(第二章) where―どこへ

 では次に、どこへ?を考えてみよう。
 垂仁紀「一云」の渡遇宮とはどこにあったのか?

 【証言1】.『風土記』伊勢國 度會郡
・風土記に曰はく、夫れ、度會の郡と號くる所以は、畝傍の宮に御宇しめしそ神倭磐余彦の天皇、天日別命に詔して、國まぎたまひし時、度會の賀利佐の嶺に火氣發起き。天日別命視て、「此に小佐居るかも」と云ひて、使を遣りて見しむるに、使者、還り来て申ししく、「大國玉の神あり」とまをしき。賀利佐に到る時に、大國玉の神、使を遣りて、天日別命を迎へ奉りき。因りて其の橋を造らしむるに、造り畢へ堪へざる時に到りければ、梓弓を以ちて橋と為して度らしめき。爰に、大國玉の神、彌豆佐々良姫命を資し参来て、土橋の郷の岡本の邑に迎へ相ひき。天日別命、観地に出て参り會ひて曰ひしく、「刀自に度り會ひつ」といひき。(倭姫命世記裏書)

 注によると、賀利佐の嶺とは現在の外宮(豊受大神宮)の南の高倉山の古名、小佐とは、土地の主長。その主長、大國玉の神が、神倭磐余彦によって遣わされた天日別を出迎えた土地の名が度會であると言う。岡本の邑とは今も岡本の地名を残す外宮の神域の東南の端にあたる。度會郡としてはかなり広大な地域ではあるが、度會そのものの名の起こり、度會の核はこの外宮周辺を指す。度會の県神社もまた外宮から東北の宇須乃野神社(伊勢の神宮125社のひとつ。豊受大神宮の境外摂社)に併祀されている。

 【証言2】.諸史料から度會宮の用例を見てみよう。(以下国学院大学のサイト「神社資料データベース」から引用した)
『続日本紀』 神護景雲二年(768)四月
○辛丑(28日)。始賜伊勢大神宮ノ祢義季禄。其官位准従七位。【度會宮】祢義准正八位。

『止由氣儀式帳』(804)
等由氣大神宮院事。(今稱【度會宮】。在度會郡沼木郷山田原村。)

『続日本後紀』承和3年8月甲寅(17日)条 (836)
伊勢大神宮祢宜正六位上神主継麻呂。【豊受神】祢宜正六位上神主虎主並授外従五位下。

『文徳天皇実録』嘉祥3年9月甲申(10日)条 (850)
同国天照太神宮祢宜従八位下神主継長。【豊受太神宮】祢宜従八位上神主土主等。授外従五位下。

『日本三代実録』貞観4年12月11日乙巳条 (862)
伊勢太神宮祢宜外従五位上神主継長加外正五位下。授【度会宮】祢宜外正六位上神主河継外従五位下。

『日本三代実録』貞観7年12月9日丙辰条 (865)
授伊勢大神宮祢宜外正五位下神主継長従五位下。【豊受宮】祢宜正六位上神主真水外従五位下。

延喜式(927)巻第四
・【度會宮】四座
 豊受太神一座
 相殿神三座

 このように、度會宮と言った場合、その場所は、外宮、豊受大神宮の地を指していることがわかる。宇治里の内宮、つまり皇太神宮ではない。

 【証言3】.
持統10年7月(696年)
・庚戌に、後皇子尊薨りましぬ。
 696年に天武天皇の息子、高市皇子が亡くなり、柿本人麻呂が追悼の歌(万葉集199)を作る。一部抜粋すると、
・度會之 斎宮従神風尓 伊吹或之 天雲乎 日之目毛不令見 常闇尓 覆賜而定之・・・
度會の 斎宮ゆ 神風に い吹き惑わし 天雲を 日の目も見せず 常闇に 覆ひたまひて

 斎宮とは一般に伊勢大神(天照大神)に仕える斎王の宮であるが、ここでは度會の斎宮から吹く神風の意であるから、伊勢の神宮のこととされている。
 つまり、696年時点では、天照大神は度會に鎮座されていたことがわかる。

 証言1,2,3により、天照大神は大和からまず山田原の渡遇宮(度會宮)へ遷され、後に現在の内宮の地、宇治里へ遷されたのだ。山田原から宇治里へ遷されたのがいつかについてはまだ断言できないけれども、少なくとも記紀完成に近い頃、おそらく持統天皇期であろうと考えている。
 『皇代記付年代記』持統天皇条に、「諸國町ヲ定。宇治橋造」と朱書があり、これが内宮造営のヒントになるかもしれない。
 垂仁紀正文では、すでに宇治里へ遷されたこととして書かれているように読めるが、一云ではそれ以前に、まず、山田原の度會宮に遷されたことを書いているのである。
 第四の証言とも言いかねるが、『皇太神宮儀式帳』に以下の記事がある。
「初神郡度會多氣飯野三箇郡本記行事」
・右從纏向珠城朝廷以来、至于難波長柄豊前宮御宇天萬豊日天皇御世、
有爾鳥墓村造神[まだれ寺=かんだち](弖)、爲雜神政所仕奉(支)。
而難波朝廷天下立評給時(仁)。以十郷分(弖)。度會(乃)山田原立屯倉(弖)、新家連阿久多督領、礒連牟良助督仕奉(支)。以十郷分、竹村立屯倉、麻績連廣背督、礒部眞夜手助督仕奉(支)。
同朝廷御時(仁)、初太神宮司所稱、神[まだれ寺=かんだち]司中臣香積連須氣仕奉(支)。
是人時(仁)、度會山田原造御厨(弖)、改神[まだれ寺=かんだち](止)云名(弖)、號御厨、即號太神宮司(支)。
近江大津朝廷、天命開別天皇御代(仁)、以甲子年、小乙中久米勝麻呂(仁)、多氣郡四箇郷申割(弖)、立飯野高宮村屯倉(弖)、評督領仕奉(支)。即爲公郡之。
右元三箇郡攝一處、太神宮供奉(支)。所割分由顕如件。

 度會郡、多氣郡、飯野郡はもともとひとつだったのだが、孝徳期にそれを分けて度會郡、多氣郡の二郡が立てられた。天智天皇期、さらに多氣郡のうちの四郷を分けて飯野郡が立てられた。
 有爾の鳥墓村に[まだれ寺=かんだち](カンダチ)があったが(明和町斎宮跡の東に水池土器製作遺跡があるが、その南。現在の国道沿いにある)、孝徳期に度會郡の山田原に屯倉を立てて、御厨を造った。[まだれ寺=かんだち]の名称を御厨に改めた。やがて、それも大神宮司と名づけられた。つまり、山田原に大神宮司が置かれたのである。遺称地は現在の月夜見宮(豊受大神宮のおよそ500mの北)のあたりと言われている。
 2009年秋二度、伊勢の地をドライブしたが、なぜ山田原に大神宮司が置かれたのか不思議でならなかった。宇治里に天照大神がすでに祀られていたのであれば、大神宮司もまた宇治里に置かれてもよいのに、と。山田原の度會宮に当時天照大神が祀られていたからこそ、山田原に大神宮司が置かれたと考えた方が説明としては穏当のように思う。



第一章 whenとwho

第三章の1:豊受大神
第三章の2:度會
第四章 多氣大神宮説
第五章 where―どこから
第六章 whyとhow