伊勢神宮の創祀と皇祖神 (Mar.13, 2011)
(本稿は井上筑前守さん主宰の同人誌「風の中へ 第11号」(2010)に投稿したものに若干、加筆訂正を行った)
(はじめに)
伊勢神宮の創祀については諸説こそあれ、まだ定説と言えるものがない。「日本書紀」には、天照大神の伊勢遷座について書かれているにも関わらず、先学諸氏の論考はその記述通りには受け取っていないのである。
なぜこのようなことが起こるのか?
それは日本書紀の編集方針が事実を歪めている、事実を隠してしまった、事実を書ききれなかったからではないか。
その編集方針とは、天照大神は皇祖神であり、天皇家は一連の皇統譜として連綿とつながっているという設定である。
これにはさすがに無理がある。
・神武天皇と崇神天皇は繋がっているのか?
・崇神天皇と応神天皇は繋がっているのか?
・応神天皇と雄略天皇は繋がっているのか?
などなど、いくつかの疑問符がつく。
日本の古代史を編纂させたのは天武天皇の「功」だが、反面、上記の設定による歴史事実の改変は「罪」と言わなければならない。
もちろん、書紀編纂時から数百年以前のこと、文字による記録も覚束ない時代のことであるから、はたして事実がどれほど伝承されていた否かの問題もあるかもしれない。
先学の諸説もおそらく以上のような事情を勘案したはずである。
本稿では、表題どおりに、伊勢神宮の創祀について論考を進めるが、結果として管見ながら先学諸氏とも異なる結論に至ることとなった。煩雑を避けるために、5W1Hを念頭に、まず結論を先に書き、それぞれの根拠を示していくことにする。
読者諸氏の忌憚のないご批判を請う。
では、結論を書く。
(1) 雄略天皇期、丁巳年(477年)冬十月甲子の日に、天照大神(八咫鏡)は大和から伊勢・度會の山田原の度會宮(現在の外宮の地)に遷された。
(2) 書紀完成に近い頃、天照大神は山田原の度會宮から、現在の宇治里の五十鈴川川上に遷された。
これが、天照大神の伊勢遷座の骨子である。
また、多氣・度會の地の性格、外宮の豊受大神も、伊勢神宮を解明する重要な要素であるから、可能な限り言及するが、とくに多氣について、豊受大神の山田原遷座については、まだまだ不明な点が多いことをお断りしておく。
(第一章)whenとwho
「日本書紀」によると崇神天皇の時代までは、天照大神と倭大国魂の二神を「天皇の大殿の内」に祭っていたが「其の神の勢いを畏り、共に住みたまふこと安からず」と殿外に出し、逆に「天皇、何ぞ国の治まるらざることを憂へたまふや。若し能く我を敬ひ祭りたまはば、必当ず自平ぎなむ」「天皇、復な愁へましそ。国の治らざるは、是吾が意なり。若し吾が児大田田根子を以ちて吾を祭らしめたまはば、立に平ぎなむ。亦海外の国有りて、自づからに帰伏ひなむ」と曰う大物主神を、茅渟県陶邑の大田田根子をして三輪山に祀らせるのである。
崇神天皇は大田田根子に問う。
・「汝は其れ誰が子ぞ」
大田田根子は言う。
・「父を大物主大神と曰し、母を活玉依媛と曰す。陶津耳が女なり」
古事記では、
・「あは、大物主の大神、陶津耳の命の女、活玉依毘売を娶りて生みたまへる子、名は櫛御方の命の子、飯肩巣見の命の子、建甕槌の命の子、あれ意富多々泥古ぞ」
書紀では、大田田根子は陶津耳の娘=活玉依媛と大物主大神との婚姻で生まれたことになっている。つまり親娘の関係になるが、古事記では、大物主大神と陶津耳の娘、活玉依媛との婚姻で生まれた(櫛御方命=飯肩巣見命=建甕槌命)の子であるから、祖父と孫の関係になる。いずれにしても血縁関係にあったことになる。
神代紀には、
・時に高皇産霊尊、大物主神に勅したまはく、「汝、若し国神を以ちて妻とせば、吾猶し汝を疏心有りと謂はむ。故、今し吾が女三穂津姫を以ちて、汝に配せ妻とせむ。八十万神を領ゐて、永に皇孫の為に護り奉るべし」とのりたまひ、乃ち還り降らしめたまふ。
ここに疑問点がある。崇神天皇が皇祖神天照大神と繋がっているのならば、なぜ大殿から出し、大物主神を祀らせることになるのか? 崇神天皇は天照系ではなかったことを示しているのではないか。むしろ、高皇産霊尊によって還り降らしめられた大物主神を祀るのであるから、崇神天皇は高皇産霊尊系ではないか。さらには、崇神天皇は本当に天照大神を祀っていたのかどうかにも疑問符がつく。
さて、茅渟県陶邑は現在の大阪府堺市の泉北ニュータウンのあたりに比定される。ここで須恵器が焼かれるのが五世紀をまたぐ頃である。その泉北に陶荒田神社があり、神社の由緒書によると、祭神は、高魂命、劔根命ほか。陶荒田の由来は、荒田直が「祖神の奉斎につとめられたによって、地名の陶と荒田とをとって『陶荒田』と名づけられた」のであると。
『新撰姓氏録』に、
・荒田直
高魂(タカミムスヒ)命五世孫劔根命之後也
とあり、境内の大田神社の祭神は大田田根子命である。
つまり、大田田根子の母系は高皇産霊尊に繋がり、父系は大物主神に繋がることになる。
この陶邑で焼かれた須恵器は朝鮮半島伽耶の系譜を引いている。およそ五世紀をまたぐ頃から十世紀にわたり、窯の数は1,000基を超えるものと考えられている。
では、大田田根子によって大物主神が三輪山に祀られた時期についてであるが、三輪山中から出土する須恵器の年代からおおよそ五世紀後半であることがわかっている。
・現在、大神神社には、禁足地遺跡や、山ノ神遺跡のほか、ふもとの祭祀遺跡から出土した須恵器74点が所蔵されている。そして、そのほとんどが堺市東南部の陶邑古窯趾群で焼成されたことが判明している。
須恵器や祭祀用土製品からみると、三輪山祭祀がはじまった時期は五世紀後半とみてよい。(和田萃『古墳の時代』)
出典を失念してしまったがその74点のうち年代が判明したものは以下のとおりで、五世紀後半に始まり六世紀前半にピークがある。
T期(五世紀後半)21% 約15点
II期(六世紀前半)35% 約26点
III期(六世紀後半)24% 約18点
IV期 0点、V期 3% 約2点
では、崇神天皇期とは五世紀後半のことであろうか?
ここで埼玉県・稲荷山古墳の鉄剣銘を見てみよう。
・辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比[土危]、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比(表)
・其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王寺、在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也(裏)
注目すべきは、「辛亥年」と干支が使われていること、次に「獲加多支鹵大王」の名がみえることである。
次に、熊本県・江田船山古墳鉄刀銘。(Wikipedia江田船山古墳と『王権をめぐる戦い』を参照した)
・治天下獲□□□鹵大王世、奉事典曹人名无利弖、八月中、用大鉄釜并四尺廷刀、八十練【六十[手偏君](九十振)】三寸上好【[手偏交](刊)】刀、服此刀者長寿、子孫注々得三恩也、不失其所統、作刀者名伊太加、書者張安也
稲荷山鉄剣が出土したことにより、この「獲□□□鹵大王」もまた、「獲加多支鹵大王」と読めることがわかってきた。
「宋書倭国伝」に倭の五王の記事がある。その五番目の倭王「武」について、
・興死して弟武立ち、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王と称す。
順帝の昇明二年、使を遣わして表を上る。いわく、「封国は偏遠にして、藩を外に作す。昔より祖禰躬ら甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、寧処に遑あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国。(中略)窃かに自ら開府儀(義)同三司を仮し、その余は咸な仮授して、以て忠節を勧む」と。詔して武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王に除す。
稲荷山古墳は五世紀後半、江田船山古墳は五世紀末から六世紀初頭と考えられている。
また、雄略天皇の倭名は、大初瀬幼武(オホハツセワカタケル)であり、倭の五王「武」は雄略天皇に比定されている。順帝の昇明二年は478年にあたるから、稲荷山鉄剣の「辛亥年」は471年と考えられているが、私も穏当なところかと思う。
三輪山に於ける大物主神祭祀は出土する須恵器の年代により五世紀後半からであるから、上述のように、雄略天皇期のことになるのである。
このことから、崇神紀に書かれた大物主祭祀に関わる記事は、じつは雄略期のことと考えなければならないのである。
次に、垂仁紀に天照大神の伊勢遷座について、ふたつの記事がある。
垂仁天皇25年
(正文)
・三月の丁亥の朔にして丙申に、天照大神を豊鋤入姫命より離ちまつり、倭姫命に託けたまう。爰に倭姫命、大神を鎮め坐させむ処を求めて、菟田の篠幡に詣り、更に還りて近江国に入り、東の美濃を廻り、伊勢国に到る。時に天照大神、倭姫命に誨へて曰はく、「是の神風の伊勢国は、則ち常世の浪の重浪帰する国なり。傍国の可怜国なり。是の国に居らむと欲ふ」とのたまふ。故、大神の教の随に。其の祠を伊勢国に立て、因りて斎宮を五十鈴川の上に興てたまふ。是を磯宮と謂ふ。則ち天照大神の始めて天より降ります処なり。
(一云)
・天皇、倭姫命を以ちて、御杖として天照大神に貢奉りたまふ。是を以ちて、倭姫命、天照大神を以ちて磯城の厳橿の本に鎮め坐せて祠る。然して後に、神の誨の随に、丁巳年の冬十月の甲子を取りて、伊勢国の渡遇宮に遷しまつる。
正文では、鎮座地を求めて漂泊の後、伊勢に到られたと記し、一云では、「甲子を取りて」とあるように、まず伊勢の渡遇宮に遷すことが決められ、次に日取りを決めたというようなニュアンスである。大和から漂泊せずにまっすぐ伊勢へ遷られた。つまり、正文と一云とでは異なる記事なのである。正文については後にまた触れることにして、ここでは一云の記事を検討してみよう。
まず、丁巳年の冬十月の甲子について。
内田正男編著『日本書紀暦日原典』を参考に、十月に甲子の日がある丁巳年は以下の通りである。
・657年 10月9日 斉明3年
・597年 10月21日 推古5年
・477年 10月14日 雄略21年
・417年 10月26日
・237年 10月1日
・177年 10月13日
・117年 10月24日
417年以前は天皇との対応関係がよくわからないために空白にしているが、三輪山に大物主神を祀る際に使用された須恵器の年代から考えると丁巳年は雄略21年に対応する。
この記事からも、天照大神が伊勢へ遷座されたのは、477年10月14日であり、遷したのは雄略天皇なのである。
なお、垂仁紀には天日槍に関わる記事が書かれているが、その中に、
・近江の国の鏡村の谷の陶人は、則ち天日槍の従人なり。
とあるが、鏡山古窯址群は六世紀前半に須恵器の生産を開始したことがわかっている。
以下「竜王の名所旧跡」より引用する。
鏡山古窯址群-須恵器(すえき)
・滋賀県下最大の須恵器窯跡群として著名なのが、この鏡山古窯址群です。確認されている窯跡の数は50か所以上があり、恐らくその総数は100基に達するであろうと推定します。
窯跡の分布域は、滋賀県蒲生郡竜王町薬師・小口・山中・七里・須恵・山面 ・鏡、野洲市入町・大篠原にまたがっています。この窯跡群は、6世紀前半に須恵器生産を開始し、6世紀後半から7世紀代にかけて最盛期を迎えたそうです。その後、生産は8世紀中頃まで継続することになります。
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つまり、天照大神の伊勢遷座についても須恵器生産についても記紀は実際の年代からはかなり遡って書いているのである。
第二章 where―どこへ
第三章の1:豊受大神
第三章の2:度會
第四章 多氣大神宮説
第五章 where―どこから
第六章 whyとhow