(第四章) 多氣大神宮説

 多氣大神=伊勢大神=天照大神説。
 現在の研究の流れでは主流に成りつつあるかのように思える説である。古くは筑紫申真、櫻井勝之進、田村園澄、最近では新谷尚紀などが唱える説である。曰く、『続日本紀』文武二年(698年)12月、乙夘に、
・遷多氣大神宮于度會郡 (多気大神宮を度会郡に遷す)

 伊勢で大神と言えば天照大神しかいないのだから、多氣大神もまた伊勢大神であって、天照大神のことである。その天照大神は、孝徳期に二郡(評)に分けられたとき多氣郡にあり、それを698年に度會郡に遷されたというのである。多氣郡の中でも諸説あり、瀧原宮説、相可説、斎宮跡説などがある。
 垂仁紀一云の度會宮については、度會も多氣も元々は一處、一郡だったのだから、度會宮が多氣郡にあっても不思議ではないという。だが、度會、多氣の二郡(評)に分割される以前の郡(評)名は不明なのである。ただし、じっさいに多氣・度會を走ってみると、多氣郡は度會郡に比べてかなり狭いことがわかる。多氣郡は伊勢湾に面した平野部であり、その背後(南)に広く度會郡が展開しているから、多氣郡域も元は度會であったかもしれない。
 しかし、そうであったとしても度會宮を「度會郡にある宮」と拡大解釈しなければならなくなる。度會と言う地名の起こり、および度會と言う地名が指す核になる地域は、山田原、つまり現在の外宮周辺なのであって、度會宮と呼ぶ宮もまた、山田原の現在の豊受大神宮の宮を指していることは明らかである。
 次に、柿本人麻呂の高市皇子薨去の際の哀悼歌(万葉集199)にある、「度會の 斎宮ゆ 神風に」の度會は「歌言葉として歴史性のある古名を用いるのは、文学的な修辞の常識であって何ら矛盾するところはない」(櫻井勝之進)と言うが、その論理が成り立たないとまでは言わないが、これもまた拡大解釈と言うしかないのである。
 もちろんこの拡大解釈は、伊勢で大神と言えば天照大神しかいないという考えが前提にあるからだ。現存する史料の残りではそう言えなくもないのだが、たとえば「出雲國風土記」には野城大神、佐太大神と出雲国内のregional(地域の)大神が存在するのである。
 野城大神は、意宇郡野城の大神である。今も能義神社がある。
・野城の驛 郡家の正東廿里八十歩なり。野城の大神の坐すに依りて、故、野城といふ。
佐太大神は、秋鹿郡神名火山の大神である。神名火山は社頭の由緒書によると今は三笠山と呼ばれているようだ。
・神名火山 郡家の東北のかた九里四十歩なり。高さ二百三十丈、周り一十四里なり。謂はゆる佐太の大神の社は、即ち彼の山下なり。
 出雲には、所造天下大神(天の下造らしし大神)、大穴持命もいる。 
 だから、多氣大神の神名が、今はわずかな逸文しかない伊勢國風土記、記紀、神宮関係史料のいずれもにも見えないというだけのことかも知れないのである。その範囲だけで伊勢の大神と言えば天照大神のことであるから、多氣大神もまた天照大神のことであると判断するのは早計である。

 むしろ豊受大神が祀られた理由を考えてみたとき、つまり天照大神に朝御饌、夕御饌を供する神として祀られたのだから、天照大神としての多氣大神宮が瀧原、相可であれば山田原との距離を考えたときに御饌都神としての役割を果たせるのだろうか?
 斎宮跡周辺ならば多少は近くはなるけれども、現在の発掘状況では天武期の大来皇女の時代までしか遡れないのである。天武期以前の遺構は出土していないのである。大来皇女以前の斎王記事が全て事実かどうかは疑わしいが、壬申の乱のとき、大海人皇子は、
・丙戌に、旦に、朝明郡の迹太川辺に、天照大神を望拝みたまふ。
とあり、これは随伴した安斗智徳の日記から引かれている。
・廿六日辰時。於明朝(ママ)郡迹大川上而拝礼天照大神。(釈日本紀)
 伊勢のどことは書かれていないが、朝明郡は鈴鹿山系に近く、そこから望拝しているのである。伊勢にはすでに天照大神(八咫鏡)が祀られていたことは事実である。
 したがって、当時の斎宮そのものは、発掘されている明和町の斎宮跡とは別のところにあったと考えなければならない。
 また、明和町の斎宮跡はかなり広大な敷地であった。これは斎宮のみの施設ではなく、いわば神郡府とでも言っていい行政組織ではなかったか。伊勢国府は鈴鹿にあったが、斎宮跡は多氣郡・度會郡の神郡府に斎宮が付設されていたと考えられる規模を持っている。
(ただし、天照大神の神名そのものがすでに存在していたかどうかは即断できないところだ。この日記は後の回想録と言われているし、「皇太神宮儀式帳」にも、天照坐皇大神について「所謂天照意保比流賣尊(アマテラスオホヒルメノミコト)」と割注があるところから考えると、天照大神と言う神名は天武の時代だったかもしれない。)
 
 多氣大神宮=天照大神説を採る諸学者の論考では、豊受大神との関係をうまく論じきれていないように思われるところに欠点がある。
 山田原に豊受大神が祀られる以前の度會宮には、天日別の裔の磯部氏によって天照大神が祀られていて、そこに持統天皇譲位(696年)後から古事記成立時(712年)の間に御饌都神として豊受大神が祀られた。
 だから、多氣大神宮とは、むしろ豊宇賀能賣命が多氣郡から度會に遷されたと考えるほうが実情に即しているようにも思う。もっとも、先に見たように豊受大神の度會宮遷座については、まだ積極的に提示しうる結論までは到っていない。




第一章 whenとwho
第二章 where―どこへ
第三章の1:豊受大神
第三章の2:度會

第五章 where―どこから
第六章 whyとhow