(三)熱田・高蔵遺跡

 さて、高倉下を考える上で、いくつか見て回った中でも、熱田の高座結御子神社が周辺の高蔵遺跡との関連でもっとも説明しやすく思われるので、以下、高蔵遺跡について触れておきたい。

 高座結御子神社は熱田神宮の北約800mにあり、それを囲むように高蔵遺跡が広がっている。大都市の中であるために、発掘は神社周辺で行われているが、興味深い報告がなされている。

 まず往古の熱田台地は海に突き出た半島状であって、高蔵遺跡はこの熱田台地の東端に所在する。縄文晩期の遺跡も存在するが、弥生前期集落とは時間的な断絶があり、直接的な関わりは考えられない。この弥生前期の遺跡から遠賀川系土器が出土する。いわゆる汎西日本的共通の特徴を持つ一群と在地化した遠賀川系土器が出土するが、主に前者が出土する。発掘調査では弥生中期にはやや薄いが後期前葉には、キ龍文鏡の鏡片が出土する。
 キ龍文鏡は前漢末とされている。列島では類例が少ない。以下に完形および、破鏡の出土地を示す。福岡・佐賀に核がある。高蔵遺跡・朝日遺跡にもたらされた経路は不明だが、東海の窓付き土器が北部九州にももたらされていること、巴形銅器が朝日遺跡でも作られることから、東海と北部九州の交流・往来は想定できるから、この高蔵遺跡のキ龍文鏡もまた北部九州からもたらされた蓋然性は高い。

(A)キ龍文鏡が出土した遺跡
http://home.p07.itscom.net/strmdrf/kagami.htm
(鏡の考古学)
福岡 平原遺跡       割竹 弥5/古墳
福岡 上り立遺跡      箱式 弥生
佐賀 三津永田遺跡105号  甕棺 弥生4

(B)キ龍文鏡の破鏡(鏡片)が出土した遺跡
http://www.yamagatamaibun.or.jp/kankoubutsu/kenkyuukiyou/kiyou_1/2003_takahashi.pdf
(最北の破鏡)
石川県 羽咋市 吉崎・次場遺跡V8号土坑 キ龍文鏡 破片 集落土坑 弥生W期?
愛知県 清洲町 朝日遺跡 キ龍文鏡 破片 集落墓坑 弥生後期末
愛知県 名古屋市 高蔵遺跡 キ龍文鏡 破片 11 集落竪穴住居 弥生後期初頭
福岡県 北九州市 上長野A遺跡 キ龍文鏡 破片 10.5 集落河川跡 弥生時代
佐賀県 神埼町 志波屋三本松遺跡 キ龍文鏡 破片 11 墳墓土器棺 弥生時代
佐賀県 武雄市 六ノ角遺跡 キ龍文鏡 破片 6.4 不明不明 弥生時代
佐賀県 武雄市 みやこ遺跡Y区下層 キ龍文鏡 破片 12 集落不明 弥生時代
大分県 大田村 古城得遺跡20号住居 キ龍文鏡 破片 10.5 集落竪穴住居 弥生X期
宮崎県 佐土原町 下那珂町遺跡 キ龍文鏡 破片 10 不明不明 弥生後期

 また、弥生後期の方形周溝墓の一部と見られる溝から弥生終末あるいは古墳時代初頭と見られる土器がまとまって出土していて、「後の時代に行った何らかの行為の痕跡と考えてよければ、少なくともこの時期までは自らと関連のある墓として意識されていたとみなせよう。かなり時間的に隔たっているにも関わらず、墓に対する行為が行われたことを考えると、その墓の性格、あるいは墓に葬られた人の性格は興味深い。」と報告書「高蔵遺跡」は書いている。
 つまり、弥生後期の被葬者とそのお墓を弥生終末、古墳時代初頭に祀った人とは同族としての繋がりがあったことを示している。

 古墳中期以降も、古墳そのものは数多く検出され、報告書の地図を見ると、高蔵結御子神社を囲むように6基の古墳があり、そのうちのひとつ高蔵1号墳は横穴式石室をもつ7世紀である。2009年4月18日、現地へ行ったが、境内の墳丘は残されていたが北側の古墳は削平され今は公園になっていた。境内東南角にあたる幼稚園側にも塚らしき高まりがいくつかあった。

 さて、遠賀川式土器は稲作伝播の指標とされてきたが報告書は高蔵遺跡について、以下のようにも書いている。
・集落の形態については三重県大谷遺跡や永井遺跡との類似性が以前から指摘されている。
・高蔵前期集落は、弥生前期後半頃に突如として現われる、大規模集落と位置づけられよう。かといって、典型的な前期集落である尾張平野に展開する各遺跡と共通する点が多いかといえば、そうとも言えない。環濠をはじめ集落形態や、出土遺物(土器系統の組成など)に異なる点が見受けられるからだ。また、生産活動の痕跡がほとんど確認されていない点も注意したい。今後の調査の積み重ねでわかってくる部分もあるだろうが、現時点の状況では、農耕を主体としたムラという性格は感じられない。特殊な性格を持つ集落だった可能性も視野に入れておくべきかと考える。(埋蔵文化財調査報告書45 高蔵遺跡(第1次) 名古屋市教育委員会)

 つまり、高蔵遺跡は、遠賀川式土器を伴い海路によって熱田台地に住み着いた人々によって営まれた遺跡であったと言えるのである。
 この視点から見ると、高倉下を祀る神社が四国北岸、紀伊半島海浜、熱田と点在していることの説明がつく。
 また、尾張平野では、朝日遺跡下層部の貝殻山貝塚、一宮市の元屋敷遺跡からも遠賀川式土器が出土していることを付言しておく。

 上述したように弥生中期はやや薄いと書いたがその後の発掘によると中期から後期へもまた連続性の高い集落が営まれたようである。以下補足しておく。

高蔵遺跡
 (埋蔵文化財調査報告書46「高蔵遺跡(第34次・第39次)」名古屋市教育委員会 2003)
・高蔵遺跡では中期のIII様式から後期末のVII様式に至るまで連綿と集落が営まれる。特に中期IV様式から後期にかけては、ほぼ重なる位置に掘削された環濠の状況などから見て、無関係の集落が偶然同じ地点で営まれたのではなく、連続性が高い集落と判断される。名古屋台地上では他にこれほど存続期間の長い集落は存在せず、高蔵遺跡がこの地域の中心と考え得る集落であることを示している。
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 また、古墳時代にかけても遺跡の連続性が認められるようである。
 (なお以下引用文中の38SZ01,02,03はともに方墳。D3は第1次調査で検出された溝のひとつ。L字状に屈折していることから方形周溝墓の溝と考えられている。)

同報告書47「高蔵遺跡(第35次〜第38次・第40次・第41次)
・さて、古墳時代の小方墳の展開については、高蔵遺跡でもあきらかにすべき課題として従来から注目されている。今回の調査成果(筆者注:第38次)は、その新資料として重要視する必要があろう。38SZ01、38SZ03は埴輪をともない5世紀後半ごろ、38SZ02は埴輪のない4世紀末ごろの築造と考えられる。これらは時期を違えつつも、その墳丘主軸はほぼ同じ方向を向いている。また、調査区南側に位置する38SZ02、39SZ03は、その北西角が東西にほぼ直線的にそろう。(中略)高蔵遺跡墳墓群の墳丘主軸は、北よりもやや西へふるものがおおく、今次調査の3基もその例に漏れない。この方向は、高蔵遺跡が展開する半島状の熱田台地がのびる向きであり、当墳墓群中の古墳がこの地形を意識して築造されたものは疑いなかろう。しかしながら、この傾向から明らかに外れるものも存在することを考えれば、たんに地形のみに規制されたとはおもわれない。ここで注目すべきは、断夫山古墳もまた、同様の方向を墳丘主軸とし、熱田台地の西崖際にそって築造されていることである。別稿(藤井 2002 筆者注:「古墳時代中期における尾張の首長墳と小古墳」)でのべたように、当墳墓群における古墳の築造動向は名古屋台地上の首長層の築造動向と連動し、なかでも断夫山古墳に代表される大首長層の出現が深く関与している。すなわち、小古墳の主軸が地形と平行することは、断夫山古墳の墳丘主軸と平行することでもあるという事実を考慮せねばならない。高蔵遺跡墳墓群の小方墳群の築造は、地形を考慮しつつ、その被葬者集団が帰属した尾張大首長の古墳とつよく関係したものであったと考えることができよう。
・1次調査D3のように、時間的に隔たった周溝墓の溝上層に大量の土器集積が見られるように、時間的に隔たった墓であっても自らに関連のある墓として意識されていた事は確かである。その一方でそれらの古い周溝墓に何の行為も行われない時期があることも重要である。既に存在する周溝墓を自らと関連したものと常に意識されていたとすれば、遺物が残るような行為を何もしなかった事が説明し難い。VII様式末〜VIII様式になると、古い周溝墓に何らかの行為が行われるのは、単に居住域の動向にあわせているだけではなく、祖先とのつながりが意識され、強調される時期があった可能性もあろう。
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 このように高蔵遺跡は弥生前期に遠賀川式土器を伴い海路によって移住した人々によって営まれ、年代の濃淡こそあれ古墳時代まで連続性が認められ、しかも、彼等は断夫山古墳を築造するほどの力を持った首長とも強く関係した一族であったということができる。その彼等とは、遠賀川式土器に象徴される北部九州人なのである。
 さらに、奈良時代、平安時代へも連綿と続く複合遺跡であった。
・奈良時代から平安時代については、高蔵結御子神社を中心として、「時間の経過に伴う集落の変化はまだ不明であるが、7世紀から9世紀にかけての集落は大規模であったことは間違いない」

 では、長期にわたり、断続的ではあっても人は移住し続けるのであろうか。
 愛知県埋蔵文化財センターの「研究紀要」第8号に石黒立人氏の興味深い論考がある。長いが一部を引く。
http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/kiyo08/0803ishi.pdf
(弥生時代移住論覚書‘07)
大規模集落のネットワーク
・親族集団の分枝が遠隔地に播居し、そのネットワークを介して人々の往来が保障され、受け入れ先があって遠隔地間の安全な交通が可能になる。まず、移住によって親族集団の分枝が遠隔地に播居する、それが起点であり、契機だろう。こうした、外来者を許容しやすいのが大規模集落なのであり、・・・(以下略)
土器形式圏の拡大
・ 土器には分布が広域化する型式と、拡大しても隣接地域に限定される型式がある。前者は画期に連動し、遠賀川系土器、櫛描紋土器、凹線紋系土器などがある。これらは地域を超えて広がるだけでなく、初期には型式としての安定性を保ち、後に拡散して在地化する。西日本では拡大を文化伝播とし、東日本では人々の移動(移住)に関係づける。一方が現象を指摘し、一方が背景を指摘しているわけだが、それはどちらにも当てはまることである。
 すでに一定程度の密度に集落が分布し、かつ固定されたならば文化伝播説は可能かもしれない。しかし、新しい現象が集落の形成と一体的に始まるなら、そこに伝播でなく新たなる人々の出現を見るべきではないのか。つまり、移住があったと。
 遠賀川系土器、凹線紋系土器は在来からの技術伝統に一致しない外来技術により製作され、器種組成も同様に伝統的生活様式には合致しない。とりわけ初期は在来系土器と明確に分離して共存するわけで、技術交流も無い。在来・外来という2系統の技術が並存する状況を、技術論に矮小化するべきではなく、それは社会論になるはずである。技術論では外来系技術の並存は学習によって可能になったと説明するが、誰がどのように伝達したのかが示されていない。活発な交流を前提にして同時多発的に産み出されたというのは、具体的な説明を放棄している。
 集落がすべからく定住集落であり、基点足りえたという前提のなかで技術拡散を説明することは可能だが、しかしそれは実態に合わない。ましてや、移住を挿入するならそうはならない。そもそも、自らの伝統的技術を放棄してまで何故他地域の土器型式を受容する必要があるのか。コミュニケーション的には圧力がかかったからであり、それこそが外圧である。空間的に分離した上での接触では強い圧力にはならない。空間的に重複したからこそ圧力になったのであり、まさに人々がせめぎあったのである。
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 北部九州から尾張平野と言う遠隔地にまず弥生前期に移住があった。それが起点となって後代にもその地に流入があった。それは遺跡が切り合わない。前代の墓を後代にも祀った形跡がある。高座結御子神社の周囲に古墳が営まれる。と言った経緯から前代と後代の人々には同族的繋がりがあったことを示している。
 たとえば、新沢千塚古墳は四世紀後半からおよそ200年間営まれるが、副葬品から伽耶系の渡来人と考えられている。そのピークは5世紀から6世紀にかけてであって、しかも新しい文物が流入している。つまり、先行者の居住地に後発の流入が続いたことを示しているのである。

 熱田台地の高蔵遺跡でも同じことが言える。弥生前期、遠賀川式土器を伴い北部九州から移住してきた人々がまず拠点を作り、そこへ後代にも断続的に移住があった。高座結御子神社の祭神、高倉下命という神概念がどの年代に醸成されたかは不明であるが、高座結御子神社を取り囲むように古墳が築造されているのであるから、初期の祭祀形態は不明ながら古墳時代にはすでに成立していたと考えてよい。



(一)「日本書紀」「先代旧事本紀」より
(二)高倉下を祀る神社

(四)熱田・高座結御子神社と遠賀・高倉神社
(五)(追記)神武天皇の問題点