(第三章)草奈伎神社―標剣としての草薙剣

古事記上つ巻
・しかして、天の児屋の命・布刀玉の命・天の宇受売の命・伊斯許理度売の命・玉祖の命、并せて五つの伴の緒を支ち加へて天降したまひき。ここに、そのをきし八尺の勾玉・鏡また草なぎの剣、また常世の思金の神・手力男・天石門別の神を副へたまひて、詔らししく、
 「これの鏡は、もはらあが御魂として、あが前を拝ふがごとくいつきまつれ」
書紀神代下第九段一書第一
・ 故、天照大神、乃ち天津彦彦火瓊瓊杵(あまつひこひこほのににぎ)尊に八坂瓊曲玉と八咫鏡・草薙剣、三種の宝物を賜ふ。
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 古事記、書紀一書は天孫降臨の際にすでに草薙剣も携行されたと書く。そうであれば、神武東征の際も、天照大神伊勢遷座の際も携行されたことになるが、記紀ともに触れていない。神武東征から天照大神伊勢遷座にかけて、草薙剣については空白期なのである。
1. 記紀が触れていないだけで、神武東征の際も、天照大神伊勢遷座の際も携行された。
 じじつ、『古語拾遺』は崇神天皇の項に「倭の笠縫邑に就きて、殊に磯城の神籬を立てて、天照大神及草薙剣を遷し奉りて皇女豊鍬入姫命をして斎ひ奉らしむ」とあり、「倭姫命世記」も同文を襲っている。
 しかしながら、西宮一民は、「この伝が忌部氏代々の伝承であったか、それとも広成の書紀読解の一成果によるものかは明らかではない」と補注で書いている。
2. スサノヲは伊勢・度會宮の天照大神に直接献上した。
 この二つが想定されるが、草奈伎神社について考えるうちに一つの結論を得た。それは、神武東征時に携行され、伊勢を平治した天日別がそのまま伊勢に安置、祀らせたものではなかったか、ということである。

■『風土記』伊勢國 伊勢國號
・伊勢の國の風土記に云はく、夫れ伊勢の國は、天御中主尊の十二世孫、天日別命の平治けし所なり。天日別命は、神倭磐余彦の天皇、彼の西の宮より此の東の州を征ちたまひし時、天皇に随ひて紀伊の國の熊野の村に到りき。時に、金の烏の導きの随に中州に入りて、菟田の下縣に到りき。天皇、大部(おほとも)の日臣命に勅りたまひしく、「逆ふる黨、膽駒の長髄を早く征ち罰めよ」とのりたまひ、且、天日別命に勅りたまひしく、「天津の方に國あり。其の國を平けよ」とのりたまひて、即ち【標(しるし)の剣】を賜ひき。天日別命、勅を奉りて東に入ること數百里なりき。(中略)
 天日別命、此の國を懐け柔して、天皇に復命まをしき。天皇、大く歓びて、詔りたまひしく、「國は宜しく國神の名を取りて、伊勢と號けよ」とのりたまひて、即て、天日別命の封地の國と為し、宅地を大倭の耳梨の村に賜ひき。(或る本に曰はく、天日別命、詔を奉りて、熊野の村より直に伊勢の國に入り、荒ぶる神を殺戮し、まつろはぬものを罰し平げて、山川を堺ひ、地邑を定め、然して後、橿原の宮に復命まをしき。)(『萬葉集註釈』)
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 神武東征に随行した天日別は伊勢国の平治を命ぜられ剣を賜る。標剣(みしるしのつるぎ)である。伊勢への経路として本文は宇陀の下縣から東の伊勢へ向かったと書くが、或る本には、熊野から直接伊勢へ向かったとも書かれている。「伊勢神宮の創祀と皇祖神」でも書いたように、「伊勢の志摩から度會、多氣郡相可に集住した磯部氏は、遠賀川河口周辺出自と考えられるのである」から、天日別の母体としての磯部氏の移動としては「或る本」の流れもじゅうぶん想定される。

■『豊受太神宮禰宜補任次第』
大若子命。(一名大幡主命)
 右命。天牟羅雲命 子天波與命 子天日別命第二子彦國見賀岐建與束命第一子彦楯津命第一子彦久良為命第一子也。
 越國荒振凶賊 阿彦在(天)不従皇化。取平(仁)罷(止)詔(天)。標剣 賜遣(支)。即幡主罷行取平(天)返事白時。天皇歓給(天)。大幡主名加給(支)。
 垂仁天皇即位二十五年(丙辰)。皇太神宮鎮座伊勢國五十鈴河上宮之時。御供仕奉為大神主也。
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 大若子命は、天日別の裔。彼もまた標剣を賜って越国の平定に向かう。平定後、大幡主の名を給う。
系譜としては、天牟羅雲命―天波與命―天日別命―彦國見賀岐建與束命―彦楯津命―彦久良為命―大若子命(大幡主命)。
■『二所太神宮例文』
第四 豊受太神宮 度會遠祖奉仕次第
天牟羅雲命 天御中主尊十二世孫。天御雲命子。
天日別命 天牟羅雲命子。神武天皇御世奉仕。
玉柱屋姫命。(伊雑宮)
建前羽命
大若子命(大神主) 彦久良為命子。垂仁天皇御代奉仕。
乙若子命 大若子命弟也。
(以下略)
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 上の二つの系譜は若干異なるが、ともに天牟羅雲を祖としている。

大間国生神社(大若子、乙若子) 草奈伎神社(御剣仗)

 大若子命、その弟の乙若子命を祀る神社が大間国生神社。外宮から西の宮川へ向かって1kmほどのところにある。その大間国生神社の隣に草奈伎神社がある。祭神は御剣仗(みしるしのつるぎ)神である。
 クサナギの語意についてはすでに書いたとおりで、クサナギと剣が結びつくのは、スサノヲから献上された草薙剣を措いて他には見当たらない。したがって、大若子命が賜った標剣とは、この草薙剣と考えてよいのだが、天日別が賜ったものと同一のものかとなると、即断はいたしかねるが、上に引いた系譜では、祖を天牟羅雲命とするのは共通していて(『先代旧事本紀』「天神本紀」には、天村雲命 度會神主等祖とある)、天叢雲剣と名を同じくしていることを考えれば、天日別の標剣もまた草薙剣と考えてもあながち強引とも思われない。その考えに立てば、草薙剣は神武東征時に携行されたことになる。
天日別も、大若子も標剣を賜って遠征する。その標剣としての草薙剣を、ヤマトタケルもまた伊勢において倭姫命から授けられ、東国へ遠征する。
 三者は同じ位相にあると言ってよい。
 それから考えると、ヤマトタケル東国遠征説話の祖型は、天日別命、大若子命を祖とする磯部氏によって語り継がれた伝承ではなかったか。

 さらに、「天孫本紀」によると、天村雲命は、天香語山命(亦名高倉下命)の子であり、「天神本紀」では「天村雲命 度會神主等祖」である。
 高倉下については、先に書いた「石上神宮のフツノミタマと高倉下命をめぐって 第二部:高倉下は何者であるか」で、遠賀川式土器を伴う熱田・高蔵遺跡、高座結御子神社の祭神高倉下と遠賀川周辺地域との関連を指摘した。
 「伊勢神宮の創祀と皇祖神」では、相可(おうか)、相賀(おうか)の地名と乎加(おか)の類似、天手力雄、猿田彦など祭神などから、天日別の母体である磯部氏の出自について遠賀川周辺を指摘した。
 そうすると、神武天皇は東征時に、筑紫の岡田宮(記)、筑紫国岡水門(紀)に立ち寄るが、このとき天日別は高倉下ともども誘われたと考えられる。なぜ、神武が宇佐から東の大和へとは反対方向の岡水門に立ち寄ったのかの疑問はこれで解けるのではないだろうか。
 遠賀川周辺には、強力な武力集団がいたのである。

 また、高倉下命の御子が天村雲命、天村雲命の御子が天日別であるから、高倉下と天日別は祖父と孫の関係、同族・同胞なのである。
 つまり、伊勢・度會と尾張・熱田もまた遠賀川周辺を出自とする同族・同胞関係ということになる。図示すれば次のようになる。

 遠賀→尾張・熱田(高倉下)
           ‖高倉下―天村雲―天日別
 遠賀→伊勢・度會(天日別)


 ちなみに、伊勢・度會には天牟羅雲命を祀る神社が三社ある。
・世木神社(伊勢市駅の西斜め隣)
・豊川茜稲荷神社(豊川町。勾玉池の隣。外宮の社叢の中)
・船江上社西殿(船江。外宮から線路を海側へ渡る。河原渕神社の隣)

 草薙剣は、その同族の中で語り伝えられたヤマトタケル(その祖形伝承)によって、伊勢・度會から尾張・熱田へもたらされた。これにより、度會と熱田は同族・同胞間で八咫鏡、草薙剣という宝器を分有したことになるのだ。
 それは同族間における私的な事件だったのか、当時の為政者(天皇)による政治的な意味があったのか。
 また、遠賀川周辺には、ヤマトタケルを祀る神社がいくつもある。第六章で触れることにしたい。


第一章 天照大神と素戔嗚神話
第二章 草薙剣の形状と語意

第四章 孝徳天皇期における伊勢と熱田、及び
第五章 沙門道行による草薙剣盗難事件

第六章 遠賀とヤマトタケル
(付)安徳天皇入水事件