第三章 隼人族の北上

 では、隼人族の北上についていくつかの項目で検討しよう。

(1)市来式土器の分布
 市来貝塚は(約3500年前)は市来式土器の標式遺跡である。市来式土器のほかに出水式、指宿式、鐘崎式土器、西北九州に広く分布する組合せ石銛も出土している。鐘崎式土器とは宗像の鐘崎貝塚から出土した縄文土器である。

 市来式土器は、鹿児島、宮崎はもとより、
愛媛県宇和郡・平城貝塚
熊本県水俣市・南福寺貝塚
長崎県西彼杵郡出津、長崎県福江島・白浜貝塚
種子島・納曾
屋久島・一湊 屋久島・横峯
口永良部島・城ヶ平
奄美大島・宇宿貝塚 奄美大島・嘉徳
徳之島・面縄第1貝塚
沖永良部島・神野貝塚
沖縄本島・浦添貝塚
 からも出土していて、北部九州から沖縄と言った分布は縄文期から海人の広範な活動を示している。

 
 


 なお、さらに遡れば、約6300年前のアカホヤ火山灰層(鬼界カルデラの噴火)の直上に轟式土器(熊本県宇土市・轟貝塚出土を標式とする)、そのすぐ後に曽畑式土器(熊本県宇土市・曽畑貝塚出土を標式とする)もまた北部九州から沖縄にかけて分布している。(『隼人世界の島々』)
 市来式土器については、その祖形とされる松山式土器が海を渡った屋久島・一湊遺跡から出土している。このこともまた、縄文期から南九州の海洋性を示していよう。
 江坂輝弥は、轟貝塚出土の打製靴型石器、十字型打製石器は中国浙江省杭州付近の老和山遺跡、太湖南岸呉興付近の銭山漾遺跡出土の打製石器と類似しているという。(「熊本県轟貝塚出土の打製靴型石器について」『日本民族と南方文化』)

 南九州の海洋性とは、どうやら中国大陸との関係も想定される。

(2)スムとカツグ
 私の郷里は有明海に近い熊本県の北部である。遠浅の浜辺で、小学校の遠足、潮干狩り、海水浴、冬はタテ貝、タコ掘りに出かけた。亡父は一時、権利を買って海苔の採取もやった。郷里では、水に潜ることを「スム」と言う。
 谷川健一の調査によると、水に潜ることを九州では、「スム」と言う地域と「カツグ」と言う地域がある。(『古代海人の謎』)

■「スム」
・山口県
 長門市通、油谷町大浦
・福岡県
 玄海町鐘崎、芦屋町、志賀島弘、福岡市西区西浦、糸島半島二丈町深江、志摩町、加布里、柳川市
・佐賀県
 浜玉町、唐津市、呼子町、肥前町
・長崎県
 鷹島町、佐世保市、諫早市、新魚目町、五島(上五島町、有川町、奈良尾町、奈留町、福江市)、川棚町、西海町、崎戸町、大瀬戸町、野母崎町、口之津町、小長井町
・熊本県
 水俣市並びに熊本県一円
・鹿児島県
 出水市、枕崎市
・大分県
 姫島、国東町、安岐町、佐賀関町、佐伯市
・愛媛県
 三崎町
■「ズム」
・伊万里市(佐賀県)、筑前大島(福岡県)

■「カツグ」
・長崎県
 壱岐(勝本町、郷ノ浦町)、対馬厳原町、生月町、平戸市、松浦市、大島村、小佐々町、五島(宇久島、小値賀島)
・鹿児島県
 阿久根市、甑島里村、加世田市
「カヅク」
 博多湾以東の海岸地帯

 「カツグ」に注目すると、薩摩半島西岸部に集中が見られる。
 壱岐・対馬・五島、北部九州に点在し、博多湾以東の海岸地帯、つまり宗像地域に分布している。もともと阿多隼人によって使われた言葉が彼らが北上して北部九州にもたらされたものと考えることができよう。
 たとえば、壱岐・郷ノ浦町では「カツグ」と言うが、宗像三女神を祀る神社が三社(長島神社、大島神社、原島神社)ある。
 「肥前國風土記」松浦郡 値嘉郷
・此の嶋の白水郎は、容貌、隼人に似て、恆に騎射を好み、其の言葉は俗人(くにびと)に異なり。
 上記リストでは、小値賀島で「カツグ」が使われていることと符合する。
 古事記、万葉集では「カヅク」が使われている。
・いざあぎ 振熊が 痛手負はずは にほ鳥の 淡海の海に 潜きせなわ
下線の原文は、阿布美能宇美迩迦豆岐勢那和。(古事記仲哀記)

・大船に 小舟引き添へ 潜くとも 志賀の荒雄に 潜き逢はめやも
下線の原文は、可豆久登毛 志賀乃荒雄尓 潜将相八方

・沖つ鳥 い行き渡りて 潜くちふ 鮑玉もが 包みて遣らむ
下線の原文は、可豆久知布
 万葉集では、「潜」の一字で書かれることが多いが、上記のように「かづく」と読まれていたと考えてよい。

 なお、加紫久利神社のある出水市では「スム」が使われている。推測だが、それは海浜に住吉町があり、加紫久利神社にも住吉三神が祀られていることにも関係するものと思われるが、古層では「カツグ」ではなかったかと思う。

(3)二つの月読神社
 京都にあるいくつかの月読神社のうち、二つについて。
 京都・松尾大社の南、約1kmのところに月読神社がある。(京都市西京区)創建については書紀に記事がある。
顕宗天皇紀
・三年の春二月の丁巳の朔に、阿閉臣事代、命をうけて、出でて任那に使す。是に月神、人に著りて謂曰はく、「我が祖高皇産霊、預ひて天地を鎔造せる功有します。民地を以ちて、我が月神に奉れ。若し請の依に我に献らば、福慶あらむ」とのたまふ。事代、是に由りて、京に還りて具に奏し、奉るに歌荒樔田を以ちてす。(歌荒樔田は、山背国葛野郡に在り)壱伎県主の先祖押見宿禰、祠に侍へまつる。

 このように、西京区の月読神社は、壱岐の月読神社を勧請したのである。

 
 月読神社(西京区)


 もう一つは京田辺市大住の月読神社。
 隼人舞発祥の地の碑が立っている。拝殿に掲げられた由緒書に、鹿児島・桜島の月読神社、大隅半島串良町の月読神社との関連が書かれていた。

   
 月読神社(大住)  月読神社(大住)―隼人舞発症之碑
 
 月読神社(大住)―隼人舞伝承地の解説文
   
月読神社(鹿児島県 串良町 大隅半島) 現在は鹿屋市。 

 京田辺・大住の月読神社は大隅国の大隅隼人が移配させられて祀ったものと考えてよい。ここで移配という言葉を使ったのは、自発的移住というより「移り住まわせられた」と言ったニュアンスが強いからだ。

 奈良県五条市に阿陀比売神社があり、阿陀比売とは神阿多都比賣のことであり、別名としての木花佐久夜毘賣が祭神である。阿多の地、鹿児島県金峰町からも公式参拝され、記念植樹されていた。その五条の人たちが移配の語を使っておられる。
・やはり阿太(奈良市五条)に阿多隼人が来ておって2代3代目と過ぎた時に、子孫に親達が俺達の故郷はここではないので、お前達の故郷はここではなく九州なのだと万之瀬川や東支那海のすばらしさを子供達に言い聞かせ言い伝えたと思うのです。それはやはり阿多から好んで移住したのではなしに、無理矢理に引き出されて大和の阿太の地に放り込まれたという無念さもあったでしょう。
・移住というのは私達の考えでは自分の意思でもって他の土地へ行くというのが移住であって、移配というのはこれは無理矢理強制的な移動だと自分達は解釈しているのです。(「隼人町合併50周年隼人サミット」隼人町教育委員会)

 西京区の月読神社は壱岐から、もうひとつの大住の月読神社は大隅半島からの勧請であり、社名こそ同じだが系統の異なる神社だと思っていたのだが、隼人について調べていくうちに、どうやら壱岐の月読神社もまた隼人の北上によって祀られたのではないかと思うようになった。

 現在の壱岐・月読神社は芦部町国分東触に鎮座するが、もともとは芦部町箱崎釘の尾触の八幡神社にあったと言われている。
「壱岐神社誌」(『ツクヨミ秘された神』より)
・最初式内月読神社として創立あり、次で海神の配祀又は龍神の合祀等によりて龍神又は海裏宮となり、下りて八幡神の配祀ありて全く八幡宮の社号の下に其他の社号を蔽はれ、為に延宝四年の査定に過りて式外に列し奉りし者と云ふべし。されど古来式内月読神社なるが故に国主の崇敬及国民の信仰は社号が式外八幡神社なりても聊も異なるところなく嶋内の名社たるの事実は毫も失墜する事これなき也。

 ところが、ネットで見つけた「石牛と月」によると、この月読神社の後裔としての八幡神社もまた元々男岳(おんたけ)に祀られていたのが数次にわたる遷座を経て、現在地に鎮座されたとのことである。そのページによると八幡神社宮司、吉野家に伝わる社蔵文書に式内・月読神社は、最初はオンダケ山という山に鎮座しており、その後、「上里の東屋敷」→「下里の辻」→「新庄村の宮地山」と鎮座地を変えながら、最終的に現在の鎮座地に定まったそうである。現在、男岳には男岳神社が鎮座している。男岳神社には猿田彦に因む猿の石像が多くみられるが、牛の石像も30体ほどあるそうで、じつはこの牛の石像の方が元々の古い風習であったようだ。
 詳細は、kokoro様のHP「石牛と月」に譲るが、月神と牛の関係は鹿児島南部にも伝承が残っており、かすかながら鹿児島の月読神社と壱岐のそれとの関係が窺えそうである。


 なお、京都には月読神を祀る神社が他にもある。
 大住の近くの城陽市に樺井月神社、丹波(亀岡、園部)方面にも私が見て回った限りでは六社ある。
   
樺井月神社 (京都府城陽市)
   
大井神社(亀岡市大井町) 式内社 小川月神社(亀岡市馬路) 式内社
   
月読神社(亀岡市千代川町)  月読神社(南丹市園部町船岡 )
   
摩気神社(南丹市園部町竹井)式内社
境内摂社に月読大神(志和賀村) 
志波加神社(南丹市日吉町志和賀) 式内社

 『康富記』によるとここにも隼人の居住地があった。
 亀岡には上記の月読神社だけではなく、千代川町に藤越神社がある。
 
   

上:藤越神社由緒
 ご祭神は野椎命またの名を鹿屋野比売。
 今の薩摩の阿多郡に住んでおられた。
 このカヤが、屋根をふく茅に由来するものか、第四章で触れる南方語に淵源をもつ首長の意としての鹿文(カヤ)に由来するものか。

左:藤越神社遠景

 丹波の月読神社もまた隼人によって祀られたと考えてよい。
 ただ、先述のように大隅には月読神社が二社あるが、薩摩半島(阿多隼人側)には見当たらなかった。
 けれども、「十五夜綱引」の風習は両地域に広く分布していて、この綱引きは月を祀る風習と密接につながっている。
 「十五夜綱引」について簡単に触れておくと、綱引きの後、その綱で円を作って相撲をとるのだが、
・ワラだけではなく、カヤでも綱をなう。
・綱引きの前に月を模したもの、あるいはお月さまそのものを拝む。
・綱引きは、いわゆる運動会でやった綱引きだけではなく、ぞろぞろと引きずって部落内を練り歩く。
・綱引きのあとはその綱で円をつくり相撲をとる。

 地域によって少しずつの違いはあるものの、月読神社のある大隈半島側だけではなく坊津、阿多といった薩摩半島側にもあり、熊本南部、日向南部、薩南諸島にも分布していることから月を拝む風習は大隅隼人だけではなく、阿多隼人にもあったと考えてよい。
 (時代は下るが、久留米にも十五夜綱引きの風習がある。大善寺、安武でも行われていたようだが、現在は大石神社(祭神はニギハヤヒ)に今でも残っているようだ。)

(4)ホロ、ヘキ
 村山七郎は、隼人の言語とポリネシア地域、オーストロネシア諸語との比較研究から隼人族の起源に触れている。
 『隼人』に収載の「ハヤトの言語」に、1728年薩摩を出帆して大阪へ向かう途中、カムチャツカへ漂着した青年ゴンザ(権左)がレニングラードに残した記録、その中で二つの単語を紹介する。

(い)ホロ 
・鹿児島ではホロは「鳥の羽毛」を意味し、壱岐では「羽毛を巻きつけた疑餌鉤」を意味する。壱岐方言の意味は派生的である。壱岐にホロがあるのは、古代においてハヤトがそれをつたえたのではあるまいか。

(ろ)ヘキ
・ゴンザ(権左)の辞典にあるフェキ「肩胛骨」である。東条操編『分類方言辞典』にある「へき 背中のわきの部分。傍背」がこれに相当する。これは佐賀方面の方言の形である。(この単語は鹿児島地方から佐賀地方につたえられたのではなかろうか。なぜなら、「肩胛骨」というのが原義と思われるから)
 民俗資料は年代を特定できない難しさを伴うが、縄文期の市来式土器の北上と、九州北部においても南九州の言葉が残っていることは符合するものと思う。
 おそらくだが、住吉系と考えられる「スム」は、「カツグ」の分布、つまり隼人系の北上の後に渡来した氏族によってもたらされたのではないかと思われる。安曇氏、住吉もまた今後の課題のひとつだ。




第一章 宗像三女神の名義と原郷
第二章 吾田と鹿葦、吾田片隅
第三章 隼人族の北上
第四章 隼人の原郷