(第三章の2)次に度會について。

 三節祭のとき国崎潜女によって採取された鰒が両正宮に供進される。
・大身取鰒、小身取鰒、玉貫鰒、各三連。(一祭ごとに予備三連)
 14の別宮には、
・大身取鰒、玉貫鰒、各三連。(予備なし)
 滝祭神、朝熊神社、【草奈伎神社】には、
・大身取鰒、玉貫鰒、各二連。
 諸神、諸社85社には、
・小身取鰒、各一連。
(水野祐『古代社会と浦島伝説 下』)
 2010年の三月見てきたが、鎧崎に神宮御料鰒調製所があり、それぞれの写真があった。

 『止由氣宮儀式帳』は、月読神社、【草奈支神社】、大間國生神社について、
・右三所神社造宮使造奉。此祝死闕替申送大神宮司、即卜食定、其後家祓清、預供奉事。
(ミギノミトコロノヤシロハ、ミヤツクルツカヒ、ツクリマツル。コノハフリミマカリタルカハリハ、オホミカミノミヤノツカサニマヲシオクル、スナハチウラナヒサダメテ、ソノシリヘハラヘキヨメテ、ツカヘマツルコトニアヅカル)
と記す。
 造宮使とは伊勢神宮式年遷宮の際、神宮を建築する役であるから両大神宮を建築する役の者がこの三社も担当する。
 このように、草奈伎神社は伊勢の神宮125社の中でも重要視されていたことがうかがえる。
 外宮から近く、国道沿いにほんの少し西に走ったあたりにある。
 伊勢神宮崇敬会発行の小冊子『伊勢の神宮百二十五社めぐり』には、「豊受大神宮摂社 祭神/御剣仗(みしるしのつるぎの)神 剣の御霊を祭る。外宮第一の摂社」。

 草なぎ、剣の言葉から草薙剣を連想してしまうけれども、日本武尊ストーリーとの関連はここでは触れない。むしろ考えるべきは、御剣仗神は止由氣大神と結びつくのかどうか、そうではなく山田原の止由氣大神を祀る以前の度會宮との関係としてみるべきではないか。

 『風土記』伊勢國 伊勢國號
・伊勢の國の風土記に云はく、夫れ伊勢の國は、天御中主尊の十二世孫、天日別命の平治けし所なり。天日別命は、神倭磐余彦の天皇、彼の西の宮より此の東の州を征ちたまひし時、天皇に随ひて紀伊の國の熊野の村に到りき。時に、金の烏の導き随に中州に入りて、菟田の下縣に到りき。天皇、大部(おほとも)の日臣命に勅りたまひしく、「逆ふる黨、膽駒の長髄を早く征ち罰めよ」とのりたまひ、且、天日別命に勅りたまひしく、「天津の方に國あり。其の國を平けよ」とのりたまひて、即ち【標(しるし)の剣】を賜ひき。天日別命、勅を奉りて東に入ること數百里なりき。
(中略)
 天日別命、此の國を懐け柔して、天皇に復命まをしき。天皇、大く歓びて、詔りたまひしく、「國は宜しく國神の名を取りて、伊勢と號けよ」とのりたまひて。即て、天日別命の封地の國と為し、宅地を大倭の耳梨の村に賜ひき。(或る本に曰はく、天日別命、詔を奉りて、熊野の村より直に伊勢の國に入り、荒ぶる神を殺戮し、まつろはぬものを罰し平げて、山川を堺ひ、地邑を定め、然して後、橿原の宮に復命まをしき。)(『萬葉集註釈』)

 天日別命は、神武東征に随伴した命である。【標剣】を賜り伊勢を平ける。その際の剣が山田原に剣神として祀られ、天日別の裔、磯部氏が度會神主となる。以下参考史料を引く。
 『神宮雑例集』
・大若子命 天牟羅雲命七世孫。度會神主遠祖。

 『二所太神宮例文』
第四 豊受太神宮 度會遠祖奉仕次第
天牟羅雲命 天御中主尊十二世孫。天御雲命子。
天日別命 天牟羅雲命子。神武天皇御世奉仕。
玉柱屋姫命。(伊雑宮)
建前羽命
大若子命(大神主) 彦久良為命子。垂仁天皇御代奉仕。
乙若子命 大若子命弟也。
爾佐布命 乙若子命一男。神功皇后。應神二代奉仕。
子爾佐布命 乙若子命二男。仁徳天皇御世奉仕。
彦和志理命 爾佐布命子。履仲天皇御世奉仕。
小和志理命 爾佐布命二男。反正天皇御世奉仕。
事代命 爾佐布命子。允恭天皇御代奉仕。
阿波良波命 彦和志理命一男。安康天皇御代奉仕。
大佐佐命(二宮兼行大神主) 彦和志理命二男。雄略天皇御代奉仕。
御倉命 彦和志理命三男。清寧天皇御代奉仕。
佐部支命 阿波良波命一男。顕宗天皇御代奉仕。
乃々古命 阿波良波三男。仁賢天皇御代奉仕。
乙乃古命(件命生子有四柱即別四門) 阿波良波命四男。武烈天皇御代奉仕。
神主飛鳥 乙乃古命二男。継體天皇御代奉仕。
神主水通 乙乃古命三男。安閑天皇御代奉仕。
神主小事 乙乃古命四男。欽明天皇御代奉仕。
神主加味 水通一男。敏達天皇御代奉仕。
神主小庭 飛鳥三男。用明天皇御代奉仕。
神主伊志 小事一男。推古天皇御代奉仕。
神主宇磨 小事三男。同御代奉仕。
神主調 小庭一男。舒明天皇御代奉仕。
神主久遅良 小事四男。同御代奉仕。
神主馬手 調四男。皇極天皇御代奉仕。
神主吉田 調一男。孝徳天皇御代奉仕。
神主知加良 久遅良一男。同御代奉仕。
神主富杼 久遅良二男。斉明天皇御代奉仕。
神主志初太 吉田二男。天智天皇御代奉仕。
神主御氣 天武天皇御代奉仕。
『続日本紀』和銅四年
・三月辛亥(6日)。伊勢國人礒部ノ祖父。高志二人。賜姓渡相神主。

 天日別命は、日神の子としての神武東征に随伴したのであるから、その裔が、「The度會」と言っていい山田原の地で天照大神を祀ることはあっても、止由氣大神を祀る筋合いが見当たらないのである。
 玉柱屋姫命は伊雑宮に奉仕し、伊雑宮のご祭神は天照坐皇大御神御魂。
大若子命、乙若子命は草奈伎神社の隣の大間国生神社に祀られている。この大若子命は大幡主命とも呼ばれ、『豊受太神宮禰宜補任次第』に、
・大若子命。(一名大幡主命)
 右命。天牟羅雲命 子天波與命 子天日別命第二子彦國見賀岐建與束命第一子彦楯津命第一子彦久良為命第一子也。
 越國荒振凶賊 阿彦在(天)不従皇化。取平(仁)罷(止)詔(天)。標剣 賜遣(支)。即幡主罷行取平(天)返事白時。天皇歓給(天)。大幡主名加給(支)。
 垂仁天皇即位二十五年(丙辰)。皇太神宮鎮座伊勢國五十鈴河上宮之時。御供仕奉為大神主也。

 越の国の皇化に従わない荒ぶる凶賊、阿彦を平らげに行く際、【標剣】を賜る。平らげて復命のとき天皇は喜んで大幡主の名を加え給われた。垂仁25年、天照大神が伊勢五十鈴河上(宇治里)に鎮座されたときに供奉した大神主である、と。
 また、「神宮雑例集」では、
神宮雑例集巻一
度會郡。
多氣郡。
・本紀云、皇太神御鎮座之時、大幡主命物部乃八十支諸人等率、荒御魂宮地(乃)荒草木根苅掃、大石小石取平(天)、大宮奉定(支)。爾時大幡主命白(久)、己先祖天日別命賜伊勢國内礒部河以東神國定奉。(飯野多氣度會評也。)即大幡主命神國造并大神主定給(支)。又云、難波長柄豊前宮御世、飯野多氣度相惣一郡也。其時多氣之有爾鳥墓(トツカ)立郡時(爾)、以己酉年始立度相郡、以大建冠神主奈波任督造、以少山中神主針間任助造。皆是大幡主命末葉、度會神主先祖也。

 天照大神が鎮座されるとき、大幡主命物部乃八十支諸人等を率いて荒御魂宮(荒祭宮)地を整備して大宮を建てた。正宮は荒祭宮のすぐ近く東南の方向にある。この文章は、荒祭宮がすでにあり、正宮(大宮)を後に建てた時の様子が書かれていると読める。この点だけを取り出すと、大幡主命=大若子命であって、垂仁期に仕えた神主とされているから、いわゆる現在すでにある正宮は垂仁期に創祀されたことになるけれども、その誤謬はすでに指摘したところである。
 先祖の天日別命は磯部河以東を賜り神国を定めた。(ここで言う磯部河とは現在の櫛田川のようであるが、平安期にも氾濫し川筋が何度か変わっている。祓川を磯部河とする説もあるようだ。また、今の宮川はかつて度會川とも呼ばれていた。)
 大幡主命は神国造並びに大神主となり、孝徳期に多氣郡、度會郡に分かれたが任じられた神主は皆大幡主命の末裔である。奈波、針間の名は度會遠祖奉仕次第には見えないが、櫻井勝之進が引く「校訂度会系図」(神宮文庫本)の「二門氏人」によると、
・調(三代 一男)―吉田(四代)―奈波(五代)(以下略)とある。

 大佐佐命は、雄略天皇期、命を受けて丹波に豊受大神を迎えに行く。
「神宮雑例集」に、
・爾時天皇(雄略)驚給、度會神主等先祖大佐々命召(天)、指使布里奉(止)宣(支)。仍退往布里奉(支)。是豊受大神也。

 このように、度會氏は豊受大神が山田原に勧請されるまでは、もともと皇太神宮、つまり天照大神に奉仕していたのである。
 伊勢の地では外来の天日別の裔が土着し、度會に勢力を持つことになるわけだが、止由氣大神を自ら祀る理由が見当たらない。止由氣大神の出自(丹波國比治乃眞奈井の御饌都神)と合わせて考えると、雄略天皇の夢に云々からもわかるように、祀らされたということになる。
 もともと、山田原には天日別の裔が奉斎した神が祀られていて、後代、止由氣大神が勧請されたか、当初からつまり雄略期からすでに祀られていたかのいずれかになるが、少なくとも【草奈伎神社】が、豊受大神宮第一の摂社と言うより豊受大神勧請以前の度會宮第一の摂社と言うべきなのである。このことは、山田原の度會宮には、止由氣大神以前に別の神が祀られていたことを示唆している。
 では、その別の神とは何か、また、天日別命の出自はどこかが問われることになるだろう。
 前者について、岡田精司は「天日別命」を想定しているが(『古代王権の祭祀と神話』)、私は、垂仁紀一云の記事から天照大神であったと考える。
 後者については、『日本地理志料 志摩國』答志郡 伊雑に、
・御巫氏曰、伊雑又稱磯部、伊勢國造ノ祖天日別命ノ裔磯部氏、初居度會郡伊蘇ノ郷
 とあり、伊雑、また磯部と言うのは、伊勢國造の祖、天日別命の裔の磯部氏は初めは度會郡の伊蘇郷に居たからだと言う。この磯部氏の出自を遡れば天日別命の出自もおのずと見えてくるのではないかと思っている。
(1)
 多気・度会・志摩を走ってみて気がついたのだが、多気郡の相可と志摩には類似した地名、神社がある。
オウカ:多気の相可と志摩の相賀
イソベ:多気の磯部、志摩の磯部
イザワ:多気の射和、伊佐和神社、志摩の伊射波神社、伊雑宮
 相可のやや南の佐那神社の祭神は天手力男。相可のやや北の飯野高宮神山神社、祭神は猿田彦命、天鈿女命。
「神鳳抄」志摩國 答志郡に、
・相可御厨(相賀浦のこと)
・慥柄(たしから)
・猿田御厨
の名がある。
 相賀浦の大賀神社は2010年三月見てきた。慥柄浦は道路案内板に「たしからうら」とあり、走りながら手力男と読みが繋がっているのでは?と思ったが未確認である。
 2010年五月一日、再度南志摩を走り慥柄浦の集落にも入ってみた。波止場で歓談されていた地元の方にお聞きしてみたが、よくわからないとのことであった。総戸数50戸ほどの小さな浦であるが皇太神に奉仕してきた地区である。浦を見下す丘の上に、最近作り直された小さな祠があり、「あんどさん」と書かれていた。漁民による寄進で作り直されたようである。これは「安曇」のことではあるまいか? 安曇(あずみ)氏の「安曇」である。
 傍証になりうると思うが、大阪市内に安堂寺という地名があるが、かつては安曇寺とも書かれていて、明治から戦前までは渥美の地名もあった。安曇(あずみ)は「あんどう」とも、あるいは、琵琶湖に注ぐ安曇川(あどがわ)とも読まれることからも、「あんどさん」は「安曇さん」のことと思われる。

 慥柄郵便局の裏山に、神明造りのお宮があった。皇太神宇久良行宮旧跡という石碑があった。おそらく「倭姫命世記」に因むものかと思われる。
 猿田の地名は気が付かなかったが、たとえば国崎の海士潜女神社には、白鬚大明神が合祀されている。白鬚大明神とは、近江高島の白鬚神社にも例があるが、猿田彦のことである。
(2)
 『目で見る鳥羽・志摩の海女』(海の博物館)によると、英虞湾の外側から鳥羽にかけての海女の数は2007年の調査でも1081人を数える。
 同書には列島の分布も載っていて、海女が多くいる地域を西から見ると、韓国・済州島、対馬・曲、【福岡・鐘崎】【若松区岩屋】、山口・油谷向津具下、徳島・阿部、志摩半島、伊豆・雲見、下田市田牛・南崎、伊豆白浜、房総半島・布良、岩手・小袖。日本海側では、鳥取・小沢見、福井・東尋坊、加賀市塩屋町、富山・舳倉島、輪島市・海士町、新潟・村上市馬下、北海道・松前町小島。

 さて、上記【】で括った若松区岩屋は、遠賀川河口部の北にある若松半島の海側にあり、ほぼ中央部の蜑住(あますみ)に、戸明神社がある。蜑住とは、海士海女が集住していたことに由来するものと考えられる。鐘崎は岩屋から海浜に沿って西へ。
『太宰管内志』遠賀郡
戸脇神社
・戸脇社は山鹿庄蜑住村に在て六村の本居神なり、(蜑住・有毛・大鳥居・高須・岩屋・脇田是也)手力雄ノ神を祭ると云

神社由緒書によると、
祭神 天手力雄大神 天児屋根大神
・昔、当社は岩屋・柏原との間、戸明浜に御社有りて甚だ厳しき宮造りなりしを、享禄の年頃此の地に移し奉るなり」『戸明神社縁起書序』(天文五年)
・往昔は大社にて郷内の三大社と称し、島郷三十余村より春秋両季五穀成就の祈祷は勿論、毎年臨時祭絶えず執行せり」『福岡県神社誌』(昭和十九年)

 また、若松半島の東、洞海湾を挟んで、猿田彦を祀る社がある。
『日本地理志料』因幡国 八上郡 日理(曰理)
・神名式、八上郡和多理ノ神社、今在八束郡殿村、祀猿田彦神、伝言、景行帝ノ時、始祀筑前ノ大渡ノ島、至神功皇后、遷祀干此、地名因起

 和多理神社は鳥取の八頭郡郡家町にあるが、社伝によると筑前の大渡の島から神主とともに勧請された。

『筑前國続風土記』
名籠屋崎
・鳥旗村の東北海際にあり。平地にして出崎なり。若松村の北にも出崎あり。小田崎と云。名籠屋崎と海をへだてゝ南北に相對せり。日本紀、仲哀天皇紀に、名籠屋大済を以て西門とすとあるは、則此処の事なり。此地に神社あり。猿田彦命と稱す。

・島郷(是より以下島郷の事をしるす。此の島は遠賀の北に在て、其間に洞の海をへだつ)
・山鹿より若松まで長五里、横一里、村數十五、田畑高七千石あり。若松より海士住(あますみ)までの間、入海の南北のわたり半里許あり。此海は遠賀川の末にて、淡鹹まじれり。(中略)島郷と名付しは、内には入海とほり、外には大海をうけて、めぐりは皆海なる故に島郷と云。

書紀「神武即位前紀」
・十有一月の丙戌の朔にして甲午に、天皇、筑紫国の【岡水門】に至ります。
古事記 中つ巻
 神倭伊波礼彦
・そこより遷りまして、竺紫の岡田の宮に一年坐しき。

 遠賀川河口には、仲哀天皇さえ挨拶しなければ船が進めなかった神、大倉主・菟夫羅媛二神がいた。岡湊神社に両神が祀られている。後に島門物部といわれる地域である。
多氣郡相可と志摩の類似は、遠賀川河口とも類似しているのである。

(3)
おじょか古墳(志摩市阿児町)
・奥壁及び側壁の基底部の横長の板石状の石材を石障として意識したものとみることで、肥後地域の横穴式石室の影響を考える向きもあるが、全体として釜塚古墳などの玄界灘周辺から有明海北岸にかけた北部九州系の石室の影響が強い。

中ノ郷古墳(西三河 幡豆町)
・小石材を多用した長方形の玄室に短い羨道が取りつくもので、その形状は、北部九州の唐津湾に面した佐賀県横田下古墳との類似性が指摘されており、おじょか古墳同様、五世紀中〜後葉に位置づけられている。(『東海の古墳風景』雄山閣)

 おじょか古墳は志摩半島東端、海を目前にしたやや小高いところにあった。ハの字に開く羨道は福岡県前原市の釜塚古墳に類似する。

 このように見てくると、伊勢の志摩から度會、多氣郡相可に集住した磯部氏は、遠賀川河口周辺出自と考えられるのである。
 つまり、遠賀川河口付近の岡(乎加)が、伊勢志摩では、相可・相賀の字を当てられ、オウカと読み、筑前では遠賀の字を当てられオンガと読むようになったのではないか。
 紀伊長島と尾鷲の間の海山町に相賀神社がある。いまはアイガと呼んでいる。ただし、その周辺の梶賀、賀田の地名は、カジカ、カタと賀を濁らずにカと読ませているのである。 飛鳥神社は熊野阿須賀神社の神を勧請したと伝える。これもまた賀を濁らずにカと読む。
 『角川日本地名大辞典24 三重県』【あいが 相賀】<海山町>の項に、
・合賀・相寄とも書き、かつては「あうか」「あうが」「おいか」ともいった。
 とある。やはり海山町の相賀もまた「オウカ」と呼ばれていたことがあるのだ。
 また、和歌山県新宮市にも相賀の地名があり、
・熊野(新宮)川支流高田川下流の山間に位置する。地名の由来について、「続風土記」には「川辺に桑の木多く、古は大木ありしより大桑といひしに、訛りてあふかと唱え、終に相賀の字を用ふ」とある。(『角川日本地名大辞典30:和歌山県』)
 つまり新宮の相賀(あふか)も岡(乎加)に由来するのではないだろうか。

 和歌山県橋本市には、相賀大神社(祭神は天照大神)、相賀八幡神社(祭神は、現在は、誉田別尊・足仲彦尊・気長足姫尊となっているが、『南海道紀伊国神名帳』では天手力雄・気長足魂・住吉神)とあり、これはオウガと読ませているが、古くはどうであったか興味深いところだ。この二社については後にまた触れる。

 関連するが、尾鷲のすぐ南の九鬼、『日本地理志料』に、
英虞郡 餘戸
・荒坂津考云、神武紀、誅丹敷戸畔於荒坂津、先是皇師不利、至是海中遇颶、皇兄稲飯ノ命、三毛入野命、入海而薨、荒坂津ハ今ノ二木島港、荒坂ハ即チ曾根嶺是也、港口、北曰英虞ノ岬、有リ阿古師ノ祠、祀三毛入野命、南曰牟婁ノ岬、有リ室古祠、祀稲飯命、港北有リ峻嶺、曰天倉山、山巓稍平、古有リ高倉下命ノ祠

 神武東征時、熊野の上陸地がここだと考えているわけではないが、荒坂の地名は残っていて入り江(湾)になっている。湾を囲むように北の岬に阿古神社、南の岬に室古神社がある。熊野灘を北上した勢力が志摩郡磯部に定着し、一方、紀伊長島から現在の国道42号の道を通って瀧原宮の前を通り多氣郡相可へ行ったか、あるいは、志摩磯部から谷あいの道を多氣郡相可へ向かった一団がいた。さらには、磯部から鳥羽を経て「The 度會」へ向かった一団がいたということを示しているのではないか。

 以上が、度會と豊受大神についての概観である。
 この概観から度會宮で豊受大神が祀られることの、しかも磯部氏(後に言う度會氏)が祀ることの不自然さはご理解いただけるものと思う。山田原の度會宮には豊受大神を祀る以前にすでに祀られていた神があった。それが天照大神なのである。

 ただし、これについては異論がある。
 多氣大神=天照大神説である。次章で批判しよう。



第一章 whenとwho
第二章 where―どこへ
第三章の1:豊受大神

第四章 多氣大神宮説
第五章 where―どこから
第六章 whyとhow