌漁で用いられてきた多様な筌類は、竹を用いて作られているのが特徴で、その漁法とともに東南アジアの少数民族の河川漁業と強い類似性が認められる。(鹿児島県歴史資料センター黎明館『樹と竹』)

 
 民博で撮った。インドネシア、ボルネオ島のハート型をした筌
 
(左)鹿児島県伊佐郡菱刈町         (右)鹿児島県川辺郡知覧町


○大林太良が紹介したエーバーハルトの研究。
・蜑(蛋)諸民族(裸本=盧亭、馬人、蛋家)について、「蛋はオーストロネシア語族であるらしい。つまり古いオーストロネシア語族と同様に、一部は陸上で「竹加工者」として、一部は水上で海洋民族として別々に生活しているオーストロネシア語族である」。
 また、河川航行から大洋航海へ至った、文化特徴としては、船上住民、あるいは山中での竹編み民。蛇祭祀。捕魚、真珠採り、髷、耳環、腕環などを挙げている。
(「中国辺境諸民族の文化と居住地 そのII.南方辺境諸民族」)

○犬祖伝説
『隼人町合併50周年 隼人サミット 講演・シンポジウム録』(隼人町教育委員会)における下野敏見の発言
・福建省にいきましてシェー族という少数民族の山の中の村に入ったのです。そしたら、そこの長老の方が系図を見せましたが、私は驚きました。そして、これどう思うか、といわれるのです。見ると、その先祖は犬だというのです。私も同じだといって、私の先祖もワンワン、犬だといいました。だって隼人は犬の鳴き声をする訳でしょう。そして、何と『三国名勝図会』には、鹿児島神宮の神宝のなかに犬の頭の像があると書いてあります。私はその像を見たことはありません。でも、江戸時代にちゃんと書いてあります。隼人は犬と関係が深い。ならば、隼人の先祖は犬であるという伝説があったかもしれません。そのように話したら大歓迎、いや、熱烈歓迎でした。
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 次に、直江廣治「犬と蛇のフォークロア」(『隼人族の生活と文化』)より。
 桜田勝徳の大隅半島の百引村の調査から、
・子供が生まれて六日目に、名付けとしてヤウチ(家内)の者を呼んで祝いをする。
 そのときの祝いには、犬を借りてきて、オモテのいちばん上座に座らせ、この犬に膳を据えたという。
・床の間に犬を据え、いちばんよいごちそうを供えた。犬には着物を着せた。そしてその犬に着せた着物を生まれた子どもにも着せる。
・犬がごちそうを食べるまでは、列席の人は箸をつけることはできなかった。犬は祝いがすめばただの犬に返してしまう。
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 『中国少数民族事典』を参考に、
 シェー族(ショオ族=[余/田]族)はヤオ族の一支族と考えられていて、ヤオ族の祖先が居住していた湖南、貴州から12,13世紀、南下し広東省、さらに福建省、浙江省へ移動。
・焼畑耕作
・盤、雷、藍、鐘の姓が多い。ヤオ族にもこの姓が多い。
・ヤオ族と同じく槃瓠神話(犬祖神話)を持つ。
・集落には、祠堂と房と呼ばれる組織がある。
 祠堂は、同姓で祖先を同じとする人々の集団。祠堂には一人の族長が任命される。
 房は、祠堂の下に置かれた、血縁で結ばれた組織。

 鹿児島には「門」と呼ばれる小字(コアザ)単位くらいの集落のくくりがあるようで、これがシェー族の祠堂にあたるように思える。

 上記のように、南九州と東南アジア、中国少数民族の一部とは共通点を持っている。
 また、オーストロネシア言語系民族の北上と中国少数民族との混交も見受けられる。
 ただし、民俗資料は年代を特定しづらいためにはたしてどの時代に渡来したかの説明が難しい。
 遅くとも、上記のいくつかの単語から、記紀、風土記が書かれた時代までには渡来があったことは言える。
 縄文期の考古遺物の東南アジア、あるいは中国大陸海浜部との比較ができればもっと説得力があると思うが、今のところ適切な資料を持ち合わせていない。
 
(は)海流編
 東南アジアから、あるいは中国大陸沿岸部から日本列島へ直ルートで来るには、当然東シナ海を渡らなければならないが、それには、黒潮、対馬暖流が大きく寄与していることもまた論を俟たない。
 北部九州の志摩の二見ヶ浦、あるいは芥屋の大門の海岸にはハングル、あるいは中国語で書かれた漂着物がいくつも見受けられる。
 南九州でも同じことが言え、たとえば吹上浜では夏から秋にかけて中国製ライターが多いそうだ。
 たとえば、
1. 種子島の広田遺跡。弥生後期後半。トウテツ紋に似た貝符から、意図的な移住か漂着かはともかく、中国大陸のどこかからの渡来であろう。
2. 熊本県八代の八代神社は妙見神を祀っているが、由緒書によると、
・白鳳九年(680)、中国の妙見神が亀蛇に乗り「竹原の津」に上陸、天平宝字二年(758)横嶽ノ嶺に鎮座。その後延暦十四年(795)に妙見上宮が建立されました。

 境内には亀蛇の上に、由緒を刻んだ石碑があり、寧波の津から出航した。長江のやや南である。これまた、最初から列島を目指したのかどうかはよくわからないが、潮流に乗ったということだろう。

3. 時代は下るが、笠沙の媽祖像。
媽祖信仰は唐代のものとされているが、笠沙郷土資料室でお聞きしたところ、保有の物は火災に遭い炭化して展示できないが、すぐ近くの某氏宅で新しい媽祖像を福建省眉州まで行き買い求められたとか。昨年の夏、見せていただいた。
 御先祖がそこにつながるのだそうである。媽祖像を保有されるお家はほかにもあるそうだ。坊津歴史資料センター輝津館に古い媽祖像が展示されている。
かつて、媽祖像は笠沙の野間岳に祀られていて笠沙の半島部には媽祖信仰があった。
 
 
媽祖像。笠沙郷土資料館の近くの個人宅で拝見させていただいた。 

 このように時代を隔てながらも、東シナ海を渡ってきた人々がいたのである。それはおそらく潮流の影響が大きい。
鳥越憲三郎『古代中国と倭族』によると、
・実は福建省泉州港の漁師が、現在でも長期の漁に出るときは稲籾を入れた袋を持って乗るというが、台風に流されてどこかに漂着した場合を考慮してのことである。

 意図的な移住であるか否かに関わらず、たとえば漁に出て遭難し、黒潮に乗った場合、九州島に漂着してしまうことも例外ではなかった、ということだろう。
資料的にはまだ検証しえないが、縄文期にそれがなかったとは言い切れない。
 
 以下二編、海流についての参考文献を引いて、傍証としたい。
北見俊夫「対馬暖流に沿って」(『隼人族の生活と文化』)
・中国江南の舟山列島あたりから、帆を着装した手漕ぎの船で沖に漕ぎ出せば、3,4時間で対馬海流に乗ることができ、その辺での海流は、だいたい東北東へ向かって7~8ノット(毎時12.96km~14.81km)ぐらいの速さで流れている。だから、間もなくはるか東のほうに草垣・宇治群島が見え、九州南西部の島かげが認められる。やがて、急に船が北東に針路をとると海流の速さが増して船は18ノット(毎時33.34km)ほどで北進し、1時間もすれば男女群島の山なみがくっきりと見えてくる。そのまま北上を続け韓国の済州島とわが五島列島の中間を通過すれば、そこはもう対馬海峡であり、舟山列島から10時間前後で五島列島あたりまで来られるというわけである。
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http://www.fish.kagoshima-u.ac.jp/fish/academic/hpdata/nishihomepage11/umikeihatu09..pdf
平成20年度鹿児島大学ボランティア教材開発
「海辺環境の啓発教育」
・黒潮から中国大陸の方向へ数100km の領域は,黒潮に比べるとずいぶん弱いながらも,黒潮と同様に南西から北東へ流れていることがわかります。したがって,漂流物が黒潮自体に乗らなくても,何らかの理由で黒潮の数100km 近くまで流されてこれば,吹上浜へ漂着する可能性があるといえます。
 漂着物が黒潮に乗るとすれば,黒潮の源流域にある南方の国から,漂流物が吹上浜に運ばれてくることが説明できます。ですから,台湾やフィリピンを起源とする漂流物が吹上浜で見つかるのは不思議ではありません。



第一章 宗像三女神の名義と原郷
第二章 吾田と鹿葦、吾田片隅
第三章 隼人族の北上
第四章 隼人の原郷




参考文献

佐伯有清『新撰姓氏録の研究(本文編)』(吉川弘文館)
『国史大系:交替式 弘仁式 延喜式前篇』(吉川弘文館)
西宮一民『古事記』(新潮社)
「薩隅日地理纂考」(近代デジタルライブラリー)http://kindai.ndl.go.jp/
伊藤常足『太宰管内志』(歴史図書社)
『日本書紀』(小学館)
邨岡良弼『日本地理志料』(臨川書店)
『国史大系:古事記 先代舊事本紀 神道五部書』(吉川弘文館)
『むなかたさま』(宗像大社)
『上野原縄文の森常設展示図録』(鹿児島県上野原縄文の森)
木下尚子『南島貝文化の研究』(法政大学出版会)
中村明蔵『新訂 隼人の研究』(丸山学芸図書)
『倭名類聚抄』(勉誠社)
『日本史広辞典』(山川出版社)
『隼人世界の島々』(小学館)
『日本民族と南方文化』(平凡社)
『古代海人の謎』(海鳥社)
『萬葉集』(小学館)
『風土記』(岩波書店)
「隼人町合併50周年隼人サミット」(隼人町教育委員会)
戸矢学『ツクヨミ 秘された神』(河出書房新社)
『隼人』(社会思想社)
小野重朗『十五夜綱引の研究』(慶友社)
西村真次「日本上代史上の諸種族」
『樹と竹』(鹿児島県歴史資料センター)
「中国辺境諸民族の文化と居住地 そのII.南方辺境諸民族」国立民族学博物館研究報告20巻3号 http://ir.minpaku.ac.jp/dspace/bitstream/10502/3113/1/KH_020_3_002-all.pdf
『隼人族の生活と文化』(雄山閣)
『中国少数民族事典』(東京堂)
鳥越憲三郎『古代中国と倭族』(中公新書)
平成20年度鹿児島大学ボランティア教材開発「海辺環境の啓発教育」
http://www.fish.kagoshima-u.ac.jp/fish/academic/hpdata/nishihomepage11/umikeihatu09..pdf