(追記)神武天皇の問題点

 神武東征を史実と見るか、机上のまったくの創作とみるか、あるいはその中間の、創作ではあるが幾分かの史実が反映されていると考えるか、というように諸説あることと思う。
 また、中間ではあっても神武は実在したと考えるか、後代の某天皇の事績が架上されたとする説もあるだろう。
 ことほどさように神武東征は一筋縄ではいかないのだ。
 私が本稿で石上神宮のフツノミタマを取り上げたのも、動機のひとつには、神武東征に実年代を与えたかったからである。
 本稿ではそれは、四世紀半ばから後半代と言う結論を得た。

 神武天皇に関わる考古資料はあとふたつある。
 ひとつは、竃山神社裏の五瀬命の墓、もうひとつは神武天皇そのものの墓である。
 『延喜式』諸陵寮に、
・竃山墓
 彦五瀬命。在紀伊國名草郡。兆域東西一町。南北二町。守戸三烟。

 竃山神社裏の小高い丘の上にある。東西約110m。南北220mくらいの兆域である。長方形の兆域である。円墳や方墳よりも前方後円墳、前方後方墳の広がりに近そうでもある。「守戸三烟」とは、『日本の神々 6:伊勢・志摩・伊賀・紀伊』によると鵜飼・木野・笠野の墓守り三家のことで、今もいらっしゃるそうである。
 と言うことは本当の墓であることは間違いない。
 皇兄であるために陵墓参考地となっていて近寄れない。墓の形状、副葬品も不明であるから年代を考えようにもその手立てがないのだ。

・畝傍山東北稜
 畝傍橿原宮御宇神武天皇。在大和高市郡。兆域東西一町。南北二町。守戸五烟。

 これも諸陵寮に書かれている。五瀬命と同規模の兆域である。
 だが、それと指摘できる墓がないのである。

 現神武陵は過去二度大改修が行われた。
 改修前の核となる墓は、畝傍山北東の神武田(ジブデン)と呼ばれる水田の中にミサンザイという小さな塚であった。
文久3年(1863) ここにさらに盛り土が施され円墳の神武陵が築かれた。
明治23年(1890) 橿原神宮創建。
明治31年(1898) 神武陵兆域拡大と参道の整備がはじまる。
大正4年(1915) 橿原神宮拡張

 これらの拡張事業に伴い、畝傍山東北稜の洞部落は現在の大久保町に移転。
 山頂に鎮座していた畝火山口神社は昭和15年、西麓の現社地へ降りられた。(畝火山口神社が山頂に鎮座以前のさらに旧社地については畝傍山東南の東大谷日女命神社とする説もあるようだ。)

 神武東征の年代を石上神宮フツノミタマに求めるとすれば四世紀半ばから後半と考えられるから、すでに大古墳が築造されていた時代である。初代天皇とされるほどの大王であるから、神武田の中の小さな塚がはたして神武陵にふさわしいかどうか、疑問である。
 五瀬命と言われる竃山墓は丘陵上にあり、兆域も広い。神武陵は水田という平野部の小さな塚である。
 このギャップから考えても神武陵ではない。

 神武陵を畝傍山東北稜の丸山陵とする説もある。
 2008年秋、何度も探しに行った。三度目はそこを通って行ったにもかかわらず墓と気がつかず素通りしてしまっていた。四度目、知り合いにお願いして連れて行ってもらった。
「何だ、ここだったのか」と。
「宮」と刻印されたコンクリートの柱が数本尾根の高まりを取り囲んでいてその手前にさほど広くはないが平坦地があった。
大久保まちづくり館で観たビデオやいくつかの資料によると、この平坦地には生国魂神社があった。大久保へ移転した洞部落の人たちが祀った神社である。その平坦地のすぐ後ろの高まりが丸山陵かと思われた。

宮と刻印された杭が後ろの高まりを囲んでいた。 高まりは尾根の続きで切り取られてもいなかった。

 だが、この高まりは尾根であって盛り土ではなく、しかもぐるっと回ってみたが尾根を切り取った形跡もないし、これまた墓であるとしてもきわめて小さいものである。
 だから私には墓とは思えなかった。少なくとも神武陵とは思えなかった。
 五瀬命と言われる竃山墓と比較しても、とても神武陵に比定はできない。
 このように、下記いずれにも該当する神武陵は存在しないのだ。『延喜式』諸陵寮はいったいどの墓に守戸五烟を付けたのだろうか?
 その伝承さえもはたしてあるのだろうか? 

記:御陵は畝火山の北の方の白檮の尾の上にあり。
紀:畝傍山東北陵に葬りまつる。
 四世紀半ばから後半くらいの大古墳に神武陵を求めるとすれば、桜井茶臼山古墳、メスリ山古墳が該当しそうである。しかも、神武東征軍の大和への入口に桜井茶臼山古墳はあり、メスリ山は磐余(イワレ)に比定される地区にある。
 神武は日向から、宇佐、遠賀川河口の岡湊、岡田宮を経て東征するが、一方応神天皇は北部九州誕生の伝承を持ち、東進する。両者の年代もかなり微妙であって、同時代のようにもみえるから、応神の事績を神武に割り振って架上したとする説もあるし、私もじつはそう考えていたのだが、神武がひと世代かふた世代早いようにもみえるし、記紀が伝える神武の故地は南九州のようにも読める。

 というようなわけで神武問題自体はまだまだ闇の中だ。





【参考文献およびサイト】
西宮一民『古事記』新潮社
『神道体系 神社編12:大神・石上』(神道大系編纂会 1989)
『日本の神々 4:大和』(白水社)
藤井稔『石上神宮の七支刀と菅正友』(吉川弘文館)
http://osaka.yomiuri.co.jp/tokudane/td70115a.htm(リンク切れ)
(「水戸学の心意気 歴史研究に没頭」)
今尾文昭「素環頭鉄刀考」『橿原考古学研究所紀要考古学論攷第8冊』
山内紀嗣『東大寺山古墳と鉄刀』第180回トークサンコーカン資料
『ホケノ山古墳の研究』(橿原考古学研究所研究成果 第10冊)
http://www.city.maebaru.fukuoka.jp/city/bunka/ito-museum/deji-5.htm(リンク切れ)
(伊都国歴史博物館)
石野博信編『全国古墳編年集成』(雄山閣)
『巨大埴輪とイワレの王墓』(橿原考古学研究所附属博物館)
大塚初重編『増補・新装版古墳辞典』(東京堂)
早乙女雅博『朝鮮半島の考古学』(同成社)
『日本の古代 5:前方後円墳の世紀』(中央公論社)
佐伯有清『新撰姓氏録の研究 本文篇』(吉川弘文館)
『国史大系第七巻 古事記・先代旧事本紀・神道五部書』(吉川弘文館)
『日本書紀』(小学館)
「高座結御子神社の栞」
http://www5a.biglobe.ne.jp/~cath-ta/i7-dokuhaku.htm(リンク切れ)
(哀号独白)
http://homepage3.nifty.com/silc/hoshi/aru_sisin/44_ri_ginte_san.html(リンク切れ)
(あぁ李鎮泰兄弟!)

http://kamnavi.jp/it/takakurakami.htm
(天火明命の子 高倉下、天香山命と武位起命を祀る神社の一覧)
埋蔵文化財調査報告書45 高蔵遺跡(第1次)(名古屋市教育委員会)
埋蔵文化財調査報告書46 高蔵遺跡(第34次・第39次)(名古屋市教育委員会)
埋蔵文化財調査報告書47 高蔵遺跡(第35次〜第38次・第40次・第41次)(名古屋市教育委員会)
http://home.p07.itscom.net/strmdrf/kagami.htm
(鏡の考古学)
http://www.yamagatamaibun.or.jp/kankoubutsu/kenkyuukiyou/kiyou_1/2003_takahashi.pdf
(最北の破鏡)
http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/kiyo08/0803ishi.pdf
(弥生時代移住論覚書‘07)
『熱田神宮史料―縁起由緒編』(熱田神宮宮庁)
http://www.lib.nakamura-u.ac.jp/kaibara/fudo/pdf/f14.pdf
(『筑前国続風土記』)
「遠賀郡岡垣町高倉鎮座 高倉神社御由緒略記」
 岡垣町文化財調査報告書第4集『元松原遺跡』(岡垣町教育委員会)
 伊藤常足『太宰管内志』(太宰管内志刊行会)
『日本の神々 6:伊勢・志摩・伊賀・紀伊』(白水社)
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/48548/1/83_19.pdf
 (高木博志「近代における神話的古代の創造」)
『日本の神々 4:大和』(白水社)
服部四郎『邪馬台国はどこか』(朝日新聞社)



(一)「日本書紀」「先代旧事本紀」より
(二)高倉下を祀る神社
(三)熱田・高蔵遺跡
(四)熱田・高座結御子神社と遠賀・高倉神社
(五)(追記)神武天皇の問題点