(第六章) 遠賀とヤマトタケル

 遠賀川周辺にはヤマトタケルを祀る神社が多い。どのような理由によるものであろうか?

1.記紀のヤマトタケルの熊襲征伐行では、遠賀を通った記事はないのだが、地元の伝承では通過したことになっていて、その際、鎧を埋めた、木を植えたなどの伝承もある。

2.高倉神社、古物神社の伝承にあるように、盗難事件の際、草薙剣が一時安置されたことに因み、さらに地域に広がった。

 などが考えられるが、奥野正男氏は「こうした各社の伝承に共通するのは剣霊を祀るということで、この祭祀圏の深層には、日本武尊伝承が社伝として語られる以前の、物部氏の兵仗を祀る古い祭祀があったと考えられるであろう」(『日本の神々 1 九州』剣神社の項)と述べている。
 たしかに遠賀川周辺には、『先代旧事本紀』「天神本紀」に見られる天津物部等二十五部人のうち、芹田物部、嶋戸物部、筑紫聞物部など比較的厚く集住した地域である。
 朝廷の武器庫を管理した物部であるから、もともと剣霊を祀っていた地域であったろうことはそのとおりだと思う。
 しかし、それがヤマトタケルを祀ることにストレートには繋がらない。

 なぜなんだろう? 
 じつは、長くわだかまっていたのだが、本稿でようやく私なりの解を得た。

 ヤマトタケルは、天日別、大若子と同じく、標剣としての草薙剣を賜って東国へ遠征する。再度述べると、ヤマトタケルとは天日別、大若子を祖に持つ磯部氏によって語り継がれた伝承を祖形として形成されたと考えられる。
 天日別の氏一族としての磯部氏の出自が遠賀川周辺であったことを考えたときにはじめて、この遠賀にヤマトタケルが祀られることが納得できるのではないだろうか。
 そのヤマトタケルを媒介にして、伊勢・度會から同族の尾張・熱田へ標剣がもたらされ、度會・熱田の同族間で鏡と剣の宝器が分有されることになるのだ。
 このことこそ、ヤマトタケル物語以上のドラマである。しかし、史実なのである。


 
『太宰管内志』筑前國
遠賀郡
・高倉神社(高倉村)
 「洪鐘ノ銘」に大日本國西海道筑前州垣崎庄高倉八釼大明神
・杉守神社(香月村)
 杉守宮は遠賀郡香月村に在て日本武尊を祭る近邊五村ノ産沙神なり
・八釼神社(立屋敷村)
 祭神は尾張國熱田宮を勧請せり
・朝木大明神社(下底野井村)
 此村ノ産沙神なり、日本武尊を祭る
・八剣大神社(本城村)

鞍手郡
・新延八剣神社(新延村)
・新入八釼神社(新入村)
 尾張熱田宮を祝へり
・中山釼神社(中山村)
・木月八釼神社(木月村)
 木月・上木月両村の産沙神なり

『筑前國続風土記』鞍手郡
・釼岳(此山鞍手郡の中央に只一あり。故に中山共云。)
 中山村にあり。村より七町ある坂を登る。山上に釼大明神の社あり。故に釼岳と號す。社は巽に向へり。凡此邊に、釼大明神を祭る社八社有。中山村、新入、龍徳、新北、新延、下木月、遠賀の本城村也。

『日本の神々1.九州』
・剣神社 (直方市下新入字亀岡)
 剣神社と八剣神社は鞍手郡、直方市の北部、遠賀郡、北九州市八幡西区までのかなり広い範囲にわたって分布し、祭神はともに現在は日本武尊である。このほか同じ祭神であるが社名の異なる浅木神社(遠賀町)、熱田神社(鞍手町)、古物神社(同)などを加えると十数社が一つの祭祀圏を成している。



第一章 天照大神と素戔嗚神話
第二章 草薙剣の形状と語意
第三章 草奈伎神社―標剣としての草薙剣
第四章 孝徳天皇期における伊勢と熱田、及び
第五章 沙門道行による草薙剣盗難事件


(付)安徳天皇入水事件