(第二章)草薙剣の形状と語意
 記紀はなぜ、草薙剣は大蛇の尾から出現したと書いたのだろうか。

1.(形状編)
 『日本書紀』
・(草薙剣。一書に云はく、本の名は天叢雲剣。蓋し大蛇居る上に、常に雲気有り。故以ちて、名くるか。日本武皇子に至り、名を改め草薙剣と曰ふといふ) 
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 もともとは天叢雲剣と言っていた。それは、大蛇の上に常に雲気があったから。日本武尊の東国遠征の際、草をなぎ払ったので、今は草薙剣という。

 私見だが、ここに形状のヒントがありそうだ。
 雲気があると、雨が降り稲妻が光る。稲妻の形状と蛇が身体を曲げて進むさまは類似する。草薙剣の形状は、その稲妻や蛇を連想させた。
 だから、大蛇退治説話を援用し、その尾から草薙剣を出現させるストーリーを作った。
 稲妻や蛇を連想させる形状の剣といえば、蛇行剣である。
 つまり、草薙剣とは蛇行剣ではなかったか。

(図は「古代で遊ぼ」http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/
 第8章 初期開拓者http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/kk08.html
 より拝借した)

 上図によると、カーブにとんがりがあるものは柊剣とも呼ばれているようだ。考古学的にはこれも蛇行剣に含まれる。
 柊といえば、
・古事記では、ヤマトタケルが東国征伐へ赴く際、景行天皇から「ひひら木の八尋矛を給ひき」。
・播磨國風土記逸文に、新羅国の形容として「ひひら木の八尋桙根底附かぬ國」。
・続日本紀では、大寶二年正月、「丙子。造宮職献杜谷樹長八尋。(俗曰比比良木)。
とある。
柊は葉がとがっているところから、邪気を払う、魔よけの意味があるとされている。
 つまり、蛇行剣には、魔よけの意味があった。草薙剣が蛇行剣であれば、同様に魔よけの意味が込められていたことになる。
北九州市立いのちのたび博物館(http://www.kmnh.jp/)によると、蛇行剣の最古のものは、福岡県北九州市小倉南区・南方浦山古墳出土(四世紀)のようである。また、非常に良く似たものが伊勢・落合3号墳からも出土しているそうである。出雲では斐川町直江の結古墳群B地区11号墳、安来市五反田3号墳からも出土している。列島全体ではおよそ70例が出土している。

 ところが、江戸期、熱田社の宮司等有志が密かに草薙剣を見たらしい伝聞記録がある。
 栗田寛「神器考證」に引かれた「玉籤集裏書」である。
・この御剣の制作寸尺などは、是まで世人の云るものも、書記しつるものも無りしを、吉田家に蔵る玉籤集と云ふ書の裏書に、(この裏書をかける年月詳かならず、)八十年許前、熱田大宮司社家四五人と志を合せ、密々に御神體を窺奉る、土用殿に御剣御鎮座、渡殿は剣宮にも同様なる御璽の箱在坐す也、御璽の箱、御戸口の方に副て、在坐けると也、扨内陣に入るに、雲霧立塞りて、物の文も不見、故各扇にて雲霧を拂ひ出し、隠し火にて窺奉るに、御璽は長五尺許の木の御箱也、其内に石の御箱あり、箱と箱との間を、赤土にて能つめたり、石の御箱の内に、樟木の丸木を、箱の如く、内をくりて、内に黄金を延敷、其上に御神體御鎮座也、石の御箱と樟木の箱との間も、赤土にてつめたり、御箱毎に錠あり、皆一鎰にて開、開様は大宮司の秘傳と云ふ、御神體は長さ二尺七八寸許り、刃先は菖蒲の葉なりしにて、中程はムクリと厚みあり、本の方六寸許りは、節立て魚等の背骨の如し、色は全体白しと云ふ、大宮司窺奉る事、神慮に不叶にや、不慮のことにて、流罪せらる、其餘も重病悪病にて亡び、其内一人幸に免れて此の事を相傳せり、云々、右の傳松岡正直より予に傳ふる所也、とあるは、いと珍しければ、此に書加へつ、此正直と云人は、上文に幸に一人免れたりと云人なるべければ此の人の事を正さば、其年暦も知らるへきものぞ、
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・八十年ほど前に大宮司社家等四、五人で密かに見た。
・長さ五尺の木の箱の中にさらに石の箱が入っていた。箱と箱の間は赤土が詰めてあった。
・石の箱の中に樟木の丸木を箱のように内をくりぬいて黄金を敷き、その上にご神体(草薙剣)は入れられていた。
・石の箱と樟木の箱の間も赤土が詰めてあった。
・長さ二尺八寸、刃先は菖蒲の葉状、中ほどはムクリと厚みあり、本の方六寸くらいは、節立って魚の背骨のようであり、色は全体に白い。
・大宮司は流罪、そのほかは重病悪病でなくなり、残る一人、松岡正直から聞き取った記録である。
 というようなことが書かれている。
 長さはおよそ85cm、刃先は両刃のようであり中程には厚み、本の方18cmくらい、たぶん柄と思うが、節だっている。
 この記述が正しければ、古代の銅剣のいずれかに似ていることとなろう。私が推測する蛇行剣のイメージではない。
 だが、考古資料としては長さが80cmを越える銅剣の例はないそうである。稲田智宏『三種の神器』によると、
・詳細は今は確認できないが「熱田大宮司尾張連家の秘伝」というものによれば、御神体およびそれを収める御樋代の様子は、「中には泥を詰め。而して石の唐櫃を設け、その中に黄金の延板を置き、上に御神体を安置す。御神体長さ一尺八寸程、両刃にて剣づくりとなり、鎬ありて横手なし、御柄は竹の節の如く五節あり」という(『定本日本刀剣全史』川口陟)
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 宮司家の記録であるから、先に引いた「玉籤集裏書」と出所は同じと考えられるが、この記録によれば、長さが約30cm短くなるが、そのほかはほぼ同様の記述となり、全長55cmくらいの銅剣ならば出土しているそうである。

草薙剣推定図(種田智宏『三種の神器』)
蛇行剣概念図(考古学ジャーナル498号 2003)
おおよそだが、TK73は五世紀前半、TK23は五世紀後半、MT15は六世紀前半あたりか。

 さらには、石上神宮にも安置されていた時期がありそうだ。
■石上振神宮二座
・若宮神殿一座
  出雲建雄神
 神名帳曰、大和國山邊郡出雲建雄神社一座
 飛鳥浄見原宮御宇天皇(謚曰天武、為人皇四十代)御世、(未詳年紀)、
 神主布留邑智夢、布留河上立騰八重雲、其雲中有神剣、放光華照六合之内焉、
 剣頭本八龍竝坐、明旦到彼地見之、有霊石八筒、(日谷八龍神是也)、
 于時神託人曰、吾尾張氏女所祭之神、而今天降於是地、保皇孫守諸民、
 於是神宮前岡上立社祭之、曰出雲建雄神、亦曰天村雲神、為布都斯魂神之子、
 故俗云若宮神殿、其後有勅列官社、

 素戔烏尊、以天村雲剣、(其長八握、李唐尺者二尺五寸餘)、乃上献於天照大神也
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 「剣頭本八龍竝坐」であるから、柄と刃先に八龍が刻まれていたのだろうか。長さは八握、唐尺で二尺五寸余り、約75cmくらい。ただし形状は定かではない。
 このように、どの程度信頼をおけるかはよくわからないが、長さ、形状についての記事がある以上、それを無視して強弁するわけにはいかないので、蛇行剣説は、あくまでも自説として申し述べておくにとどめたい。

 さて、「播磨國風土記」讃容郡に、
・昔、近江の天皇のみ世、丸部(わにべ)の具(そなふ)というものありき。是は仲川の里人なり。此の人、河内の國兔木(とのき)の村の人のもたる剣を買ひ取りき。剣を得てより以後、家擧りて滅び亡せき。然して後、苫編部(とまみべ)の犬猪、彼の地の墟を圃するに、土の中に此の剣を得たり。土と相去ること、廻り一尺ばかりなり。其の柄は朽ち失せれど、其の刃は澁びず。光、明けき鏡の如し。ここに、犬猪、即心に恠しと懐ひ、剣を取りて家に帰り、仍ち、鍛人を招びて、其の刃を焼かしめき。その時、此の剣、申屈して蛇の如し。鍛人大きに驚き、営らずして止みぬ。ここに、犬猪、異しき剣と以為ひて、朝庭に献りき。後、浄御原の朝庭の甲申(注:天武12年 684)年の七月、曾禰連麿を遣りて、本つ處に返し送らしめき。
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 この剣はどうやら蛇行剣と思われる。後に触れるが、冒頭の表の天智、天武期の草薙剣の事件を連想させる。もちろん、上記引用と天智、天武期の盗難・返還事件とは別の話であるが、気になる記事なので紹介させていただいた。


2.(語意編)

『日本書紀』
景行紀四十年是歳
・是の歳に、日本武尊、初めて駿河に至りたまふ。(中略)賊、王を殺さむといふ情有りて(王とは日本武尊を謂ふ)火を放けて其の野を焼く。王欺かえぬと知ろしめして、則ち燧を以ちて火を出し、向焼けて免るること得たまふ。(一に云はく、王の佩かせる剣[草かんむり/聚] 雲(もらくも)、自づからに抽けて、王の傍の草を薙ぎ攘う。是に因りて免るること得たまふ。故、其剣を号けて草薙と曰ふといふ。)
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 草薙剣は元々、天叢雲剣と呼ばれていたが草を薙ぎはらったことによって草薙剣と名づけられたと書かれているが、これは少しおかしい。なぜならば、伊勢に立ち寄った日本武尊に、倭姫命が授けたときはまだ天叢雲剣と呼ばれていたはずなのであるが、記事はすでに、「是に倭姫命、草薙剣を取りて、日本武尊に授けて」と書かれているし、後述するが、伊勢山田原には標剣(みしるしのつるぎ)を祭る草奈伎神社がある。

先学諸氏の「クサナギ」の語意解釈をみてみよう。
『古事記』
・かれ、その中の尾を切りたまひし時に、御刀の前もちて刺し割きて見そこなはせば、都牟羽の太刀あり。かれ、この大刀を取り、異しき物と思ほして、天照大御神に白し上げたまひき。こは草なぎの大刀ぞ。

西宮一民『古事記』(新潮社)
・都牟羽(つむは)
 渦の文様のついた刃の意か。旋毛(つむじ)、旋風(つむじ)、紡錘(つむ)などの「つむ」(渦状)と関係あろう。「羽」は刃。「大刀」は、刀剣の総称。ここでは剣。
 (国史大系版では「都牟刈」)。
・草なぎの剣
 (ヤマトタケル説話に)賊に火攻めに遭ったとき、草を薙いで危機を逃れたという説がある。これは付会説話で、本来は「臭蛇(くさなぎ)」の意。「臭」は強いものにつける醜名(しこな)。「なぎ」は蛇。
小学館版『日本書紀』
・草薙剣
 本来は、「臭蛇(くさなぎ)」(憎いほど強い長物=蛇)から出現した剣の意か。
岩波文庫五巻本『日本書紀』
・草薙剣
 ナギは古くは蛇の意であったと認められる。クサは臭シの語幹。糞(クソ)と同根。猛烈で手のつけられない性質をいう。クサナギノツルギとは、獰猛な蛇から出た剣の意が、最初の意味で、クサナギが草薙に連想されるところから、後に草薙をして火から身を守るという伝説と結びついたのではなかろうか。
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 このように、クサナギを草を薙ぐに結びつけたのは書紀編纂時の付会であって、本来からクサナギの剣と呼ばれていたと考えられるのである。私もこの考えに従う。
 天叢雲剣の名については、注には、漢の高祖の斬蛇剣が引き合いに出されるが、『史記』高祖本紀を読むと、その上に常に雲気があるのは、高祖李が斬った剣でも、斬られた蛇でもなく、高祖李そのものなのである。
・呂后は人々とともに高祖をさがし求め、いつもみつけだすことができた。高祖が怪しんでその理由を問うと、呂后はいった。
 「季のいらっしゃる所には、その上方に常に雲気があります。ですから、その雲気にしたがっていって、いつも季をみつけることができたのです」。
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 天叢雲の着想を史記高祖本紀に求めることはできるかもしれないが、むしろ、神名「天牟羅雲命」との関連ではないかとも思われる。
 
 伊勢山田原の外宮の近くに草奈伎神社があり、標剣が祀られている。剣と草薙とは、スサノヲのヤマタノヲロチ退治事件を媒介にしないと結びつかないのであるから、この草奈伎神社に祀られている標剣とは即ち「草薙剣」のことと考えられる。これは本稿の重要なポイントである。天牟羅雲命とともに次章で検討しよう。




(はじめに)
第一章 天照大神と素戔嗚神話

第三章 草奈伎神社―標剣としての草薙剣
第四章 孝徳天皇期における伊勢と熱田、及び
第五章 沙門道行による草薙剣盗難事件

第六章 遠賀とヤマトタケル
(付)安徳天皇入水事件