(第一章)天照大神と素戔嗚神話

1-1.素戔嗚と八岐大蛇


 『出雲国風土記』からスサノヲに関わる記事を抜き出すと以下のとおり。一見して、ヤマタノヲロチ退治の記事がないことに気がつく。『出雲國風土記』には八束水臣津野命の国引き神話は書かれているが、スサノヲのヤマタノヲロチ退治神話は書かれていない。

■意宇郡
(安来の郷)
・神須佐乃烏命、天の壁立廻りまししき。その時、此処に来まして詔りたまひしく、「吾が御心は、安平けくなりぬ」と詔りたまひき。故、安来といふ。
(大草の郷)
・須佐乃乎の御子、青幡佐久佐日古(あをはたのさくさひこ)命坐す。故、大草といふ。

■嶋根郡
(山口の郷)
・須佐能烏命の御子、都留支日子(つるぎひこ)命、詔りたまひしく、「吾が敷き坐す山口の処なり」と詔りたまひて、故、山口と負せ給ひき。
(方結の郷)
・須佐能烏命の御子、国忍別(くにおしわけ)命、詔りたまひしく、「吾が敷き坐す地は、国形宜し」とのりたまひき。故、方結といふ。

■秋鹿郡
(恵曇の郷)
・須作能乎命の御子、磐坂日子(いはさかひこ)命、国巡り行でましし時、此処に至りまして、詔りたまひしく、「此処は国稚く美好しかり。国形、畫鞆の如きかも。吾が宮は是処に造らむ」とのりたまひき。故、恵伴といふ。(神亀三年、字を恵曇と改む。)
(多太の郷)
・須作能乎命の御子、衝桙等乎与留比古(つきほことをよるひこ)命、国巡り行でましし時、此処に至りまして、詔りたまひしく、「吾が御心は、照明く正真しく成りぬ。吾は此処に静まり坐さむ」と詔りたまひて、静まり坐しき。故、多太といふ。

■神門郡
(八野の郷)
・須佐能袁命の御子、八野若日女(やののわかひめ)命、坐しき。その時、天の下造らしし大神、大穴持命、娶ひ給はむとして、屋を造らしめ給ひき。故、八野といふ。
(滑狭の郷)
・須佐能袁命の御子、和加須世理比売(わかすせりひめ)命、坐しき。その時、天の下造らしし大神の命、娶ひて通ひましし時に、彼の社の前に磐石あり、其の上甚く滑らかなりき。即ち詔りたまひしく、「滑磐石なるかも」と詔りたまひき。故、南佐といふ。(神亀三年、字を滑狭と改む。)

■飯石郡
(須佐の郷)
・神須佐能袁命、詔りたまひしく、「此の国は小さき国なれども、国処なり。故、我が御名は石木には著けじ」と詔りたまひて、即ち、己が命の御魂を鎮め置き給ひき。然して即ち、大須佐田・小須佐田と定め給ひき。故、須佐といふ。

■大原郡
(佐世の郷)
・古老の伝へていへらく、須佐能袁命、佐世の木の葉を頭刺して、踊躍らしし時、刺させる佐世の木の葉、地に堕ちき。故、佐世といふ。
(高麻山)
・神須佐能袁命の御子、青幡佐草日子命、是の山の上に麻蒔き殖ほしたまひき。故、高麻山といふ。即ち、此の山の峯に坐せるは、其の御魂なり。
(御室山)
・神須佐乃乎命、御室を造らしめ給ひて、宿らせたまひき。故、御室といふ。
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 次に、『日本書紀』神代上 第八段一書第二
・是の時に素戔嗚尊、安芸の国の可愛の川上に下り到ります。彼処に神有り。名けて脚摩手摩(あしなづてなづ)と曰ふ。その妻、名けて稲田宮主簀狭之八箇耳(いなだのみやぬしすさのやつみみ)と曰ふ。此の神正に妊身めり。夫妻共に愁へ、乃ち素戔嗚尊に告して曰さく、「我が生める児多しと雖も、生む毎に輙ち八岐大蛇有りて来り呑み、一も存けること得ず。今し吾産まむとす。恐るらくは亦呑まれなむことを。是を以ちて哀傷ぶ」とまをす。素戔嗚尊、乃ち教へて曰はく、「汝、衆菓も以ちて酒八甕を醸むべし。吾、汝が為に蛇を殺さむ」とのたまふ。二神、教の随に酒を設く。産む時に至り、必ず彼の大蛇戸に当り児を呑まむとす。素戔嗚尊、蛇に勅して曰はく、「汝は是可畏き神なり。敢へて饗せざらむや」とのたまひ、乃ち八甕の酒を以ちて口毎に沃き入れたまふ。其の蛇、酒を飲みて睡る。素戔嗚尊、剣を抜きて斬りたまふ。尾を斬る時に至り、剣の刃少しく欠けたり。割きて視せば、剣、尾の中に在り。是草薙剣と号す。此、今し尾張国の吾湯市(あゆち)村に在り。即ち熱田の祝部が掌れる神、是なり。其の蛇を断りし剣、号けて蛇の麁正(あらまさ)と曰ふ。此、今し石上に在り。是の後に、稲田宮主簀狭之八箇耳、児真髪触奇稲田媛(まかみふるくしいなだひめ)を生めるを以ちて、出雲国の簸の川上に遷し置ゑて、長養したまふ。
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 ここでは、スサノヲは安芸の国の可愛の川上に降臨している。ヤマタノヲロチ退治の後に、奇稲田媛を出雲の簸の川上に遷して養うというストーリーである。ヤマタノオロチ退治については、舞台は異なるが、古事記、書紀正文と類似する。
 これらのことから、出雲国におけるスサノヲのヤマタノヲロチ退治とは、記紀編纂者が舞台を出雲に設定して書いたことがわかる。
 おそらくそれは、冒頭引用のように出雲に広範にあるスサノヲおよび御子伝承に拠っているものと思われる。

須佐漁港 五十猛町 韓神新羅神社

 萩市の漁港、須佐にもスサノヲ伝承がある。さらに山陰を出雲へ向かって走ると、大田市五十猛町がある。五十猛神はスサノヲの御子。漁港を見下す位置に韓神新羅神社がある。祭神は須佐之男命、大屋津姫命、抓津姫命。出雲市に入ると佐田町須佐には須佐神社。

出雲市佐田町 須佐神社

 このようにスサノヲ伝承は山陰に濃厚であるから、ヤマタノヲロチ退治も舞台を出雲に設定したということであろう。

 さて、大林太良によると、中国の南半からインドネシアにかけて、ヤマタノヲロチ退治に類似する説話、およびそのバリエーションが残っているという。
 ふたつ引用しよう。
(1)『捜神記』440 大蛇を退治した娘
・東越の国[門構えに虫]中(ビンチュウ)郡(福建省)に、高さ数百丈もある庸嶺という山がある。この山の西北にある洞穴に、長さ七、八丈、胴の周囲が十抱え以上もある大蛇が住みついており、土地の住民は絶えず恐れ続けていた。東冶県の都尉や県内の町の役人は、大蛇による死者があまりに多いので、牛や羊を犠牲に捧げて蛇を祭ったが、どうもよい結果は得られない。大蛇は誰かの夢に現われたり、巫祝を通じたりして、十二、三歳の少女を食べたいと要求するのである。都尉も県民も、こまったことになったと心配したが、大蛇の被害はいっこうにやまない。そこで役人たちが手分けして、奴隷の生んだ娘や罪人の娘を探し出しては養育し、八月一日の祭りの日になると、蛇の穴の入口にまで送って行った。すると蛇が穴から出て来て、がぶりと飲み込んでしまう。こういうことが毎年くり返されて、すでに九人の少女が人身御供にされていた。
さて十年目になったとき、まえまえから探し求めていたが、犠牲とする少女がまだ見つからなかった。すると将楽県の李誕という男の家には娘ばかり六人あり、男の子はなかったがいちばんすえの寄という娘が、犠牲の募集に応じて行きたいと言い出した。(中略)

寄は役人に、よく切れる剣と、蛇を噛む犬とをいただきたいと願い出た。そして八月一日になると、洞穴の近くにある廟のなかに坐り、剣を懐中にかくし持ち、犬を引き寄せていた。また、あらかじめ数石の蒸し米で団子をこしらえ、それに蜜と炒り麦の粉を混ぜたものをかけて、蛇の穴の前に置いた。
すると蛇が頭を出した。頭の大きさは米倉ほどもあり、目は直径二尺もある鏡のようである。米団子の匂いを嗅ぎつけると、まずそれを食べはじめた。
そこで寄は犬を放った。犬はたちまち蛇に噛みつく。寄はうしろから切りつけ、数箇所に傷を負わせた。痛みに耐えかねて、蛇はのたうちまわりながら穴からおどり出し、廟の前まで来て死んだ。(後略)

(2) 浙江省で採録されたバリエーション。その一部を引く。
・姫の話では、妖怪は蛇で、一昨日、矢に当って病気になり寝ているという。チェンは姫といっしょに妖怪の寝台に行きその魔法の武器をとり去ってしまう。それは火にかけると硬くなる鋼の剣だった。蛇がぐっすり寝ているうちに、チェンはその首を斬り落す。しかし蛇は魔力をもっていて、大声にわめいてチェンと戦い始めた。運よくそのとき姫が水の剣をつかみ、それで妖怪を殺した。(大林太良『日本神話の起源』角川新書)
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 スサノヲのヤマタノヲロチ退治はこの(1)(2)を折衷したようなストーリーになっている。(2)で、蛇は魔法の武器を持っていて、それは火にかけると硬くなる鋼の剣である。ヤマタノヲロチは体内の尾に持っていた。
 日高祥『史上最大級の遺跡 日向神話再発見の日録』によると宮崎県にもヤマタノヲロチ伝承があるようだ。あいにく手元にないが、知り合いからお聞きすると、大蛇(ヤマタノヲロチ)を斬る話ではあっても、その尾から剣が出現したことは書かれていない。
 つまり、記紀におけるスサノヲによるヤマタノヲロチ退治神話とは、中国南半からインドネシアにかけて分布する大蛇退治説話に、
・その尾からの剣の出現譚を付加し、
・舞台を出雲に設定して記紀編纂者が創作したもの
と言うことができる。
 
 草薙剣に関連させると、次のことが言えると思う。
1.出雲由来ではないとまでは言えないが、必ずしも出雲由来の剣とは言えないこと、
2.何ゆえに大蛇退治説話を援用したのかを考えたときに、剣の形状が蛇を連想させたものではなかったか、
この2点である。後者については第二章で触れる。


1-2.天照と素戔嗚、素戔嗚と大己貴

 アマテラスとスサノヲの姉弟関係、つまり同族関係についてはどうだろうか?
 アマテラスとスサノヲが姉弟ならば、いまふうに言えば、本家アマテラス、分家スサノヲの関係になる。
(1)
 記紀によると、先に降臨したスサノヲの子孫にあたるオホナムチが開発した国土を高天原から「よこせ」と言う。いわゆる国譲りである。
分家筋(オホナムチ)が、「その八十神を追ひ避くる時に、坂の御尾ごとに追ひ伏せ、河の瀬ごとに追ひ撥ひて(記)」、また、「夫れ葦原中国は本自荒芒び、磐石・草木に至及るまでに咸能く強暴かりき。然れども吾已に摧き伏せ(紀)」てようよう国づくりを成し遂げた。
 本家、高天原の天照大神は、「豊葦原の千秋の長五百秋の水穂の国は、あが御子正勝吾勝々速日天の忍穂耳(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみ)の命の知らす国ぞ(記)」、「高皇産霊尊、皇孫を降し、此の地に君臨はむと欲す(紀)」。
分家筋が苦労して作った国を、本家が「うちの子に治めさせよう」「おれによこせ」と言う不自然な構図になっている。いかにも了見の狭い本家である。
これも、アマテラスとスサノヲを姉弟と設定したために生じた記紀の構成上の欠陥、瑕疵のように思われる。
(2)
 日神、月神の誕生神話は東アジアのみならず広範囲に分布しているが、アマテラスの場合、それは農業、養蚕と深く関わる神であり、イザナギ・イザナミの国生み神話とも連関して、インドネシアから長江周辺に及ぶ、南方の神話伝承に繋がっている。
スサノヲについては、上述の大田市五十猛町大浦の韓神新羅神社の祭神。社頭に掲げられた由緒を読むと、この周辺には、韓島、韓郷山、大浦も以前は韓浦と呼ばれていて、韓半島に因む地名がある。大津市園城寺の三井寺の新羅大明神はスサノヲのことである。「書紀神代上第八段一書第四」には、
・是の時に素戔嗚尊、其の子五十猛神を帥ゐ、新羅国に降り到り、曾尸茂梨(ソシモリ)の処に居す。
【注】ソシモリ、ソシホルは新羅の国号を表した徐耶伐、徐羅伐、徐伐や、現在の京城ソウル(ソフル)に通じる。古代朝鮮語ではソは金 so の意、ホル・フルは城 pur などの意。金城は新羅の王城で、慶州の地。(小学館版『日本書紀』)
このようにスサノヲは新羅との関係が濃い。

 つまり、アマテラスとスサノヲは姉弟(同族)ではなく、もともと出自を異にしていたのであるが、記紀神話創作過程で、スサノヲを加えて、海神三神(綿津見三神、筒之男三神、宗像三女神)のように、日神、月神、スサノヲ神の三貴子誕生神話に仕立てられたのである。

 次に、スサノヲとオホナムチの同族関係についてみてみよう。
■日本書紀神代上第八段正文
・素戔嗚尊の曰はく、「是、神しき剣なり。吾、何ぞ敢へて私に以ちて安かむや」とのたまひ、乃ち天神に上献ぐ。
 然して後に、行き婚せむ処をもとめ、遂に出雲の清地に到りたまふ。乃ち言して曰はく、「吾が心清清し」とのたまふ。彼処に宮を建てたまふ。
 (或に云はく、時に武素戔嗚尊、歌して曰はく、
 や雲たつ 出雲八重垣 妻ごめに 八重垣作る その八重垣ゑ
とのたまふといふ。)乃ち相与にみとのまぐあひして、児大己貴(おほあなむち)神を生みたまふ。
■一書第一
・此の神(素戔嗚尊)の五世の孫、即ち大国主神なり。
■一書第二
・然して後に素戔嗚尊、以ちて妃としたまひて生みたまへる児の六世の孫、是大己貴命と曰す。
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 古事記はスサノヲから大国主までの系譜を記しているし、書紀もまた「一書云」を含めて、オホナムチをスサノヲの御子、あるいは五、六世孫と書くが、冒頭に引いた「出雲國風土記」に、
■神門郡
(八野の郷)
・須佐能袁命の御子、八野若日女命、坐しき。その時、天の下造らしし大神、大穴持命、娶ひ給はむとして、屋を造らしめ給ひき。故、八野といふ。
(滑狭の郷)
・須佐能袁命の御子、和加須世理比売命、坐しき。その時、天の下造らしし大神の命、娶ひて通ひましし時に、彼の社の前に磐石あり、其の上甚く滑らかなりき。即ち詔りたまひしく、「滑磐石なるかも」と詔りたまひき。故、南佐といふ。(神亀三年、字を滑狭と改む。)
 とあり、オホナムチがスサノヲの娘を娶る記事はあるから、入り婿としてスサノヲ族に連なったと考えることはできる。けれども、スサノヲの直系としての御子、あるいは五、六世孫とする記事はない。
 このように、天照とスサノヲの姉弟関係も、スサノヲとオホナムチの直系としての親子関係もまた、記紀編纂時における創作と考えてよい。

 では、なぜアマテラスとスサノヲを姉弟に設定したのだろうか?
 私は、本稿のテーマである「草薙剣」の献上に意味があるのではないかと考えている。
 それは、アマテラス族とスサノヲ族の主従的同盟関係の成立ではなかったか。
 アマテラスは後代の天皇家であるから必然的に主従関係にはなるが、姉弟と設定されることから、服属というより同盟関係ではなかったか。
 アマテラス族とは、八咫鏡に象徴される北部九州勢力である。
 では、スサノヲ族をどうみるか? 記紀は出雲を舞台として草薙剣が出現したヤマタノオロチ退治を書いているのだから、出雲族と考えることもできる。そうすると、アマテラス族とスサノヲ族との主従的同盟関係とは、北部九州勢力と出雲勢力との主従的同盟関係と考えることができる。あるいは、スサノヲの新羅との由縁から新羅族と考えることもできそうだ。いずれであるかについて、またそれがいつ成立したかについては、草薙剣の形状がわかれば、解決の糸口が見えてくるのではないかと思う。 



(はじめに)

第二章 草薙剣の形状と語意
第三章 草奈伎神社―標剣としての草薙剣
第四章 孝徳天皇期における伊勢と熱田 及び
第五章 沙門道行による草薙剣盗難事件

第六章 遠賀とヤマトタケル
(付)安徳天皇入水事件