八ヶ岳 (Aug.10/12, 2002)


8月10日(土)

 感激した。
 富士山が意外にもしっかりと見えたからだ。
 観音平から編笠山への道は落葉松の森の中を歩く。道はしっとりと足にフィットしじつに歩きやすい。岩も靴がしっかりとつかんでくれる。
 そろそろ一本取ろうという頃、木の間越しに富士山が見えた。
 「おい、湯浅、富士山が見えるで」
 「うん、そうだね」
 をひ、いつも見てるからつてその冷淡な返事はなからうよ。こつちは普段見慣れてないんだから、見えればやつぱり感激する。去年なんかわざわざ見に行つたくらいだ。

 樹林帯を抜けると急登になるが、これがまた展望が良いのだ。平野部が一望できる。田んぼや、街並みがきれいに見える。その平野部の向こうに富士山、南アルプスが見える。編笠山の山頂に立てば諏訪湖も見える。八ヶ岳連峰は平野部にすくっと立ち上がった山であることが実感できる。地図を見ながらようやく、それぞれの位置関係がぼんやりと頭に入ってきた。
 ここで昼ご飯。湯浅が持ってきたおにぎりを食う。なんでも新宿で朝6時半から開いてる店らしい。

 話を観音平に戻す。9時に小淵沢で待ち合わせてタクシーに乗り観音平に着いたとき、軽装の老人が木の枝を杖にして歩いて上がってきた。
 僕たちがトランクからザックを下ろしていると、ベンツがどうのと話しかけてこられた。はじめのうちはなんのことかさっぱりわからなかったけれど、ベンチに腰掛けて話を聞くと、数日前ここにベンツが駐まっていて、中には高級なバッグがあり、スーツもあり、さらに宛先がそれぞれ異なった四通の手紙があった。
 「それって遺書ちゃいますの?」
 「そうだと思う」
 「死にに来たってことですね?」
 「そうだろうね。ところがまだ死体が出てこない。普通山で死人が出ると烏がまずさわぐが、それらしい気配もない。冬山で遭難すると春雪が解けて死体が出る。烏がさわぐからすぐわかる」
 さらにいろいろ聞くと、京都の某国立大学の脳神経外科の先生だった。夏休みでこちらに来ているが、気になるから今日も探しに来たのだと。
 今西錦司や槙有恒の流れを引く学士山岳会で若い頃は鍛えられたのだとか。ついには、パッキングの講義を受けてしまった。人なつこい先生だった。お名前もお聞きしたが伏せておく。

 岩場をトントンと青年小屋へ下る。今日の幕営予定はキレット小屋だ。地図上ではあと2時間40分である。そのキレット小屋にも水マークがある。だから、「道中の飲み水だけあればいい」と500ccのペットボトルだけを持って水場まで行くと、西岳を経てきたボッカのお兄さんが休んでいた。いま、ネットで検索してみると小屋の御主人、竹内敬一氏だった。
 「最近雨が降らないからねぇ。水場も細くなって。ホントはひと雨欲しいところなんだけど。で、これからどうするの?」
 「キレット小屋まで」
 「こんな時間に? 予約してるの?」
 時計を見ると3時を回ろうかという頃である。
 「いえ、テン泊です。ま、日も長いですし」
 「あそこの水場はここより細いから、涸れてるかもしれないな。行くんだったらここで汲んでおいたほうがいいと思うよ」
 これは、適切なアドバイスだ。
 再びポリタン、空のペットボトルを取りに小屋まで戻る。
 結局二人で5リットルを担ぐことになった。

 そろそろ出かけようという頃、その御主人、
 「キレット小屋へ着いたら小屋の主人に水場の状況をこちらに伝えるように登山者に伝言してくれるように頼んどいて」
 「了解」
 先々週の北アルプスでは雪渓からの水がふんだんにあった。ここでは雪はもうないから雨だけが頼りなのだ。

 樹林帯を抜けると権現岳までは見上げるほどの急登である。
 「おい、休もうぜ」
 僕たちはなんともだらしのない山歩きなのである。
 見晴らしのいいところで休みながら、「お前、ちょっと太ったな」。
 一回目の尾瀬と二回目の蝶から常念、大天井、燕のときは断然湯浅の方が体力があった。僕などよりはるかに山向きの体格と言って良かった。僕自身はさほど変わっていないと思うけれど、少し痩せたかもしれない。湯浅はちょい太ってきたようだ。
 「そりゃあ、平地ばっかり歩いてたらな。ストックまがいの棒を持って」

 ギボシ岳を巻きつつ急登を権現岳への尾根に出ると正面に赤岳がバンと見えた。西日が当たって山肌が本当に赤い。左へぐっと下り小さな膨らみが中岳。それからさらに左へぐっと登ると阿弥陀岳である。ここからの赤岳および横岳、硫黄岳への主稜線の眺めは素晴らしいに違いない。
 いちおう、明日は空身で行く予定である。
 「おい、明日、行くか?」
 「う〜ん、そうだなぁ…」
 じつは僕はこのギボシ岳を権現岳と勘違いしていて、「ちょっとピーク踏んでくるわ。すぐやから」と、本当に1分もかからないピークへ登るとギボシ岳だった。
 権現小屋を過ぎるとすぐ右の大きな岩が権現岳の山頂。
 「どうする?」
 「やめとこう?」
 行くにしても高所恐怖症だから岩の上には立てそうもない。

 長い長い梯子を下って、ひとつふたつと小ピークを越えて、それでもまだキレット小屋へ着かないし見えない。
 「地図の時間、間違ってるんとちゃうか?」
 なあんて、自分たちのゆっくりさ加減は棚に上げている。キレット小屋というくらいだから最低鞍部にあるはずだ。いよいよ最後の下りをまだかまだかと言ってるうちについに青い屋根が見えた。

18:40
 やっと小屋に着く。主人はまだ若く。胸に「皇帝」の名札をつけていた。青年小屋からの伝言を伝えると、「そうですねぇ、20リットル汲むのに1時間はかかりますね」。
 僕たちは薄暮の中、とりあえずビールで乾杯する。
 テント場は小さいし、すでに数張り、平坦地を探すのに右往左往である。隣りにひっつくほどの狭さだけどようやっと張れた。
 満天の星に違いなかったが、もはや外を見る元気もなく酒を飲んで、ラーメンを一個作り、二人で分けておにぎりをほおばるとすぐ寝てしまった。


8月11日(日)

 きょうも晴れ。富士山がきれいに見える。
 爆睡のおかげで昨日よりも元気だ。
 コーヒーを沸かす。
 「湯浅、飲むか?」
 「要らねえよ」
 「ひたすらヴォルヴィックあるのみ、やな?」
 「習慣がねえんだよ。コーヒーとか紅茶とか」
 これでも彼は海外勤務はずいぶん長いのである。

 「さ、行くぞ」
 赤岳山頂まで約500mの登りである。
 途中で朝ご飯。パンをかじる。トマトが3個ある。
 この世の中にトマトほど美味いものはない。
 「1個食うか?」
 「・・・」
 湯浅は逡巡していたけれど、
 「ほんまに美味いって」
 山中では生鮮食料品が不足するから少しでも食べておいた方がいい。

 赤岳山頂はもうすぐそこだが、鎖場、梯子が続く。岩場をよじ登るときちょうど朝日が正面から目に入った。前が見づらい。
 この時間になると山頂からこちらへ下る人もそこそこいる。下りではけっこう神経を使いそうである。
 山頂直下、阿弥陀岳の分岐に来る。
 「おい、どうする?」
 「やめとこうか?」
 「あはは、そうするか」
 僕もあっさりと同意してしまう。予定はいつも少し欲張りぎみである。
 ひとつでも未練を残しておいたほうが、次にまた来ようというきっかけにもなろう。

09:20
 赤岳山頂。展望よし。北へ向かう稜線が見える。大同心、小同心を教えてもらった。
 「はあ、はあ」と相づちを打ちながら、じつは僕はまったく違うものを見ていたようである。
 すぐ下には行者小屋、赤岳鉱泉。東、南、西と平野部がきれいに見える。富士山も南アルプスも。東には、行ったことはないけれど聞こえるところによれば金峰山などが見えている。北アルプス方面に転じるとちょうど稜線あたりに雲が付いていた。雪渓がまだ残っているからそれが水蒸気となり雲になりやすいのだろう。あるいは、日本海の前線の影響を受けているのだろうか。このあたりとは若干気候が異なっているように思われる。

 (参考までに、8月9日 西穂から奥穂を歩かれた僕たちの仲間どんかっちょさんの報告の一部を引用させていただく)
9日4時出発最初はガスの中、太陽が昇っても展望ガ無く
  そのまま進行したが風も強くなり天狗のコルから雨となり
  最悪、ジャンダルムでは山頂を踏んだが下山時スリップしあわや?
  無事に切り抜けどうにか建て直し、最後の馬の背も征服して
  奥穂山頂へ。祠にお参りしたものの三角点も踏む力なく、方向表示円盤
  も見ずひたすら山荘へくたくたで到着、それでも12:30過ぎでした。


 頂上小屋で湯浅はCCレモンを300円で買った。僕はバッジを買った。
 その後彼は、夏沢峠、高見石小屋でも同じ物を買ったが、この赤岳頂上小屋がもっとも安かったと言う。
 
 赤岳展望荘までずりずりと下り、それから横岳までは鎖、梯子が随所にあった。その横岳でちょうどお昼になった。大休止。ラーメンライス。
 お湯を沸かし、ご飯を温めている間、僕は地図を見ながらきょうの幕営地について考えていた。当初の予定ではオーレン小屋だったが、それは阿弥陀岳の往復の時間を考慮してのことだから、阿弥陀岳へ行かなかった分、幕営地はもっと先でもいいはずだ。じじつ、ここからオーレン小屋までならもうそんなに時間はかからないはずだ。とは言うものの僕たちのペースは自慢できないけれど。黒百合ヒュッテまで行っておけば明日は楽になる。
 初老の御夫婦が今朝6時に黒百合ヒュッテを出て、12時に横岳である。
 「うーん、どうしよう?」
 「ま、硫黄岳まで行ってから考えることしようや」
 「ま、それもそうだな」

13:50 
 硫黄岳への登りはなめらかだが、広い尾根でガスが出れば迷いやすい。ケルンが数箇所にあり道標になっていた。赤岳からはなめらかに見えていた硫黄岳も東側は噴火口あとだろうかスパッと切れていた。
 「黒百合ヒュッテまで行こう」と湯浅。
 「OK。・・・、そうや、アルミバイタルがあるわ。これ飲んどき。仲間内で流行ってんねん」

14:50
 夏沢峠。「モモンガ」の写真があった。ぼくは今まで架空の動物だとばかり思っていた。リスに似ていた。
16:20
 ふたたび落葉松の樹林帯の中を歩き、それを抜け根石岳を過ぎ東天狗岳。
 三角点は西天狗岳にある。ガスっていたけれどすぐ目の前にある。片道10分だ。
 「どうする?」
 「田上、お前行ってこいよ。待っとくから」
 「へへへ」
 ここにも未練を残してしまった。
 ほどなく、おそらく60をいくつか回ったくらいのお年ではないかと思うが、ダブルストックでひょいひょいと上がってこられた。
 今朝、観音平を出発されたのだと言う。
 「え?」
 「4時9分に出てきました」
 「で、ここまで? すごーい」
 僕たちは昨日出発した。二日がかりでここまで来たのを一日で追いつかれてしまったのだ。
 御本人はペースは決して速くない、むしろ遅いくらいだとおっしゃる。ゆっくりゆっくり自分のペースで歩けば体力は消耗しないから。ただし、めったに休まないのだそうである。黒百合ヒュッテで幕営予定とのこと、「じゃあ、ご一緒しましょう」と言いつつもすぐに見えなくなってしまった。
 昨日観音平でお会いした先生と言い、この方と言い、筋金が入っている。
 僕たちは、ヒュッテ手前でさらに一本取った。

17:45
 中山峠で主稜線から西へ5分ほど入ったところに黒百合ヒュッテ。
 さっきのおじさんはすでに設営済みである。
 テント場は一人千円。ちょい高い。テントは地面にも設営できるが、プラットフォームが作られていてそこに設営すれば、畳一枚ほどの板が百円。三枚は必要だ。
 水場は涸れている。一人2リットルまでは提供します。直接厨房へ来てください。西側の新しい建物はトイレです。
 昨日より少し早く着いた。まずはビール。
 それからテントを設営し、
 「おい、田上、ワインがあんだよ。ボルドーのマルゴー」
 なんだかよくわからないが高級らしい。
 「なあに、商品券で買ったから」
 点滴用のポリ袋に詰め替えていたのでまるで輸血してるみたいだ。
 「な、そうだろう?」
 「ま、いいから早く飲もうや。うん、うまい」
 「そうだろう? 喉にひっかからないだろう? 渋くもないだろう?」
 そんなこんなであとはウイスキーを飲み、麻婆春雨、アルファ米。

 僕はまだ起きておられたようなので、ウイスキーを持って先ほどのおじいさんのテントに表敬訪問に行った。つい先日、早月尾根から剱へ。明日は、北横まで行き、麦草峠の最終のバスに乗り、大菩薩をやるパーティがあるからそれに合流するのだとか。
 いやはや。

 
8月12日(月)

 5時起床。コーヒーを沸かし、それからきょうの飲み水を沸かして紅茶を作る。
 そうこうするうちに、「じゃお先に」と昨日のおじいさんはもう出発である。
 僕たちは麦草峠で11時45分のバスに間に合えばいい。麦草峠までは地図上では二時間半である。
 展望台で一本。ガスの中で何も見えない。
08:00
 高見石小屋。
 高見石からは木々に囲まれた白駒池が見えた。縞枯山方面も、いま下ってきた丸山方面も木々に包まれている。北八つの風情の一端に触れたようである。これもまたいい。
 峻険のみが山にあらず。
 しっとりと落ち着いた道を逍遥するのも悪くない。
 「おい、田上、次は北八つにしようか?」
 「男二人で行ってどーする?」

 滑りやすい足元に気をつけながらぐんぐん下る。いよいよフィナーレが近い。車のエンジン音が聞こえ始めた。もう、本当に終わりなのだ。



09:35
 山道をひょいっと曲がると左手に赤い屋根の小屋が見えた。麦草ヒュッテだ。周りは一面のお花畑。
 「いいね、いいねえ」
 僕たちはビールで乾杯したあと、このお花畑を散策した。山道では花の写真を撮る余裕もなかったので、ここで数枚撮る。
 11時45分、バスに乗って横谷温泉に入る。風呂から出たらほどなくバスが来た。
 「メルヘン街道バス」。小型バスで、外観をメルヘンチックに化粧している。
 メルヘン街道と名づけられた道路脇のおしゃれな店やハーブ畑を眺めながら茅野に着いて遅めの昼ご飯。
 僕たちは「また来年」と言って握手をして別れた。



湯浅との山行集
1999年:尾瀬(1999夏)
2000年:蝶−燕縦走記(Jul.29-31,2000)
2001年:北岳−ずっとそこに見えているのに…(Aug.16/19, 2001)