(第三章)豊受大神と度會

 ここでは、度會とはどのような土地であったか、また豊受大神が祀られた経緯について考えてみよう。なぜ山田原の度會宮に豊受大神が祀られる以前に、天照大神が祀られていたかがわかりやすくなることと思う。

(第三章の1)まず豊受大神について。

 『止由氣儀式帳』
・天照坐皇大神、始巻向玉城宮(垂仁)御宇天皇御世、國國處處大宮處求賜時、度會(乃)宇治(乃)伊須須(乃)河上(爾)大宮供奉。爾時、大長谷天皇(雄略)御夢(爾)誨覺賜(久)、吾高天原坐(弖)見(志)眞岐賜(志)處(爾)志都眞利坐(奴)。然吾一所耳坐(波)甚苦。加以大御饌(毛)安不聞食坐故(爾)、丹波國比治(乃)眞奈井(爾)坐我御饌都神、等由氣大神(乎)、我許欲(止)誨覺奉(支)。爾時、天皇驚悟賜(弖)、即従丹波國令行幸(弖)、度會(乃)山田原(乃)下石根(爾)宮柱太知立、高天原(爾)比疑高知(弖)、宮定齋仕奉始(支)。是以、御饌殿造奉(弖)天照坐皇大神(乃)朝(乃)大御饌夕(乃)大御饌(乎)日別供奉。

 垂仁天皇の御世に天照大神は漂泊の後、度會の宇治の五十鈴の河上に鎮座するが、雄略天皇の夢に現れて「自らのみ鎮座するのは耐え難くつらいし、食事をするのも容易ではないから、丹波の比治の真奈井に鎮座している御饌都神、等由氣大神を我が許に呼べ」とのたまわれた。
 雄略天皇は驚いて、丹波の国から等由氣大神をお呼びし、度會の山田原に宮を建てた。このようにして、御饌殿を造り、天照大神の朝夕の日ごとの大御饌を作り供え奉った。
 おおよそ、このような意味である。

 『風土記』丹後國 奈具社
・丹後の國の風土記に曰はく、丹後の國丹波の郡。郡家の西北の隅の方に比治の里あり。此の里の比治山の頂に井あり。其の名を眞奈井と云ふ。今は既に沼と成れり。此の井に天女八人降り来て水浴みき。(中略)爰に天女、善く酒を醸み為りき。(中略)斯は、謂はゆる竹野の郡の奈具の社に坐す豊宇賀能賣命なり。(古事記裏書・元々集)

 比治の里は、峰山町久次の比沼麻奈為神社、奈具の社は弥栄町船木の奈具神社のことであろう。

 『日本地理志料』
丹後国 加佐郡
・偽本丹後風土記、加佐郡、初名笠郡、読為宇気、昔豊宇気ノ神居田造ノ郷笑原(ノハラ)山、民蒙恩頼、故号宇気郡、後謂ハ加佐訛也、
・丹後旧事記作神座(カムザ)郡、云豊受大神ノ所居

 笑原神社は西舞鶴愛宕山の東麓にある。

加佐郡 田邉
・祀典所謂奈具神社、在由良村宮本ノ地、祀豊宇賀能賣ノ命、麻良多ノ神社、在丸田村、偽風土記云、初豊受ノ神、将五穀ノ種子来、天道日女命請之播于水田

 この奈具神社は、由良川下流の由良神社からやや山側に入ったところにある。
 また東舞鶴の軍港のそばの三宅神社、峰山町多久神社にも豊宇賀能賣命が祀られている。
 青龍三年銘の方格規矩鏡が出た太田南古墳群、奈具岡遺跡群は、船木の奈具神社、多久神社とは指呼の間である。このように、豊宇賀能賣命は丹後から舞鶴にかけて広範に祀られているのである。
 つまり、豊受大神は、止由氣儀式帳にあるように丹後出自である。なお、丹後國は和銅六年(713)に丹波國から五郡を割いて建国されたから、止由氣儀式帳の言う丹波とは、まだ丹後國、丹波國の二国に分かれる以前の丹波国を指している。また、『倭名類聚抄』に、丹後国丹波郷があるが、まさにこの豊宇賀能賣命を祀る神社が厚く存在し、太田南古墳群、奈具岡遺跡のある地域が丹波郷、丹波国名の発祥の地である。

(なお偽本丹後風土記とは、『丹後風土記残缺』を指しているが、いわゆる「風土記」として八世紀に書かれたものの一部で、十五世紀末に丹後国一之宮籠神社の社僧・智海が筆写したものとされている。一方、江戸期に書かれた偽書説も根強く、『日本地理志料』を書いた邨岡良弼もその立場を採ったものと思われる。)

 次に記紀を見てみよう。
『古事記』
・次に、和久産巣日の神。この神の子を豊宇気毘売の神といふ。かれ、伊耶那美の神は火の神を生みたまへるによりて、つひに神避りましき。
『日本書紀』神代上 第五段 第二書
・時に伊奘冉尊、軻遇突智が為に焦かれて終ります。其の終りまさむとする間に、臥して、土神埴山姫と水神罔象女とを生みたまふ。即ち軻遇突智、埴山姫を娶り稚産霊を生む。此の神の頭の上に蚕と桑と生り、臍の中に五穀生れり。

 『古事記』では、伊耶那美の神が最後に生んだ和久産巣日神の子として、豊宇気毘売が書かれているが、書紀では稚産霊までは書かれているが、豊宇気毘売は登場しない。
 また、「豊受皇太神御鎮座本紀」に「和久産巣日神子豊宇可能賣命」とあるから、記の言う豊宇気毘売が豊受大神のことと考えてよいのだが、伊耶那美の産んだ和久産巣日神のさらに子神として書かれ、書紀には登場しないことからも、豊宇気毘売が神々の体系の中に組み込まれたのはかなり新しい時期であることを示しているように思われる。山田原の度會宮に豊受大神が祀られたのは古事記成立年712年より古く、書紀が記した最終巻、つまり持統天皇期(文武天皇に譲位した年、697年)よりも新しいと思う。豊宇気毘売は古事記成立直前に付加された神名と考えられる。

 また、古事記では、
・次登由宇氣神。此者坐外宮之度相神者也。
と、すでに度會に祀られていることを記すのみである。

 なお、国史大系版『古事記』は上記のとおりだが、西宮一民校注『古事記』(新潮社)では、
・次に、登由気の神、こは度相に坐す神ぞ。
と、「宇」と「外宮之」を削除している。理由を次のように述べている。
(1)奈良時代では母音並列を嫌うので、「とゆけ」か「とよけ」となるはずである。
(2)「外宮之」が地名「度相」の前にあるのも不審であり、かつ、「外宮が「内宮」に対する語として用いられたのは、平安朝の醍醐・朱雀・村上天皇ごろからであるから、延喜前後に改竄されたもの。

(1)については、たしかに、797年完成の『続日本紀』神護景雲元年八月条には、「度會郡乃等由氣乃宮」と、「とゆけ」である。804年の「止由氣儀式帳」も「とようけ」ではなく、止由氣、等由氣(とゆけ)である。
(2)についても、語順としては「外宮の度相に坐す神」ではなく「度相の外宮に坐す神」と言ったほうが穏当かと思うが、本居宣長、およびその師の賀茂真淵は、内宮に対する外宮ではなく、
・外宮(トツミヤ)は、師の祝詞考に、萬葉集なる登都美夜(トツミヤ)の例を引て、其は常の大宮の外(ホカ)に、別に建置れて、行幸ある宮を云なれば、即チ天皇の宮にして、別に主あることなし、然れば此ノ伊勢の外宮も、五十鈴ノ宮の外ツ宮にして、たゞ天照大御神の宮なり、と云れたるは、昔より比(タグヒ)なき考ヘにして、信(マコト)に然ることなり、然れば元来(モトヨリ)有りし天照大御神の外ツ宮に、豊受ノ大神をば鎮メ祭れるなり

 つまり「外宮」とは正宮としての五十鈴宮から「行幸する宮」の意で、元々外宮にも天照大神が祀られていたのであり、そこに豊受大神を祀ったのである、と。
 これも興味深い説である。

「豊受皇太神御鎮座本紀」には、
・纏向珠城宮(垂仁)御宇廿六年丁巳冬十月甲子。天照大神従但波吉佐宮(志弖)。奉遷于於度相宇治五十鈴河上(天)鎮居焉。
とあるが、先述のように、雄略21年(477年)以前に、丁巳年十月に甲子のある年といえば、
・417年 10月26日
・237年 10月1日
・177年 10月13日
・117年 10月24日
である。垂仁期をいったいどこに当てればよいのだろうか?
 端的に言えば、垂仁期には丁巳年十月に甲子のある年はなかったのである。
「豊受皇太神御鎮座本紀」は続けて、
・泊瀬朝倉宮(雄略)御宇廿一年丁巳十月朔。倭姫命夢教覚給(久)(以下略)
先に引用した『止由氣儀式帳』と同じように、夢で天照大神の誨えを聞き、止由氣太神を度會の山田原に迎えることになる。
・明年戌午秋七月七日。以大佐々命奉布理(留)。
 ここでは、雄略22年に、豊受大神は度會宮に創祀されたことになっている。はたしてそうなのかどうか?
 それが事実であるならば、なぜ書紀に神名が記されていないのか?
 豊受大神が山田原に祀られた時期はそれほど古くないのではないかと考える所以である。

 また、丹波出自の神がどのような経緯で山田原に祀られたか?
 丹波から直接、迎えられたか、あるいは、丹波から伊勢へ移住した者たちによって奉斎され山田原の度會宮に祀られることになったのか。
(1)
 まず前者について考えてみよう。
天武五年八月紀に、
・丙戌に、神官、奏して曰さく、「新嘗の為に国郡を卜はしむ。斎忌(ゆき)は尾張国山田郡、次(すき)は丹波国訶佐郡、並びに卜に食へり」とまうす。
 書紀における訶佐郡の初出である。
 天武の幼名、「大海人」(おほしあま)は、乳母の凡海連にちなむ名と考えられている。
『日本地理志料』加佐郡 凡海(於布之安萬)に、
・按、布読為保、伊呂波字類抄ニ、布-衣(ホイ)、布-袴(ホコ)、収在保ノ部、是也、
・姓氏録、凡海ノ連、海神綿積命ノ男穂高見命之後、天武十三年紀、凡海ノ連、賜姓宿禰、蓋其裔ノ所居、
・偽風土記、凡海郷、在田造郷萬代(モズ)浜ノ海上四十三里
 これらのことから、天武天皇を養育した凡海連との関わりで、その郷里に広く祀られていた豊宇賀能賣命を御饌都神として山田原の度會宮に勧請したとも考えられる。
(2)
 後者については、近江にも豊宇賀能賣命を祀る神社がある。
『日本地理志料』 近江国 坂田郡
【朝妻】
・興福寺官務帳、歓喜光寺、號富永山、在朝嬬ノ東【宇賀野】
・文武元年勅僧ノ義淵、[并刃]之、以坂田ノ皇大神爲鎮守
・坂田ノ皇大神、在宇賀野村、倭姫命世記云、自甲可ノ宮、遷御坂田ノ宮、即此
・岡ノ神社、在宇賀野村、祀豊受比賣命
 今、岡神社は、坂田神明宮の境内に祀られている。坂田郡といえば息長氏の本拠地である。菩提寺福田寺もおよそ2kmのところにある。福田寺は、天武天皇の勅願により、近江の名族息長宿禰王が施主となり白鳳12年(684年)に建立された。
 息長氏は天武期、八色の姓の筆頭である真人姓を賜る実力者である。
 息長氏―天武天皇
 息長帯比売―誉田別(応神天皇)
 外宮(豊受大神)―内宮(天照大神)
 この対応関係を見ると、豊受大神の度會遷座には、息長氏の関与があったのではないか。

 「坂田神明宮 略記」は岡神社について、「社伝に考安天皇の御世(紀元前四世紀相当)に宇賀野魂命降臨になり五穀豊穣を守護されたことに始まる。この地を宇賀野とよぶのは同命の名によるものと思われる。のち宇賀野魂命と同性格の五穀の神 豊受毘売命を祭神とした」とある。
(3)
 伊勢の多氣郡は、式内社では竹神社、竹佐々夫江神社、竹大與杼神社などがあり竹連が集住する郡である。「倭姫命世記」に「多気連等ガ祖、宇加乃日子ガ子吉志比女、次に吉彦」、「皇太神宮儀式帳」に「竹首吉比古」とあり、その祖「宇加乃日子」が豊宇賀能賣命と繋がりそうでもある。
 明治期、三重県の神社行政は合祀政策がはなはだしく、残った神社の祭神には十柱以上も箇条書きされて拝殿に掲げられている場合がしばしばである。廃絶された神社がどこにあり、何を祀っていたかなどよくわからないのだが、宇迦之御魂、豊宇賀能賣命もその箇条書きの中にあるから多氣郡でも豊宇賀能賣命を祀る神社があったことは間違いない。したがって、多氣郡で祀られた神を度會宮に遷したということも考えられる。

 以上、三つの場合を想定しているが、まだ詰めきれていないのが実情である。
 いずれにしても、伊勢においては、天照大神が先に祀られて、その御饌都神として豊受大神は後に祀られたのである。



第一章 whenとwho
第二章 where―どこへ

第三章の2:度會

第四章 多氣大神宮説
第五章 where―どこから
第六章 whyとhow