第二章 吾田と鹿葦、吾田片隅

 次に、宗像氏の祖、吾田片隅命について検討してみよう。

 (イ)まず吾田について。
 「古事記」では、
・邇邇芸命が笠沙御前で「神阿多都比賣」(別名 木花佐久夜毘賣)を娶る。
 「書紀」正文では、
・「鹿葦津姫」(別名 神吾田津姫 あるいは、木花開耶姫)を娶る。
 一書第五では、
・「吾田鹿葦津姫」を娶る。

 このように阿多と吾田は「アタ」の音に当てた文字であり、同一の地名、つまり市来から南に下った今の金峰町阿多の地名のことである。

   東シナ海側の縄文貝塚

出水貝塚 (出水市)
荘貝塚 (出水市)
江内貝塚(高尾野町)
  現在出水市に合併

波留貝塚(阿久根市)
麦之浦貝塚(川内市)
尾賀台貝塚(川内市)
市来貝塚(市来町)
小野貝塚(吹上町)
阿多貝塚(金峰町)

 一方、鹿児島湾側の縄文貝塚は、
鹿児島神宮貝塚(隼人町)
草野貝塚(鹿児島市)
光山貝塚(鹿児島市)
柊原貝塚(垂水市)
大泊貝塚(佐多町)
が発掘されている。

 東シナ海側により多くの縄文貝塚が出土していることは、縄文期から東シナ海が重要な鍵であったことを思わせる。
 阿多には縄文前期(約5,6千年前)の阿多貝塚、弥生前期の高橋貝塚など縄文期以来の遺跡が多くある。阿多の北、市来にも市来貝塚(縄文後期後半、約3500年前)。
 市来貝塚からすでに、ベンケイガイ、アカガイ製の貝輪が出土し、高橋貝塚では、南海産のゴホウラ貝などの貝輪の加工段階の遺物が出土している。木下尚子は次のように書いている。

・薩摩半島の高橋貝塚では、弥生前期から中期に、ゴホウラ、イモガイ、オオツタノハの未製品がみられる。これらは未製品である点で、他地域と決定的に異なっている。さらに未製品には、後出のイモガイヨコ型貝輪を除くすべての貝輪の形式が含まれており、ここが北部九州各地へ南海産貝輪を届けるための中継地点であったことを明示している。
 高橋貝塚の出土遺物には、北部九州の特徴をもつ前期土器、大陸系磨製石器、投弾、管玉などが伴い、この地に北部九州的農耕社会が伝来していたことを物語っている。また同時に、南島の土器、イモガイ小玉がみられ、南島的世界とも接触していたことを示してい
 高橋貝塚には、北部九州弥生社会の文化と南島の文化が両方併存していたのである。高橋貝塚が南島と北部九州の中継地点であったという貝輪からの解釈は、このような背景を重ねると理解しやすい。
 高橋貝塚貝輪未製品の中に、ゴホウラI類貝輪、イモガイタテ型I類貝輪がある。これらは九州に南海産貝輪が登場する時、沿岸地域にもっとも早く受容された貝輪である。これは、この地が西北九州、玄界灘、長門北浦沿岸地域を結ぶ海上路線に、早くから組み入れられていたことを示している。南島にのびる海上ルートはその初期段階に、九州の南端をすでに中継地にしていたのだろう。
 高橋貝塚のある吹上浜一帯では、中期中頃~後半に甕棺墓地がつくられており、その中の1基に諸岡型貝輪が伴っている(下小路)。甕棺墓と諸岡型貝輪の組み合わせが、福岡平野から三養基・神埼、肥後と連続して南下していることがわかる。(『南島貝文化の研究』)

   
   
高橋貝塚―玉手神社の境内にあり、周囲よりやや高まった台地上にある。 


 薩摩半島西岸部は縄文、弥生時代からの遺跡があり、しかも、南島および北部九州とも交流があった。これは、阿多に代表される薩摩半島西岸部が海人の集住する地域であったことを示している。つまり隼人も海人だったのである。

(ロ)次に鹿葦について。
 中村明蔵は、「続日本紀」に大隅国姶羅郡少領加志君和多利(大隅ノ隼人姶羅ノ郡ノ少領外従七位下勲七等加志ノ君和多利)とあることから、加志は大隅国にあったと考えているが、では、大隅のどこだったかについてはとくに言及はない。(『新訂 隼人の研究』)
 大隅にはカシの地名が見当たらないからだ。
 私は、加紫久利神社のある出水のどこかではなかったかと考える。
 「倭名抄」薩摩國 出水郡に、
・山内 勢度 借家 大家 國形
 この中の、借家が「かし」の地名と関係しそう。高山寺本にはこの郷はないようだが、「日本地理志料」は、「兵部省式」に載る薩摩國櫟野驛、この櫟野を借家に比定している。

 鹿葦津姫は、神吾田津姫とも、吾田鹿葦津姫とも書かれる。鹿葦を出水地方に求めれば、吾田鹿葦は薩摩半島西岸部一帯を指すことになるし、鹿葦を大隅に求めれば、吾田鹿葦は阿多隼人+大隅隼人のいわゆる現在の鹿児島県一帯(薩摩國、大隅國)を指すことになろう。
 だが、笠沙御前そのものが、阿多から南下した加世田に伝承地として笠沙宮跡が二箇所あり、加世田から野間岳へ向かう半島部にも笠沙の地名が残っていることから吾田津姫の別名、吾田鹿葦津姫の鹿葦もまた、薩摩半島西岸部に由来すると考えるのが穏当ではなかろうか。

(ハ)では、吾田片隅の片隅とはどんな意味だろうか。また、カタスミと読むべきか、カタスと読むべきか。
「姓氏録」は二通りの表記をしている。
・和仁古
  大國主六世孫阿太賀田須命之後也
・宗形君
  大國主命六世孫吾田片隅命之後也

 このことからカタスと読むべきもののようにも思われる。
 だが、大神神社摂社の神坐日向神社(みわにますひむかい神社)の祭神の一に、飯肩巣見命(いいかたすみのみこと)が祀られていて、カタスミの神名もあり難しいところだ。
 ではカタスとはどのような意味だろうか。
ネットで検索したかぎりだが、以下のような説明があった。

1.かたす‐くに【堅州国】-日本国語大辞典
〔名〕(片隅の国の意)地下の遠い隅にあって、現世と容易に交通することができないと考えられた、観念上の国。根之堅州国(ねのかたすくに)。

 つまり、カタス=カタスミ(片隅)と同義であると。
 おそらくだが、これは「片付ける」ことを「かたす」とも言うことと関連しているのではないか。片付けるとは、片に付ける、つまり端っこに置く。
 そこで吾田片隅に即して言うなら、吾田(阿多)地域の片隅(かたすみ)、端ということになる。出水から市来にかけての地域は、阿多地域の北側になるが、阿多地域の片隅(端)とも言えるのである。
 北部九州、ことに玄界灘沖ノ島ルートを管掌した海人、宗像氏の原郷は、吾田の片隅、つまり、出水から市来にかけての地域だったのである。




第一章 宗像三女神の名義と原郷
第二章 吾田と鹿葦、吾田片隅
第三章 隼人族の北上
第四章 隼人の原郷