(四)熱田・高座結御子神社と遠賀・高倉神社について

 1.高座結御子神社
 熱田神宮の北約800mにあり、熱田神宮の境外摂社になっているが、名神大社格の式内社である。
 元禄12年(1699)に書かれた「熱田宮旧記」によると、
・高蔵宮  方七十五間、南天門道幅二間長二百三十六間、西花表道幅六間長九十五間、華表際五本松、東西十間、南北十二間
 境内は135m四方、南天門道は幅3.6m長さは425m。西花表道は幅10.8m、長さ171mであった。熱田神宮の本宮には及ばないものの広大な敷地であったことがわかる。

 祭神については、『熱田神宮史料』に収められた古記録によると、熱田大神の御子神として、成務あるいは仲哀天皇とする記録がある。熱田大神を日本武尊とし、その御子だからと言うことになろうが、これはあくまでも熱田神宮が高座結御子神社を摂社として取り込んだ後に熱田社から見た場合そのような解釈になったと言うことであろう。
 明治26年から33年の間に書かれたと思われる「熱田神宮記」には、
・高座結御子神社  旗屋村鎮座
 式内名神大、祭神日本後紀承和二年預名神熱田大神御児神也トアリ、火明命ノ御子天香山命、一名ヲ高倉下命ト申ス、即尾張国魂神是也、越後国蒲原郡ニモ坐シテ弥彦神ト申ス、コレ皇大神ノ孫神ノ御子ナルカ故ニ弥トハ申スナリ、国内神名帳正二位高座結御子名神、末社四社アリ

 高座結御子神が熱田大神の御子であって、火明命の御子でもあるのであれば、熱田大神は饒速日あるいは火明命と言うことになる。高倉下が天香語山であれば、もちろん饒速日の子である。
 しかし、熱田神宮には、天照大神、素盞嗚命、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命を祭神としていて熱田大神はその総称神であるから、饒速日、火明命は表には現れない。
 「火明命ノ御子天香山命、一名ヲ高倉下命ト申ス」とあるのは、高座結御子神社が独自に持っていた社伝であり、上記引用の「熱田大神御児神也トアリ、火明命ノ御子天香山命、一名ヲ高倉下命ト申ス」とは、熱田神宮側の主張とを折衷したものと考えられる。
 つまり、現在の祭神高倉下命がもともとの高座結御子神社の祭神であったと考えてよい。


 2.高倉下の本貫地、遠賀郡岡垣町高倉神社
 では、高倉下の本貫地はどこであろうか。
 高座結御子神社と高蔵遺跡との関係から、高倉下は遠賀川式土器の発祥地とも深く関わっている。それは、高倉下を祀る神社が四国北岸、紀伊半島海浜、熱田台地と分布していることからも窺えるが、既述したように、北部九州に高倉下を祀る神社がないことをどのように考えるかが問題となる。
 そこで、もう一度高倉下の語義について考えてみると、高座結御子の「結」はムスビ(ムスヒ)、つまりタカミムスヒ、カミムスヒのムスヒ、産霊の意と考えられるから、タカクラ神の御子が高倉下と言うことになる。つまり、高座神を祀る一帯に本貫を持ち、外へ移住した人たちが祀った神と考えることができるのである。

 遠賀川河口には岡湊神社があり、川を少し遡ると西の小高い丘陵地に島津丸山古墳群がある。丘陵上には数基の古墳があるが、丘陵中央に方墳があり、前方後円墳は丘陵の端にあることから、方墳の方が古いとされている。
 この地域は、『先代旧事本紀』「天神本紀」に記される「天物部等二十五部人同帯兵杖天降供奉」のうちの「嶋戸物部」に比定される。
 同じく「筑紫聞物部」は遠賀川河口から東の企救に求められる。そのほか比定地には諸説あるが、芹田物部、筑紫贄田物部、あるいは、「副五部人為従天降供奉」の中の「筑紫弦田物部」と物部の故地と考えられる地域は北部九州の中でも遠賀川周辺に厚く分布している。

 岡湊神社の祭神は、「書紀」仲哀紀にも出てくるが、男神が大倉主、女神が菟夫羅媛である。この同じ祭神を祀っているのが、遠賀郡岡垣町の高倉神社である。高倉神社が本社、岡湊神社が下社の関係になっている。

 『筑前国続風土記』○高倉村 高倉社の項に
・この村は吉木村の南の山中にあり。海に近き事半里にして、山ふかく林茂り、川ながれていさぎよし。春は花、夏は緑、秋冬は紅葉多くして、いとおもしろき所なり。薪材木山蔬魚鹽ともしからず。かうやうの佳境は又他郷にもまれなり。高倉社は高倉村にあり。祭る所の神は大蔵主、菟夫羅媛の二神なり。天照大神をも相殿に祭奉るとかや。蘆屋邑に鎮座ある大蔵主、菟夫羅媛の本宮なり。むかしは大社にて神領も多かりしに、…(以下略)

 「遠賀郡岡垣町高倉鎮座 高倉神社御由緒略記」より引く。
・高倉神社は、日本書紀所載の古社にして、人皇第十四代仲哀天皇御勅祭の大社なり。大倉主命菟夫羅媛命の二柱を奉祀し、中世に至り天照皇大神を相殿に合祀す。往古は神田千町の勅定あり伊賀彦を祝部職と為し給ひ。往古は、社殿宏壮に廻廊をめぐらし、楼門を構へ二十余社に摂末社、境内に鎮座ありしが、今は、境内末社九社境外末社二社あり、社領の神田も正長年間(559年前)将軍足利義教の時代は、神田二十四町六段、垣崎の庄にて二百十四町歩あり。尚神林の地域も広大なりしが、豊臣秀吉及び小早川秀秋の時代に悉く没収せられぬ。氏子の地域は恩が川西二十四村にして、現時の岡垣町、芦屋町(山鹿を除く)遠賀町、中間市の底井野、垣生(下大隈を除く)の五町村にて、戸数三千余戸あり。

 つまり、高倉神社は遠賀川河口部から遠賀町一帯に氏子を持つ大社であり、その地域は嶋戸物部とも重なるのである。神社そのものは浅い谷状の周囲はまさに山深い感じがするが、北は海も近い。

 高倉神社の北の吉木には縄文時代からの元松原遺跡がある。弥生時代になると、ヤリガンナ、細形鉄矛、銅矛、中広銅剣、細形銅戈、中細形銅戈、銅戈鎔范(砂岩質の鋳型)、石戈、石剣などが出土している。鋳型が出ていることから青銅器の生産が行われていたことがわかる。

 遠賀川周辺は、この元松原遺跡にかぎらず縄文期の貝塚も多く点在していて、その多くは遠賀川西側のしかも山麓に近いところにある。このことから、かつての遠賀川はかなり川幅が広かったことがわかるが、逆に言うと平野部は現在より狭かったことを意味している。
 遠賀川を遡ると前漢鏡が副葬された立岩堀田遺跡があり、石包丁の生産地でもあり北部九州の流通ネットワークがあったこともわかっているから、遠賀川周辺にクニがあったことも理解できる。魏志倭人伝にその余の旁国のひとつに不呼国がある。不弥国の不は服部四郎の言うように于の誤字説を私は支持するが同じく不呼国の不も于の誤記と考えれば、于呼国。于呼とは乎可。つまり遠賀である。

 さて、高倉神社に戻る。
 『筑前国続風土記』も「高倉神社御由緒略記」も、高倉神社の祭神は岡湊神社と同じく、大倉主命菟夫羅媛命であり、高倉神社が本社、岡湊神社が下社であるとしている。 大倉主とはオオクラジとも読めるし、大倉主、高倉主の大も高も大きいの意で相通じるものがある。であるから、高倉下を祀る神社としては、岡湊神社、高倉神社の大倉主のことと考えられなくもない。
 ただ、『太宰管内志』は異なった見解を持っている。
・【高倉ノ縁起】【和漢三才図会】【和爾雅】らに祭神大倉主命菟夫羅姫を祭れる由云は中比に作れる当社縁起の説にて例の日本紀に牽強したるものなりされば古きものにはをさをさ見えざる事なり祭神実は詳ならず、〔高倉神社記略〕に高倉神其神高倉村高津峯に天降給弖其後今之所に鎮座し給ふ〕、社より四五丁南に山あり山の高さ三丁計もあるべし其山の北の麓に頓宮あり今は九月の祭りに此所までみゆきあり
と書いている。
 高倉神社の祭神が大倉主命でないとすれば、社名高倉神社によりどころを求めざるを得ないが、社名の如く高倉神であったと考えることもできる。
 つまり高倉下とはこの高倉神の御子神であったとも推測できるのである。


 以上、第一部では、石上神宮のフツノミタマは一貴山銚子塚古墳、東大寺山古墳、池ノ内7号墳に類例があり、年代は四世紀半ばから後半と考えられる。
 それは北部九州からもたらされた素環頭大刀である。
 第二部では、高倉下は遠賀川式土器発祥地と深い関わりを持ち、神名の語義から遠賀郡高倉神社に本貫を持つ神である可能性を指摘した。
 このことは、四世紀半ばから後半の年代に北部九州勢力の東進があったことを示唆しているのである。




(一)「日本書紀」「先代旧事本紀」より
(二)高倉下を祀る神社
(三)熱田・高蔵遺跡

(五)(追記)神武天皇の問題点